第三章 暴食の眷属と追放された研究者

第30話:捕食者たちの朝


 微睡まどろみの中で、俺は夢を見ていた。


 蛍光灯の青白い光。コーヒーの冷めた匂い。キーボードを叩く音が、まるで雨だれのように延々と続いている。空調の低い唸りが、耳の奥でずっと響いていた。


 会社のオフィスだった。


 前世の、あの場所。


 俺はデスクに突っ伏したまま動けずにいた。体が鉛のように重い。意識の端で、誰かが何かを言っている。聞き覚えのある声。上司の声だ。苛立ちを隠そうともしない、あの声。


 お前の代わりはいくらでもいる。


 その言葉が、頭蓋骨の内側に反響する。


 代わりはいくらでもいる。いくらでも。いくらでも。


 だから、お前には価値がない。


 お前は、誰にも必要とされていない。


 お前が明日消えても、誰も気づかない。


 その声を聞いた瞬間、俺の意識は浮上した。



   ◇



 最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。


 まぶたの裏に、朝陽ちょうようの淡い光が透けている。遠くで小鳥がさえずり、風が窓辺のカーテンを揺らす微かな音がした。庭の薔薇の香りが、かすかに漂ってくる。甘くて、優しい香り。


 そして、右腕に絡みつく銀色の髪。



 俺はゆっくりと目を開けた。


 【商業都市ザラダス】の新居に移り住んで、早くも二月ふたつきが過ぎていた。


 天井には、繊細な彫刻が施されたはりが見える。葡萄ぶどうつると、戯れる天使たち。職人が何日もかけて彫り上げたであろう、精緻な装飾。高い天井、大きな窓、柔らかなシーツの感触。


 前世のオフィスではない。

 蛍光灯の青白い光もない。

 冷めたコーヒーの匂いもない。

 狭いアパートの一室でもない。


 ここは、俺たちの家だ。

 俺には今、家族がいる。


 あの夢の中の言葉は、もう俺を縛らない。



「ん……」



 隣で、銀髪の女が身じろぎする。


 シルヴィア。


 月光を編んだような長い髪が、枕の上に広がっていた。白磁はくじの肌、形の良い唇、長い睫毛まつげ。朝の光に照らされたその横顔は、息を呑むほどに美しい。まるで、絵画から抜け出してきた女神のようだ。


 だが、俺は知っている。


 彼女が、どれほど危険な存在であるかを。


 月蝕の神喰らいエクリプス・イーター


 暴食の眷属プレデターの頂点に君臨する、神話級のネームド。

 その彼女が今、俺の腕を枕にして、穏やかな寝息を立てている。


 まるで、普通の女のように。

 いや、普通の女よりも、ずっと無防備に。



「……カナメ様」



 シルヴィアの唇が、俺の名をつむいだ。


 まだ眠っているのだろうか。それとも、半分だけ目覚めているのか。彼女の長い睫毛が微かに震え、やがて紫水晶アメジストのように輝く瞳がゆっくりと姿を見せた。


 その瞳が、俺を捉える。

 宝石を溶かしたような、深い紫。その奥に、どこか切なげな光が宿っている。



「おはようございます」



 とろけるような声だった。


 シルヴィアは猫のように体を伸ばし、俺の胸に顔を埋めた。彼女の髪が、俺の肌をくすぐる。絹のように滑らかな感触。そして、すぅっと深く息を吸い込む。その仕草は、まるで飢えた獣が獲物の匂いを嗅ぐようでもあり、甘える子猫のようでもあった。



「カナメ様の匂い……好きですわ。落ち着きます」



「朝から嗅ぐな」



「いいじゃありませんか」



 シルヴィアが顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。


 その目には、甘えと、そして僅かな不安が混じっていた。まるで、俺が消えてしまうのではないかと恐れているかのように。



わたくしはカナメ様のものですもの。カナメ様の匂いを嗅ぐのは、当然の権利ですわ」



「権利って何だよ」



「愛する殿方の匂いを堪能する権利ですわ♪」



 その言葉に、俺は少しだけ気恥ずかしさを覚えた。シルヴィアは俺のことを王子様と呼び、自分をお姫様と称している。


 否定する気は、ない。

 彼女が俺の傍にいることを、俺は望んでいる。


 シルヴィアが、くすりと笑う。


 その笑みは、見た目だけなら天使のように無垢だ。だが、その奥には、数百年の孤独と飢えが潜んでいる。俺にはそれが見える。彼女の笑顔の裏にある、底知れない闇。誰にも理解されなかった痛み。



「朝のキス、いただいてもよろしいですか?」



 シルヴィアの指が、俺の胸元を撫でる。

 白くて細い指。爪は短く整えられ、傷一つない。


 彼女の過去については、俺はまだ詳しく聞いていない。聞く必要もないと思っている。彼女が話したいと思った時に、話してくれればいい。


 だが、一つだけ分かることがある。


 シルヴィアにとって、キスは特別な意味を持っている。

 キスするたびに、彼女の目には安堵の色が浮かぶ。


 まるで、悪夢から覚めた時のように。



「……一回だけだぞ」



「はい」



 シルヴィアの瞳が、きらりと輝いた。


 子供のような、純粋な喜び。それが、俺には少しだけ眩しかった。

 俺は彼女の頬に手を添え、唇を重ねた。


 柔らかな感触。微かに甘い味。シルヴィアの体が、ふるりと震える。彼女の手が、俺の背中に回された。まるで、逃がさないとでも言うように。まるで、この瞬間を永遠に留めておきたいとでも言うように。


