浜木綿の花 -救済編-
@Tetto_
第0章 そして、今
第1話 その少女は
低い唸り声のようなローター音が、機体の内壁を震わせる。
金属の床から伝わる振動が自らの靴底を通じて脛を痺れさせ、風を切る轟音が途切れなく続く。
密閉された輸送ヘリの内部は、油と金属の匂い、隊員の息遣い、装備の金具が揺れる小さな音で満たされる。
顔の防護ヘルメットが、周囲を無機質に反射している。
全てが緊張を積み重ね、空気をより重たくする。
壁には簡易の座面が下ろされ、6人がじっと座っていた。
沈黙。
――しかし、ただ一人だけ、その中で場の空気に馴染んでいない。
自分の隣に座る少女。
名は、「ましろ」。
小柄な白髪の少女。
和装という、今向かう場所にはあまりに場違いな姿であることは、誰からの目からも明らかだった。
周囲の隊員からすれば違和感の塊だが、本人はどこ吹く風だ。
浮いていることすら気にする素振りもない。
だが、一番目を引くのは彼女の特徴的な部分だろう。
それは耳。猫耳。人の頭の上に猫の耳がついている。
それによく見れば腰元からは猫のしっぽも生えている。
尻尾は座席に沿ってだらりと垂れ、時折ぴくんと揺れ動く。
それが見えているのは、この中では悠ひとりだけ。
限られた人にしか見えていないその秘密が、ましろとの関係性だった。
ましろは座席で小さな足をパタパタと揺らしていた。
振動に合わせるでもなく、退屈を紛らわせるみたいに。
ふわりとした髪が動きに合わせて揺れ、肩口をかすめる。
その仕草はまるで幼子のようだが、底知れぬ力を宿しているのを、悠は知っていた。
「のう、悠」
轟音にかき消される声。唇が寄る。
隣にいた男が身を傾けて耳を近づけた。
少女の目は瞳が淡く光り、闇を透かす灯のように思えた。
「…ん?」
顔を寄せると、ましろは嬉しそうに瞳を細め、子どもが内緒話をするような調子で囁く。
「任務が終わったら――甘味処に寄るんじゃぞ?」
そうつぶやいた後、猫耳が柔らかく揺れた。
ゆるい会話に思わず息が漏れる。
「…こんな状況でよく甘いものの話ができるね」
「ふふん。大事なことじゃろ?」
「…わかったよ」
口調は飄々としているのに、その声色はほんのりと甘い。
周囲の隊員たちに視線を向けることもない。まるで"他人"は存在していないかのようだ。
壁の明かりが心もとなく機内を照らし、彼女の横顔を淡く縁取る。
悠の視線がそこに吸い寄せられそうになるのを、意識して抑え込んだ。
その様子を、周囲に座る4人の隊員が無言で見ていた。
うち3人は一般隊員、もう1人は今回の任務の分隊長。
視線は冷ややかで、観察対象を値踏みするような色がある。
ブリーフィングで聞かされた情報――"力を持つ異常存在"と、理由不明の外部協力者――その事実だけなら、まだ理解できる。
だが、なぜこの少女が、これほどまでに悠と呼ばれる男に寄り添っているのか。
なぜ、収容すべき異常存在が任務に参加しているのか。
なぜ、外部の者が自分たちと同じ装備でここに居るのか。
…隊員たちには見当もつかなかった。
理屈では割り切れない"気味の悪さ"だけが胸に残る。
ただ、任務のため。
それだけが、ここの空気をつなぎとめていた。
ましろは視線を感じたのか、ぴんと耳を立てて鼻を鳴らす。
しっぽもいら立ちを示すように軽く揺れた。
ヘッドホンのチャンネルを、気怠げに切り替える。
「…じろじろ見るでない。おぬしらにわしを測る資格はないぞ」
隊員は何も言わず、顔を逸らす。
振動で揺れる装備の音が空白を埋める。
分隊長が鋭くにらみ、口を開く。
「おい、遊びじゃない。私語は慎め」
低く、威圧する声。
その言葉に、ましろが睨み返す。
分隊長は言葉とは裏腹に、ほんのわずか身体を強張らせた。
ヘルメットの内側で呼吸が一拍遅れ、銃を持つ腕に力が入る。
目の前の存在を、反射的に"対象"として捉え直したのが分かった。
二人の視線が正面からぶつかる。
一瞬、ヘリの振動が遠のいたように感じられた。
「…なんじゃ?ただ話しておるだけじゃろう。何か不都合でもあるのか?」
その問いには分隊長は答えない。
沈黙だけが彼女への答えだった。
ヘリ内部の轟音が逆に強調され、重苦しい間が生まれる。
悠は口を開きかけて、やめた。
ここで言葉を挟めば、どちらの側にも踏み込むことになる。
それは今、最も避けるべき選択だった。
代わりに、悠は自分から少し離れていたましろの手に、そっと手を重ねた。
力は込めない。ただ、そこにあることを伝える。
ましろは、なおも分隊長を睨み続ける。
恐れた様子はなく、耳も立ったまま。
しばらくして、鼻をふんと鳴らすと、悠の手に浅く指を絡めた。
それからようやく視線を切り、悠の方へと向き直る。
悠は、彼女の小さな手の温もりを確かめるように、静かに息をついた。
彼女の体温は温かく、指先から心臓にまで伝わってくるようだった。
その事実がどれほど異様で、どれほど特別か――――彼自身が一番よく知っていた。
任務は単純だと聞かされていた。
寂れた谷間の村に存在する古い"遺物"の回収。
危険度は低い。
周辺での異常存在の発生記録なし。
…少なくとも、ブリーフィング時には。
悠の胸中は安堵よりもむしろ嫌なざわつきに満ちていた。
これまで数度の訓練や観察で経験してきた"違和感"。
事前情報と現実の間に横たわる隙間。
そこにこそ、本当の危険が潜んでいると知っている。
隊員たちの黒い装備は、見た目ほど重装ではない。
軍用のプレートほど分厚くはないが、軽量で機動性に富み、整備が行き届いている。
銃器、計測器、救急セット――無駄がない。
座った姿勢のままでも、ただの訓練兵ではないことが一目で分かる。
彼らは戦闘という現実を日常として受け入れた者の目つきをしていた。
ただし、彼らの視線は時折、悠とましろに突き刺さる。
警戒と猜疑と、あるいは羨望と恐怖が入り混じった複雑な眼差し。
ヘリの中の密閉空間は、それを一層際立たせた。
――その眼差しは一様ではなく、ただ"同族とは思われていない"という事実だけが残る。
耳元の通信端末がノイズを吐き、パイロットの乾いた声が通る。
『目標地点まであと3分』
感情のないカウントダウンが、戦場の境界線を引く。
隊員たちは息を詰め、銃を持つ指が固まった。
「…もうすぐじゃのう」
隣でましろが、悠の袖を小さく引き、瞳を細めて微笑んだ。
その微笑みはまるで遊び場に着くような軽やかさがあった。
「とっとと終わらせて帰ろうぞ?」
悠はわずかに笑みを返しつつも、首を横に振った。
指先が自然と銃のグリップを探し、冷たい感触が掌に落ち着きを与える。
「…気を抜くんじゃないぞ、ましろ」
「わかっとるわかっとる」
彼女はニッと笑う。その顔はまるで猫のようだった。
無邪気と自信とを入り混ぜた、独特の表情。
それを見て、悠はそっと手を撫でたあと、ヘルメットのフェイスカバーを下ろす。
ましろを除いて、機内の空気は張り詰めた。
隊員たちの目は前方に据えられ、指先は銃の安全装置に触れている。
全員がまるで同じ型に押し込められた機械仕掛けの人形のようで、そこにただ一人、柔らかに微笑むましろが異質だった。
機体の振動が強まり、悠の心臓もまたそのリズムに合わせるように鼓動を速めていた。
胸中の不安と高揚が同居し、汗ばむ手のひらを、確かめるように持ち手へ握り込む。
木々が迫り、着陸の衝撃が機体を揺らす。
金属がきしむ音とともに機体が沈み、地を掴んだ瞬間、胸の奥に硬い緊張がひとつ落ちた。
数秒後にドアが開き、冷たい空気がなだれ込んでくる。
重い空気に慣れた肺が、一瞬ひやりと凍り付くように驚いた。
外の風は鋭く、遠くの森の匂いと土の湿り気を運んでくる。
途端に訪れる静寂。
ヘリのローターが遠ざかるにつれ、耳に残るのは風の音と、自分たちの呼吸だけになる。
銃を抱え直す音、装備の金具がわずかに触れ合う音がやけに響く。
分隊長が周囲を警戒し、隊員たちに視線を配ってからハンドサインを送る。
降下ポイントから少し離れた平地に降り、隊列を組み徒歩で森へと進む。
地面はまだ冷たく、草と土がブーツの下で軽い音を鳴らす。
森に入ると月の光は弱まり、足音が重く反響する。
鳥の声が途中で途切れ、風の音だけが妙に強調されて聞こえた。
森を進むにつれ、隊員の表情は硬さを増していく。
木立を出ると小さな村が見えてくる。
ぐるりと村を囲むように、腰くらいの高さの石の柵がある。
隊員たちはサッと乗り越えて村に入る。ましろはひょいと飛び越えた。
石と木で作られた、古めかしい家々が出迎える。
けれど煙突から煙は上がらず、道端の手押し車は斜めに倒れたまま止まっている。
井戸の桶が転がり、玄関の扉がすこし開いていた。
そこには、途中で放り出された暮らしだけが残っていた。
「周囲、警戒」
分隊長の手信号で隊列がほどけ、二人一組で建物を手際よく当たっていく。
民家、教会、家畜小屋。
あるべきものはあるが、雰囲気だけが異質だ。
食器は乾き、椅子は倒れ、聖書は開かれたまま。
干し草はあるのに家畜はいない。
鍋の中には黒ずんだ残り物が固まっていた。
――――人影だけが、綺麗に抜け落ちていた。
周囲の捜索を行っている間、ましろは悠の後ろにトコトコついている。
「…ましろ、何か感じるか?」
前方から視線はそらさず、声だけで問う。
肩越しにちらりと振り返ると、彼女はしっぽをゆらりと揺らしていた。
「なんもないのう。この辺りには人っ子ひとりおらん」
ましろの柔らかい声。
だが、ヘリにいた時よりかは幾分か真剣だった。
彼女の耳が、ぱた、と微かに角度を変えた。
「じゃが、妙な気配は感じておる。すぐに表れるわけではなさそうじゃが…用心せい」
悠はさっとうなずき、再び辺りを警戒する。
捜索が進み、一度合流する。
分隊長が状況を確認する。
村の中に人がいない。
異常な静寂と空白が村全体を覆っていた。
…ただ、ひとつだけ例外があった。
隊員の一人が、教会のさらに外れ、小さな木造の小屋があることを見つける。
木々が密に生い茂り、上空からでは発見できなかった。
森に隠されるように建っているその姿は、まるで隠すために意図して配置されたかのようだった。
悠が目を凝らすと、その小屋は森の影に沈み込むように建っていた。
その建物の周囲には誰の姿もない。村を縫うように流れる風が不気味に響く。
分隊長に続き、その小屋の捜索に進む。
隊員たちは銃を構え直し、互いに頷き合う。
空気は一段と重く張り詰め、靴音すらも抑えられるほど慎重な足取りになった。
近づくにつれて、異様さが濃く漂ってくる。
普通の小屋であれば漂うはずの生活の匂いがなく、代わりに湿った石と金属の冷たい臭気が鼻を突いた。
入口を押し開けると、内部は打ち捨てられた納屋のように埃をかぶっていた。
だが、床の一角が崩れ落ち、その下から覗いているものはあまりに場違いな光景だった。
白いコンクリートの壁。
村の木造や石造りの建物とはまるで調和しない、無機質で幾何学的な直線が露出している。
そこには異様な鉄扉が埋め込まれ、ほとんど劣化を見せていなかった。
人の手による建築物のはずなのに、場違いすぎて安心感がない。
「反応、この下からです」
計測器を掲げた隊員が低く告げる。
画面に浮かぶ数値は安定せず、波打つように乱れていた。
もう一人の隊員が、別の計測器をかざす。
「…周囲環境、グリーン。進入可能です」
悠とましろは顔を見合わせる。
彼女の耳がぴくりと動き、表情がわずかに険しくなる。
「…ここか」
言葉を漏らすましろ。しっぽが左右に小さく揺れた。
悠は短く息を吐き、彼女の肩に軽く触れる。
手のひらから伝わる体温は確かで、その温かさがわずかな安心を与える。
「気を抜くんじゃないぞ」
「分かっておる。おぬしらこそ、気を付けるがよい」
その声音には普段の無邪気さはなく、鋭い緊張が混じっていた。
分隊長が鋭く目をやり、手で突入の指示を出す。
鉄扉の先は、想像していた小さな防空壕ではなかった。
白いコンクリートの廊下がまっすぐ延び、湿気が肌にまとわりつく。
壁には不自然なまでに新しい配線が走り、所々には規則的に配置された換気口が並んでいた。
「…こんなの現地報告書に載ってなかったぞ」
「全体が異常発生している可能性がある。注意しろ」
隊員が口々に漏らし、一歩一歩踏みしめる。
清潔で、異様に新しい。時が止まったかのような劣化のない壁面。
…ところどころ、何かを引きずった跡や、何かをぶつけた跡があちこちにある。
ここ最近でできたもののようだ。
どれも、奥へ奥へと進んでいくようだった。
照明はなく、壁のランタンが明滅する。
ちらつき、まるで何かの拍動のように点滅を繰り返していた。
低くこもった声の響きが、廊下の奥から届く。
ざわめきのような祈り声と、靴底に伝わる音。
階段。さらに下。揺らめく光がかすかに揺れている。
足音を殺して進むと、汗ばむ背中を湿気が撫でた。
降下するたびに声ははっきりと輪郭を持ち、息遣いが肌に触れるように近づいてくる。
階段を降り切ると、コンクリートに囲まれた広間が現れた。
村の規模からは信じられない広さ。
柱が天井を支え、床は磨かれているように滑らかで、そこに人の影が無数に重なっていた。
中央には小さな何か――遺物――が置かれ、その周囲を若い住民が手を繋いで円陣を組んでいた。
彼らの目は虚ろで、口は一様に祈りの言葉を吐き続けている。
足を踏み入れた6人は直感で理解した。
この異常な光景を作り出している、その根本。
空気は澱み、呼吸をするごとに胸の奥がざらつく。
遺物からはただならぬ悪意が滴っているのを、全員が無言で察した。
周囲に目を凝らし、観察する。
円陣の外には大人や年老いた者が両腕を広げ、低い声で祈りを繰り返す。
さらにその外周には供物のように、鍬、人形、食器、玩具、古い聖書、電池、衣服の切れ端までもが積み上げられていた。
生活の断片が供物として並べられているようで、「村の暮らしそのものを捧げている」かのようだった。
その光景は、信仰なのか狂気なのか判別がつかなかった。
しかし、その目的というのはまるで謎だ。
誰に祈っているのか、何を望んでいるのか。空虚な響きだけが広間を満たしていた。
分隊長が隊員と悠に目配せし、頷き合う。
銃口が上がる。全身に汗が滲み、緊張で指が硬直する。
ましろはその様子を見て、何も言わず一歩下がって腕を組み、口を尖らせて広間を見渡した。
彼女の瞳が怪しく光り、祈りの光景を映し出す。
「止まれ! 手を頭の上に!」
怒声が儀式に割り込み、祈りが途切れる。
声が止まった瞬間、広間の空気がさらに重たく沈み込む。
一瞬の静寂。隊員の心臓の鼓動が聞こえるほどの沈黙。
次の瞬間、祈り手が一斉にこちらを睨んだ。
感情の宿らない眼差しなのに、殺意だけが先にこちらへ届くようだった。
分隊長は臆さず、繰り返す。
「もう一度言う、止まれ――」
――返答は行動だった。
最も近い者が武器も持たずに突進し、遠い者は農具や家具を乱暴に掴み、全力で駆けてくる。
床を蹴る足音が一斉に鳴り響き、血の匂いを予感させる衝動が押し寄せてきた。
円陣の中の者たちは見向きもせず、再び祈りを始めた。
祈りは逆に大きくなり、広間全体を震わせるほどのうねりとなった。
「くっ…!」
一斉射撃。
だが襲ってくる住民は怯まない。
撃たれたはずの部位から血が滲んでも、彼らの顔には痛みの色すら浮かばず、ただ憑かれたように突進してくる。
人間としての理性が剥がれ落ち、肉体だけが命令を受けて動いているような異様さに、隊員たちの喉が乾いて鳴った。
倒しきれず、何人かが近づいてくる。
手足を狙って数人を止めようとするが――しかし、限度がある。
肩を撃たれた者がよろめきながらもこちらに手を伸ばしてくる姿は、理屈を超えた悪夢のようだった。
悠は銃を下ろし、前に出ると、流れるように組み打つ。
振りかぶってくる拳をいなし、勢いを利用して床に叩きつける。
鈍い感触すら無視して、襲い掛かる相手を、次も、次も。
前列にいるため、複数人が一度にのしかかるように押し寄せてくるが、悠は迷わず立ち向かい、依然として無力化していく。
悠は息を切らすこともなく、襲い来る者を制しながら仲間にむけて叫んだ。
「儀式を止めろ!これは危険だ!」
肌の裏側でざらつく。魂に触る嫌悪。
あの遺物は人を繋げ、何かへ回路を開いている。
住民に接触するたびに、皮膚の下に黒い棘が刺さるような不快感が走った。
遺物から滲み出すのは、意志とも呪いともつかぬ、黒い悪意。
その存在は広間全体を覆い、祈る声とともに膨れ上がっていく。
分隊長と隊員が円陣へ銃を向ける。
照準器越しに見える光景は異様で、狙いを定めることすらためらわせるほどだ。
だが引き金は引かれ、銃声が狭い広間に反響する。
しかし、弾丸は標的に届かなかった。
金属音も火花もなく、軌道そのものがねじ曲げられる。
まるで見えない手が、弾道をつまんで逸らしているかのようだった。
弾道が歪み、空気がひずむような、かすかな唸りが生じる。
壁に弾痕が刻まれるたびに隊員たちの顔が蒼白になっていく。
隊員たちに、冷たい悪寒が走る。
背筋に氷を流し込まれるような感覚。
――これは、守っている。
遺物が、円陣そのものを。儀式全体を。
「なぜだ…!」
空になったマガジンを交換しつつ、分隊長が振り返る。
ましろは、じっとその様子をただただ見ていた。
分隊長は汗がにじみ、焦りが隠せない。
「貴様!早く止めろ!」
ましろに怒鳴る。
だが、彼女は怯まず、息をひとつ吐いた。
その仕草には、人間らしい迷いも焦燥も感じられない。
「まだわしの出る幕ではない。それに、これはおぬしらの得るべき学びじゃ」
瞳が冷ややかに細められる。達観したような、どこか人の身ではない視線。
分隊長の胸に刺さるような鋭さがあり、その目を受け止めるだけで冷気が走る。
「任務中だぞ!早くしろ!」
再び怒鳴られたましろは分隊長を睨み返す。
口角をわずかに下げ、声を低くして吐き出すように言った。
「貴様は対応を間違えた。先に撃つべきはあの遺物か、輪っかの方じゃった」
「何が起こるか、よく見ておけ」
「それが貴様の選択の結果じゃ」
その言葉は刃のように鋭く、広間全体を切り裂くかのようだった。
言葉を突き刺された分隊長は嫌悪を隠さず銃を乱射する。
だが一発も通らない。
撃てば撃つほど、"隔てる壁"のような力が厚みを増していった。
弾痕は周囲に刻まれるが、円陣の内部には一切届かない。
その異様さに隊員たちの呼吸が乱れる。
悠は襲撃してきた住民を制圧しきる。
その後、遺物の方を見ると、"嫌な圧"を感じる。
何かを察し、叫ぶ。
「ダメだ!もうすぐ来る、退避しろ!」
鼓動が速まり、胸が焼けるように熱くなる。
「…っ! 命令はまだ――」
「死にたくはないだろう!」
分隊長の言葉をかき消し、悠は怒鳴った。
その声に押され、隊員たちが後退する。
靴底が床を擦る音が一斉に鳴り響き、緊張が走る。
刹那、広間の空気が変わった。
冷気が凍りつくように肌を刺し、鼓膜に圧力がかかる。
息を吸うだけで肺が締め付けられた。
遺物に黒い光が収束し、音を飲み込みながら一点に集まる。
光はねじれ、渦を巻き、重力そのものが歪んだように周囲を引き込む。
耳鳴りがして、思考が乱される。
誰もが声を出せずに後退する中、光は脈動し、広間の中心で異様な静止を迎えたかと思うと――
――弾けた。
衝撃が広がる。
空気の層が破れたような轟音が鳴り響き、全身を強打される。
弾き飛ばされたのは悠と隊員たちだけで、住民も遺物も微動だにせず、彼らだけが壁に叩きつけられた。
空気が震え、光が収まった後――円陣を組んでいた住民が、力を抜いたように一斉に崩れ落ちた。
重なり合う音が鈍く響き、広間に粉塵が舞い上がる。
その姿はまるで糸が切られた人形のようだった。
「…死んだ、のか…?」
「…儀式は失敗か?」
分隊長が呻きながら体を起こす。
頬には煤がつき、荒い呼吸が胸を大きく上下させていた。
悠は浮遊する遺物を見た。目に映るそれはなおも脈動しているように感じられ、不気味な残光を漂わせていた。
「いや…これは――」
輝きが失せ、遺物が床に落ちる。
軽い音が広間にこだまし、思わず誰もが息を飲む。
安堵する間もなく、倒れていた数人が痙攣し始め、黒く膨れ上がった。
布越しに皮膚が波打ち、筋肉が勝手に盛り上がり、骨が内部から押し広げられるように軋む。
耳障りな音が止まらず、隊員の背筋を凍らせた。
皮膚の下で何かが蠢き、関節が逆へ折れ、顔の輪郭は崩れていく。
目と口が不規則にずれ、余計に増え、祈りの残響みたいな呻きが裂けた口から漏れた。
異形へと変わる過程は、誰も目を背けられないほど遅々として進み、凄惨であった。
「…"異常存在"…!」
分隊長が思わず漏らす。その声は震え、銃を握る手も揺れていた。
誰もが顔色を失い、言葉を忘れていた。
そのうちの一人が、思わず声を出す。
「なにが…安全圏だ…!」
声はかすれ、恐怖で喉がつぶれていた。
「…判断を誤った」
悠が言うと、異形たちがこちらを"見た"。瞳だけではない。
魂ごと撫でるような視線に全員の呼吸が一瞬止まる。
体の奥を冷たい手で掴まれる感覚。
隊員が引き金を引く。
しかし、弾丸は肉を裂かず、吸い込まれるように消える。
跳弾の音もなく、ただ消滅する。
背後にいる誰かの息が、ひゅっと止まる音がした。
コンクリートに鉤爪の音が刻まれ、削り取られる粉塵が煙のように舞い上がる。
分隊長が「退け!」と叫ぶ。
その時、ましろがおのずと前に出た。
悠は息を飲み、その背中をただただ見ていた。
体は小さいはずなのに、立っているだけで場の空気を支配する。
「貴様…!」
止めようとする声も無視し、彼女は一歩も退かずにじっとする。
異形があっという間に近づき、2本の腕が振り下りる。
ましろは動かない。
黒く不気味な腕がその体に触れる直前。
ましろが軽く手を払った。
瞬間。
空気が裂けるような感覚。
振り下ろされかけた腕ごと、相手の胴が途中からなくなった。
消えた断面は空気に溶けるように淡く揺れ、残りだけが鈍い音を立てて落ちた。
もう二体が飛びかかる。空気を切り裂く音とともに迫るが、ましろはただ溜息まじりに腕を振る。
それだけで、埃を払うように、怪物たちは消えていった。
落ちる音すら残さず、空虚だけを置き去りに。
ただの薄暗い地下室に、音が戻る。
自分たちの荒い呼吸と、鉄の匂いを思い出す。
反応ができなかった隊員が、かろうじてうめく。
「ば……化け物……」
銃口は下ろしていたが、指先は引き金の上で震えていた。
さっきまで怪物を見ていた目が、今はましろだけを捉えて離さなかった。
「ま…こんなとこじゃろうな」
そう、ぽつりと呟くましろ。
肩をすくめながらも、その声音にはどこか遠くを見ているような冷ややかさがあった。
悠の横顔を見やりつつ、彼女は隊員に向かって淡々と続ける。
「これが今回の選択の結果じゃ。言わんでもわかるじゃろうが…わしがおって良かったのう」
その言葉には感情はなかった。
まるで報告するかのように、事実を突きつける声。
隊員たちの鼓動を凍り付かせるには十分だった。
ふと、ましろが黒い泥のようなもので汚れた手を、「うぇ〜…」と言いながらぬぐい払い、悠に近づく。
その指先からはまだ微かに異形の残滓が滴っているように見えた。
隊員の一人が思わず息を飲む音が聞こえた。
「汚れてしもうた…わしも飛び道具欲しいのう」
「…帰ったら洗おっか」
そう、悠が柔らかく返す。
そのやりとりは、いつもの彼らの柔らかい日常だったはずだが、
周囲の隊員にとってはむしろ異様さを強調していた。
「そうじゃの。服も洗濯せんとなぁ…ちゃんと落ちるじゃろうか?」
ましろはくすっと笑いながらも、尻尾を軽く揺らし、不安を隠すように呟く。
分隊長は言葉を失ったまま、ただ睨みつけていた。
怒りか、恐怖か、それすら判別できないほどの感情がその眼差しに揺れていた。
「…悠、分かったじゃろ? 慈悲だけではどうにもならん場合がある。初めから遺物を撃ち抜いておればこうはならんかった」
ましろの言葉をまっすぐと受け止めたあと、頷く。
「そうかもしれない。けれど――あの遺物は人を繋いでた。先に壊していたら、ここにいる全員が犠牲になってたかもしれない」
悠は自省するように、でも、自分の確からしさを信じているようだった。
その声はかすかに震えていたが、瞳は真っ直ぐだった。
「…それに」
ふと、無力化された住民のうち、気絶したもの達を見る。
彼らにはまだ息はある。唇がかすかに動き、呻きのような音を漏らしている者もいる。
生きている。
確かに、生きている。
「…助かった命も、ここにある」
その言葉は広間にこだまし、冷たい空気を震わせた。
ましろは、ふっと笑った。頬の泥を袖で拭いながら、わずかに首をかしげる。
「ほんとに…おぬしらしいのう」
この冷たい異質な空間に、ここだけ温かい空気が流れているようだった。
他の誰も言葉を発せず、隊員たちはその異様な光景をただ眺めるしかできなかった。
分隊長は震える手で遺物を収容ケースに入れる。
遺物は、表面には無数の傷跡が走り、長い年月に使い込まれたような置物の時計だった。
だが、まるでその中に"納められたもの"がまだ生きているかのように、ケース越しに、脈のような微かな震えが伝わってきた。
恐怖も嫌悪も押し隠し、任務だけを遂行する手つき。
彼の指先は震えを隠せず、しかし動作は淀みなく規則通り。
隊員としての習性が、恐怖よりも先に体を動かしていた。
悠たちは地上へ戻る。冷たい空気が肺を洗う。
鉄と湿気に満ちた地下とは違い、外気は澄みきっていて、夜の冷たさが痛いほどに心臓を締めつける。
村は相変わらず静かだ。
風が建物の隙間を通り抜ける音ばかりで、人の気配は最後まで戻ってこなかった。
周囲の安全を確認し、分隊長がフレアを打ち上げる。
後続処理の部隊を呼び込む合図だ。
風を切る音とともに、真紅の点が尾を引きながら夜空へと昇った後、ぱっと花開く。
赤い光が谷間を染め、倒壊した柵や空虚な窓を照らし出す。
その光景は一瞬だけ戦場を祭礼のように見せ、すぐにまた闇に飲まれていった。
回収班の到着まで、悠たちは村外れで待機することにした。
沈黙を破るのは時折吹きすさぶ風の音と、遠くでかすかに聞こえる鳥の声。
隊員たちの肩越しに見える森は濃い影を落とし、不気味に揺れている。
小さな火が起こされ、温かさが隊員たちを輪にする。
炎がぱちぱちと音を立て、火花が夜気に散った。
赤い明かりが顔の陰影を深くし、それぞれの表情を強調する。
隊員は口を閉ざし、分隊長は眉をひそめたまま火を見つめている。
悠とましろの間にだけ、かすかな体温のやり取りがあった。
そっと体を寄せ合い、ましろが悠に話しかけている。
湿った枝がぱちりと弾け、その音だけが2人の空間を隔てていた。
分隊長がチラリと部下を見やる。
全員無事という、上出来すぎる結果。
――それでも、先ほどの異様な光景は、報告書に起こせる気がしなかった。
思わず、重たい口を開く。
声はかすれていたが、その奥には抑えきれない苛立ちと動揺が感じられた。
「…理解できん。あれだけの力があるのに、なぜすぐ止めなかった」
「…任務に反発した、と書くしかないだろう」
その言葉は火の爆ぜる音にかき消されそうになりながらも、確かに皆の耳に届いた。
隊員の数名が無言でましろを見やる。
悠と話していたましろは、ゆっくりと顔を向け、言葉の主に視線を向ける。
炎に照らされて瞳が揺れ、黄金色の冷たい光を帯びていた。
「わしが先に出れば、おぬしらは力に頼るだけの駒になる。それでは次は立ち行かんじゃろ」
いらだちではなく、ただ見下ろすような達観。
分隊長の反応を見るように間を置き、さらに重ねる。
「任務が全てではない。対処の知見を得ることも成果の一つ。そうではないか?」
「目の前の危機を取り除くだけでは学びは残らん」
「それに、この任務を"安全圏"と判断したのはAIO自身。わしは呼ばれただけじゃ。察知できなんだのはおぬしらの落ち度よ」
ましろは淡々と、だが突き放すように言い放った。
焚火がその横顔を冷たく照らし出す。
「…命があるだけ、ありがたいと思え」
最後の一言は刃のように鋭かった。
だがそれは、えぐるようなものではなく、現実を突きつけられた感覚。
隊員たちは反論できず、ただ息を呑んだ。
分隊長もまた言葉を失い、視線を伏せる。
悔しさと苛立ちが喉に残っているのは確かだが――
全員が生きている。
それは、紛れもない結果だった。
そのやり取りの後、ましろが悠の方を向く。
火と月に照らされて、その瞳がきらりと光る。
「手が冷たくなってしもうた…温めてくれんか?」
「…除染したあとでね」
「なんじゃ…別にちょっとくらい…」
不満そうに言いながら、語尾はすぼんで、ムスッとした表情で手を火にかざして温め始めた。
少女の両手は、怪物の残滓でところどころが黒くくすんでいた。
それでも少女は平然としていた。
煤のような斑点が残る指を広げ、火に透かしては「あたたかいのう…」と呟く。
なんてことないその仕草すら愛嬌を漂わせる。
「のう。帰ったら甘味処じゃぞ。…わかっておるな?」
「…ああ。分かってるよ」
「約束じゃからな。こんな窮屈な任務…甘いものがないとやっとれん」
ましろが冗談めかして言うと、隊員の一人がちらりと視線を向ける。
緊張した場の空気に、そのやりとりが場に合わない温かさを差し込んでいた。
隊員の1人が、火に照らされた悠たちを見て、思わず小さく呟いた。
「…あんた、あいつの何なんだ?」
声は静かだが、探るような雰囲気。
悠は少し考えてから、火にくべられた枝が弾ける音を聞き、肩をすくめて答えた。
「…何でもないよ。ただ、隣にいるって決めただけだ」
そこに迷いはなかった。
だが、隊員にはその答えが理解できなかったのだろう。
隊員は何も言わず、視線を火へ戻した。
分隊長も黙ったまま、赤い光の向こう側を見つめ続けている。
沈黙が輪の中に戻り、火の爆ぜる音と、猫のしっぽが服を擦る音だけが残った。
夜気は冷たいのに、それ以上の温かさがここにある。
ましろが小さくあくびをして肩に寄りかかり、悠はそっと受け止める。
隊員たちは言葉を失い、その光景を見てさらに複雑な表情をした。
やがて遠くでエンジン音が近づいてきて、森の上をゆっくり滑ってくる。
任務は、終わった。
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