失われた過去
《ドグラマグラ》を発生させ、発狂した《母体》の男女から生まれた子供はどうなるのか?
燎悟は父のそんな思いつきから生まれた子供だった。
《ドグラマグラ》を発生させ、もう始末するしか救いのない《母体》から採取された精子と卵子から生まれた子供。
生まれながらに胎児を抱える《母体》。
それが宝条燎悟の正体だった。
ある意味燎悟は、その名前の元となった夢野久作氏の著書『ドグラ・マグラ』の登場人物である呉一郎にもっとも近い《母体》なのかもしれない。
父にとって、燎悟はあくまでも研究対象であり、息子ではなかった。
燎悟は生まれながらに、孤独だった。
そんな父の研究所には、時々子供が預けられた。
《母体》となった子供たちだ。
《母体》となり、父の元に預けられた子供のほとんどは、まともな親の元に生まれておらず、まともな育ち方をしていなかった。
唯一の例外が、松岸壱弥だった。
いじめが原因で《母体》となった壱弥は、親や家庭環境が原因で《母体》となった子供たちと比べて落ち着いていた。
燎悟と壱弥は友人となった。
そして、壱弥と同時期に預けられた颯志を2人は弟のように可愛がった。
壱弥と違い、颯志は典型的な“親と家庭環境が原因で《母体》となった子供”だった。
まともに会話も出来ない颯志が少しでも笑顔になるようにと、燎悟と壱弥は奮闘した。
砂の城を作った。
秘密基地を作った。
花冠を作って被ってみた。
訓練のない日は3人で泥だらけになって遊んだ。
そして、お風呂を怖がる颯志を連れて、3人で一緒にお風呂に入った。
お風呂の間、壱弥は颯志に怪異の花束を持たせていた。
燎悟の抱える《胎児》は、他者の本音や隠し事、そして抱える《胎児》を視覚的に燎悟に見せた。
燎悟には、壱弥の花束も、傍らに控える“もう1人の壱弥”も見えていた。
だが、それは颯志も同じだった。
まるで花束が見えているように、大切に扱っている。
「まるでそいつが見えているみたいだな?」
壱弥が頭を撫でると颯志は無表情に言った。
「お風呂の時だけ……お花も、もう1人の壱兄ぃも……燎兄ぃの庭も……」
壱弥と燎悟は顔を見合わせる。
「違う……雨の時もだ……見える…………」
颯志には、水を介して相手の心を読む能力があった。
弓戸彰巳を見た時、燎悟はこう思ったのだ。
“颯志に似た能力だ”……と。
「結丹くんだっけ? 事件が無事解決したらうちの美容室に来てよ。 せっかく綺麗な顔立ちしてるのに、そのボサボサの髪はもったいないよ」
「髪がボサボサでも死なないし。オンラインで仕事してるから日常生活にも支障はないし」
「だったらせめて今だけでも整えさせてよ。俺の美意識がその髪型を許せない」
「芸術家気質って本当に面倒くさいな……僕もWEBデザイナーだからわからないこともないけど……」
「やった! じゃあちょっと整えさせてね。パパパッと結丹くんをイケメンにしちゃうよ」
「しまった! 陽キャの罠にハマった!」
結丹とじゃれ合いながら、結丹の伸ばしっぱなしの髪を整えていく颯志。
一見、微笑ましい光景……だが…………。
店の扉がノックされた。
燎悟が窓から確認する。
壱弥と彰巳だった。
燎悟は美容室の扉を開けて、壱弥と彰巳を招き入れる。
「燎悟、颯志、雁野さん……お待たせしました」
「なんとか間に合った! 俺ってやっぱ天才じゃない?」
「陽キャ嫌い! この無駄な自己肯定感ホント嫌い!」
髪の長さ自体は変わらないものの、ウルフカットに整えられ、今風の髪型になった結丹が喚く。
「イケメンになったじゃねぇか、雁野」
「イケメンとかそういうのホントどうでもいい。早く事件を解決して、自宅に自室に戻りたい!」
結丹が地団駄を踏む。
……沼田晴臣より、いつの間にか事件解決が最優先となっているようだ。
「それなら急ごう。颯志、案内を頼む」
パソコンで園村奈津美の自宅の位置を確認したらしい颯志が、地図を片手に頷く。
壱弥、彰巳、結丹がアクアムーンを出る。
続いて燎悟。
最後に、颯志が美容室に鍵を掛けた。
「燎兄ぃ」
突然の颯志の言葉に燎悟は足を止めて振り返る。
「思い出したん?」
「……やっぱり、そう呼んでたんだ」
ごめんと、颯志が謝罪する。
思い出したのではないらしい。
「改めて……燎悟くん」
颯志は燎悟に向けて何かを放り投げた。
それは、青いイルカのキーホルダーがついた、店の鍵。
「それ、預かってて。よろしくね」
“見えている”燎悟には何も言えなかった。
コクリと頷いて、鍵を握りしめるだけで精一杯だった。
園村奈津美の自宅は、昔ながらの広い日本家屋だった。
しかし、空気が淀んでいる。
壱弥と彰巳はインターホンを押すか相談していたようだが、やがて彰巳があかりの部屋にあった合鍵を差し込んだ。
物音を立てないよう、ゆっくりと扉を開ける壱弥。
途端に、血と肉が腐り、それに排泄物が混じったような噎せ返るような異臭が、玄関に充満した。
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