 長いキスだった。


 やがて唇を離すと、シルヴィアは蕩けるような笑みを浮かべていた。その目には、薄っすらと涙がにじんでいる。



「……これで、今日も生きていけますわ」



「シルヴィアはいつも大袈裟だな」



「大袈裟ではありませんわ」



 シルヴィアが、俺の胸に頬を寄せる。

 その声が、少しだけ震えていた。



「封印されていた数百年間、わたくしは闇の中にいました。意識はあるのに、体は動かない。声も出せない。誰にも触れられない。誰の温もりも感じられない」



「……」



「誰かの声が聞きたいと、何度願ったか分かりません。誰かに触れたいと、何度夢見たか分かりません。でも、叶わなかった。わたくしはただ、闇の中で待ち続けることしかできなかった」



 シルヴィアの声が、僅かに揺れる。

 そして、俺を見上げた。


 紫の瞳が、朝の光を反射して輝いていた。その中に、涙の粒が光っている。



「ああ、わたくしはもう一人ではないのだと。」



「シルヴィア」



「だから、これは大袈裟ではありませんの。カナメ様のキスは、わたくしにとって……」



 その時、ドタドタと廊下を駆ける足音が、寝室に響き渡った。



「パパーッ! ママーッ! 起きてーッ!」



 勢いよく扉が開け放たれ、金色の旋風が飛び込んでくる。


 ルナだ。


 金色の髪を振り乱し、狼の耳をピンと立てた少女。背中には小さな翼、お尻からはエメラルドグリーンの蛇の尻尾が生えている。七歳か八歳くらいの外見だが、その目には無邪気な輝きが満ちていた。



「お腹すいたーっ! 朝ごはんーっ!」



 ルナがベッドに飛び乗ってきた。


 その勢いで、シーツがめくれ上がる。狼の耳がピンと立ち、尻尾がぶんぶんと揺れている。尻尾の先についた蛇の頭も、同じようにうねうねと動き、シャーッと舌を出して催促していた。



「ママは今、パパと大切なご挨拶の途中でしたのよ」



 シルヴィアが、少しだけ残念そうな声を出す。だが、その目は優しく微笑んでいた。



「ごあいさつ?」



「ええ。朝のおはようのキスですわ」



「チュウ!?」



 ルナの目が、きらきらと輝く。



「ルナもチュウするー!」



 そう言うなり、ルナは勢いよく俺の頬に唇を押し付けた。

 ぶちゅっ、と景気のいい音が響く。



「パパ、おはよー!」



 満面の笑み。太陽のような笑顔。


 その笑顔を見ていると、この子がつい最近まで実験体109番として廃棄されかけていた存在だとは、とても信じられなかった。

 誰にも必要とされなかった命。失敗作と呼ばれ、捨てられた子供。体が崩壊しかけて、激痛に泣き叫んでいた少女。


 今は俺の腕の中で、こんなにも温かく笑っている。

 こんなにも、幸せそうに。



「ああ、おはよう。ルナ」



 俺はルナの頭を撫でた。


 ふわふわとした金髪の感触。温かな体温。狼の耳が、気持ちよさそうにぴくぴくと動く。尻尾の蛇も、嬉しそうに目を細めていた。


 この子を、守らなければ。

 この笑顔を、失わせるわけにはいかない。



「ママにもチュウ!」



 ルナがシルヴィアの頬にもキスをする。ぶちゅっ、とまた景気のいい音。



「ママも、おはよー!」



「おはよう、ルナ。今日も元気ですわね」



 シルヴィアがルナを抱きしめ、その金髪を撫でる。


 神話級の捕食者と、元キメラの少女。どちらも人間ではない。だが、この光景は、どこにでもある母と子の姿そのものだった。温かくて、優しくて、当たり前の幸せ。


 これが、俺たちの家族だ。


 俺はベッドから起き上がり、窓の外を見た。


 朝の光が、庭の薔薇を照らしている。赤、白、ピンク。色とりどりの花が、朝露に濡れて輝いていた。空は青く、雲一つない。穏やかな朝だ。


 だが、俺の心は穏やかではなかった。


 シルヴィアの足元に目をやる。


 彼女の影が、以前より僅かに薄くなっている。一週間前と比べて、明らかに。神話級の捕食者である彼女の本体とも言える影が、日に日に薄れていく。


 俺たちは今、飢えている。


 魔力の供給が追いついていないのだ。今のランクでは高ランクの魔物を狩れない。高品質の食材を手に入れられない。シルヴィアも、ルナも、そして刹那も。


 このままでは、いずれ限界が来る。


 俺は拳を握りしめた。


 何とかしなければ。この家族を守るために。この幸せを失わないために。


 俺は、何でもする。



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