第六話 鉄の値段と奴婢の値段
山辺との水争いを解決してから数日後の早朝。
私は館を抜け出して、村の様子を見に行くことにした。
やはり、この朝ぼらけは好きな時間だ。
非常に清々しい気持ちになることができる。
いっとき、何も考えず、この瞬間を味わうことができた。
さて、民の暮らしがどう変わったのか、この目で確かめよう。
朝靄の中、農民たちが田へ向かう姿が見える。
以前より足取りが軽い気がする。自分の土地を持った者たちは、特に早起きになったという。
「若様!」
ヤツカが私に気づいて駆け寄ってきた。
「こんな朝早くから、どうされたんです?」
「みんなの様子を見に来たんだ」
私の答えに、ヤツカは感激したような顔をした。
「若様……そこまで俺たちのことを……」
村に入ると、変化は一目瞭然だった。
竪穴住居は相変わらず粗末だが、修理の跡が見える。
屋根の穴は塞がれ、壁も補強されている。
ある家の前を通りかかると、老婆が幼子に粥を食べさせていた。
以前見た時より、明らかに米の量が多い。
「おはようございます」
私が声をかけると、老婆は慌てて頭を下げた。
「わっ、若様! こんな朝早くに……」
「お子さんは元気そうですね」
「はい、おかげさまで。今年は米も多く取れましたから」
子供がにこにこと笑っている。
その顔色も、以前より良くなっている気がした。
しかし、すべてが改善されたわけではない。
田の端で、一人の痩せた男が作業をしていた。
額には焼印。奴婢の印だ。
彼は私に気づくと、慌てて土下座した。
「顔を上げて」
男は怯えたように震えている。
「名前は?」
「……奴婢に名はございません」
その答えに、胸が痛んだ。
農地改革で民の暮らしは少し良くなった。
でも、奴婢制度は何も変わっていない。
私にはまだ、この制度を変える力がない。
でも、いつか必ず……。
昼過ぎ、市の立つ広場へ向かった。
月に二度開かれる、物々交換の場だ。
「いらっしゃい! 新しく漉いた麻布だよ!」
「干物と米を交換してくれる人はいないか!」
活気のある声が飛び交う。
以前より、交換される品物の量が増えている気がする。
ある場所で、人だかりができていた。
中心にいるのは、見慣れない行商人だった。
「鉄の農具はいかがかな? 吉備の国から持ってきた上物だよ」
商人の前には、鋤や鎌が並べられている。
どれも鉄製で、我が領内の木製や石製の農具とは比べ物にならない。
「いくらだ?」
一人の農民が尋ねた。
「米なら一俵、布なら十反というところだ」
周囲から溜息が漏れる。
まだまだ高価だ。
私は商人に近づいた。
「その鉄は吉備から?」
「おや、若様。そうですよ。吉備は鉄の産地でしてな」
吉備。西の強国だ。
いずれ、交易を増やさねばならない相手でもある。
その時、商人の後ろで何かが動いた。
縄で繋がれた少女がいる。
私と同じくらいの年齢だろうか。
髪は乱れ、服もボロボロだが、目だけは鋭く光っている。
「それは……」
「奴婢ですよ。西の方で戦があってね」
商人があっさりと答える。
「鉄一つと同じ値段です。買いますか?」
鉄と人間が同じ値段。
この時代の現実が、改めて胸に突き刺さる。
私は懐から、母にもらった小さな勾玉を取り出した。
「これと、鉄の農具を交換してもらえないか」
商人の目が光った。
「ほう、上質な翡翠ですな。これなら……そうだな、五つと交換しましょう」
「わかった」
私は鉄の鋤を受け取ると、近くにいたヤツカを呼んだ。
「ヤツカ、これを使って」
「え? 若様、これは……」
「みんなで使えばいい。鉄の農具なら、もっと効率よく耕せる」
ヤツカは感激で言葉を失った。
その時、縄に繋がれた少女と目が合った。
何か言いたそうな目だった。
でも、私には彼女を買う余裕はない。
いや、買ったところで、どうすればいいのか。
悔しさを噛みしめながら、その場を離れた。
館に戻ると、タジが待ち構えていた。
「若様! 奥方様が勾玉をどうしたか、お聞きになっていますよ。
あの子もそういう歳になったのかと、嬉しそうでしたが、
私に、変な女に騙されぬようしっかり見張るようにとのことでした。」
「申し訳ない。
「あ……そうですか。何と報告したものか?」
「なかなか渡せずにいるようですとでも、言っておいて貰えないか。
これ以上は農民たちが自ら農具を買えるようにならなければならない。
いつまでも支援するつもりはない」
「いや、そのことではありません。あまりグズグズすると葛城あたりから姫をあてがわれるかも知れませんぞ」
タジの説教が始まった。
でも、その顔はどこか優しい。
しばらくして、長脛彦が、父のところに尋ねてきたときに、時代感を共有する彼に尋ねてみた。
「奴婢制度を、なんとかできないでしょうか」
「難しいな」
長脛彦は渋い顔をした。
「確かに我々には、納得できないところのある制度であるが、この時代では、この制度によって社会が成り立っている」
「制度を変えるには、まず社会が豊かにならねばならん。飢えがなくならなければ、奴隷制度をなくすことはできない」
「でも、それまでの間に……」
「わかっている。だが、急激な変化は混乱を招く」
彼は私の肩に手を置いた。
「お前はまだ若い。焦るな。着実に力を蓄えろ」
その言葉は正しい。
でも、あの少女の目が忘れられない。
数日後、再び市が立った。
私は遠くから様子を窺っていた。
あの商人がまた来ている。
そして、あの少女もまだ売れ残っていた。
「もう半値でいいぞ!」
商人が叫んでいる。
でも、誰も手を出さない。
その時、人だかりを掻き分けて、ヤツカが現れた。
手には米俵を担いでいる。
「その子を、俺が引き取る」
周囲がざわめいた。
「ヤツカ、正気か?」
仲間が止めようとする。
「俺も昔、飢饉の時に捨てられそうになった。でも、村が救ってくれた」
ヤツカは少女を見た。
「だから、今度は俺が誰かを救う番だ」
取引が成立し、縄が解かれた。
少女は信じられないという顔でヤツカを見上げた。
「名前は?」
「……ない」
「じゃあ、ミツキだ。今日は三日月が綺麗だから」
少女――ミツキは、初めて小さく微笑んだ。
後で聞いた話では、ミツキは西の小豪族の娘だったという。
戦で一族が滅び、奴婢に落とされたのだ。
でも、ヤツカの家では実の娘のように大切にされた。
「若様のおかげで米も増えましたから、家族が一人増えても大丈夫です」
ヤツカはそう言って笑った。
数か月後、ミツキはすっかり元気になっていた。
畑仕事を手伝い、よく笑うようになった。
「ニギ様! 見てください! 稲がこんなに実りました!」
彼女が嬉しそうに報告してくれた。
手首にはまだ縄の跡が残っているが、その目はもう、あの日のような絶望の色はない。
一人を救うことしかできない。
でも、一人でも救えたなら、それは無駄じゃない。
制度を変えるには時間がかかる。
でも、人の心は少しずつ変えていける。
ヤツカのような者が増えれば、いつかこの国も変わるかもしれない。
その日を信じて、私は一歩ずつ前に進むしかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます