第三章 暴食の眷属と追放された研究者
第30話:捕食者たちの朝
蛍光灯の青白い光。コーヒーの冷めた匂い。キーボードを叩く音が、まるで雨だれのように延々と続いている。空調の低い唸りが、耳の奥でずっと響いていた。
会社のオフィスだった。
前世の、あの場所。
俺はデスクに突っ伏したまま動けずにいた。体が鉛のように重い。意識の端で、誰かが何かを言っている。聞き覚えのある声。上司の声だ。苛立ちを隠そうともしない、あの声。
お前の代わりはいくらでもいる。
その言葉が、頭蓋骨の内側に反響する。
代わりはいくらでもいる。いくらでも。いくらでも。
だから、お前には価値がない。
お前は、誰にも必要とされていない。
お前が明日消えても、誰も気づかない。
その声を聞いた瞬間、俺の意識は浮上した。
◇
最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。
そして、右腕に絡みつく銀色の髪。
俺はゆっくりと目を開けた。
【商業都市ザラダス】の新居に移り住んで、早くも
天井には、繊細な彫刻が施された
前世のオフィスではない。
蛍光灯の青白い光もない。
冷めたコーヒーの匂いもない。
狭いアパートの一室でもない。
ここは、俺たちの家だ。
俺には今、家族がいる。
あの夢の中の言葉は、もう俺を縛らない。
「ん……」
隣で、銀髪の女が身じろぎする。
シルヴィア。
月光を編んだような長い髪が、枕の上に広がっていた。
だが、俺は知っている。
彼女が、どれほど危険な存在であるかを。
その彼女が今、俺の腕を枕にして、穏やかな寝息を立てている。
まるで、普通の女のように。
いや、普通の女よりも、ずっと無防備に。
「……カナメ様」
シルヴィアの唇が、俺の名を
まだ眠っているのだろうか。それとも、半分だけ目覚めているのか。彼女の長い睫毛が微かに震え、やがて
その瞳が、俺を捉える。
宝石を溶かしたような、深い紫。その奥に、どこか切なげな光が宿っている。
「おはようございます」
シルヴィアは猫のように体を伸ばし、俺の胸に顔を埋めた。彼女の髪が、俺の肌を
「カナメ様の匂い……好きですわ。落ち着きます」
「朝から嗅ぐな」
「いいじゃありませんか」
シルヴィアが顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。
その目には、甘えと、そして僅かな不安が混じっていた。まるで、俺が消えてしまうのではないかと恐れているかのように。
「
「権利って何だよ」
「愛する殿方の匂いを堪能する権利ですわ♪」
その言葉に、俺は少しだけ気恥ずかしさを覚えた。シルヴィアは俺のことを王子様と呼び、自分をお姫様と称している。
否定する気は、ない。
彼女が俺の傍にいることを、俺は望んでいる。
シルヴィアが、くすりと笑う。
その笑みは、見た目だけなら天使のように無垢だ。だが、その奥には、数百年の孤独と飢えが潜んでいる。俺にはそれが見える。彼女の笑顔の裏にある、底知れない闇。誰にも理解されなかった痛み。
「朝のキス、いただいてもよろしいですか?」
シルヴィアの指が、俺の胸元を撫でる。
白くて細い指。爪は短く整えられ、傷一つない。
彼女の過去については、俺はまだ詳しく聞いていない。聞く必要もないと思っている。彼女が話したいと思った時に、話してくれればいい。
だが、一つだけ分かることがある。
シルヴィアにとって、キスは特別な意味を持っている。
キスするたびに、彼女の目には安堵の色が浮かぶ。
まるで、悪夢から覚めた時のように。
「……一回だけだぞ」
「はい」
シルヴィアの瞳が、きらりと輝いた。
子供のような、純粋な喜び。それが、俺には少しだけ眩しかった。
俺は彼女の頬に手を添え、唇を重ねた。
柔らかな感触。微かに甘い味。シルヴィアの体が、ふるりと震える。彼女の手が、俺の背中に回された。まるで、逃がさないとでも言うように。まるで、この瞬間を永遠に留めておきたいとでも言うように。
長いキスだった。
やがて唇を離すと、シルヴィアは蕩けるような笑みを浮かべていた。その目には、薄っすらと涙が
「……これで、今日も生きていけますわ」
「シルヴィアはいつも大袈裟だな」
「大袈裟ではありませんわ」
シルヴィアが、俺の胸に頬を寄せる。
その声が、少しだけ震えていた。
「封印されていた数百年間、
「……」
「誰かの声が聞きたいと、何度願ったか分かりません。誰かに触れたいと、何度夢見たか分かりません。でも、叶わなかった。
シルヴィアの声が、僅かに揺れる。
そして、俺を見上げた。
紫の瞳が、朝の光を反射して輝いていた。その中に、涙の粒が光っている。
「ああ、
「シルヴィア」
「だから、これは大袈裟ではありませんの。カナメ様のキスは、
その時、ドタドタと廊下を駆ける足音が、寝室に響き渡った。
「パパーッ! ママーッ! 起きてーッ!」
勢いよく扉が開け放たれ、金色の旋風が飛び込んでくる。
ルナだ。
金色の髪を振り乱し、狼の耳をピンと立てた少女。背中には小さな翼、お尻からはエメラルドグリーンの蛇の尻尾が生えている。七歳か八歳くらいの外見だが、その目には無邪気な輝きが満ちていた。
「お腹すいたーっ! 朝ごはんーっ!」
ルナがベッドに飛び乗ってきた。
その勢いで、シーツがめくれ上がる。狼の耳がピンと立ち、尻尾がぶんぶんと揺れている。尻尾の先についた蛇の頭も、同じようにうねうねと動き、シャーッと舌を出して催促していた。
「ママは今、パパと大切なご挨拶の途中でしたのよ」
シルヴィアが、少しだけ残念そうな声を出す。だが、その目は優しく微笑んでいた。
「ごあいさつ?」
「ええ。朝のおはようのキスですわ」
「チュウ!?」
ルナの目が、きらきらと輝く。
「ルナもチュウするー!」
そう言うなり、ルナは勢いよく俺の頬に唇を押し付けた。
ぶちゅっ、と景気のいい音が響く。
「パパ、おはよー!」
満面の笑み。太陽のような笑顔。
その笑顔を見ていると、この子がつい最近まで実験体109番として廃棄されかけていた存在だとは、とても信じられなかった。
誰にも必要とされなかった命。失敗作と呼ばれ、捨てられた子供。体が崩壊しかけて、激痛に泣き叫んでいた少女。
今は俺の腕の中で、こんなにも温かく笑っている。
こんなにも、幸せそうに。
「ああ、おはよう。ルナ」
俺はルナの頭を撫でた。
ふわふわとした金髪の感触。温かな体温。狼の耳が、気持ちよさそうにぴくぴくと動く。尻尾の蛇も、嬉しそうに目を細めていた。
この子を、守らなければ。
この笑顔を、失わせるわけにはいかない。
「ママにもチュウ!」
ルナがシルヴィアの頬にもキスをする。ぶちゅっ、とまた景気のいい音。
「ママも、おはよー!」
「おはよう、ルナ。今日も元気ですわね」
シルヴィアがルナを抱きしめ、その金髪を撫でる。
神話級の捕食者と、元キメラの少女。どちらも人間ではない。だが、この光景は、どこにでもある母と子の姿そのものだった。温かくて、優しくて、当たり前の幸せ。
これが、俺たちの家族だ。
俺はベッドから起き上がり、窓の外を見た。
朝の光が、庭の薔薇を照らしている。赤、白、ピンク。色とりどりの花が、朝露に濡れて輝いていた。空は青く、雲一つない。穏やかな朝だ。
だが、俺の心は穏やかではなかった。
シルヴィアの足元に目をやる。
彼女の影が、以前より僅かに薄くなっている。一週間前と比べて、明らかに。神話級の捕食者である彼女の本体とも言える影が、日に日に薄れていく。
俺たちは今、飢えている。
魔力の供給が追いついていないのだ。今のランクでは高ランクの魔物を狩れない。高品質の食材を手に入れられない。シルヴィアも、ルナも、そして刹那も。
このままでは、いずれ限界が来る。
俺は拳を握りしめた。
何とかしなければ。この家族を守るために。この幸せを失わないために。
俺は、何でもする。
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