有明に咲きて

新川山羊之介

有明に咲きて

 ホッチョタケタカ、

  ホッチョ、

   タケカタ。


 遠くでくちばしが誰かを探している。あの鳴き声の主は、何という名だったか。僕はおもむろに空へ目をった。天を覆う墨染の衣に、浮雲がぽつんと胡乱うろんな影を落としている。辺り一面はひたすらに深い闇である。僕はまぶたを開いているのだろうか。それとも、閉ざしているのだろうか。途端に、得体の知れない心細さが、虻のように皮下を這いずった。思わず腕の中の花束をぎゅっと胸に抱き寄せる。風に掻き消されてしまいそうなほど儚い花の香が、慎ましく喉ぼとけをかすめてゆく。たとえ見えずとも、それが花束であるということだけは、この闇中でたった一つ確かな真実だった。だが、僕は一体どこでこんなものを拾ったのだろう。いくら海馬を走らせても、生温かいまどろみに足を取られて進めない。なんとも不気味な微風に抗うように、僕はただ歩いていた。否、歩かされていた。どこへ向かっているのかはわからない。だが、もし1ミリでも後戻りしようものなら、足場ごと果てしない夜の淵へ崩れ落ちてしまうような気がしていた。

 「御父おとっさん、重いかい」

 そんなささやきでも聞こえてきそうだ。先生が語ってくれた青坊主の話が脳裏をよぎる。――僕は人殺しなのかもしれない。その罰として、途方のない奈落の迷路を延々と彷徨い続けているのだろうか。もしくは、濃い墨汁で満ちた瓶底へ眼球だけが沈められていて、肉塊は濛々もうもうたる夜霧の中にだらりと吊るされているのかもしれない。だとすれば、この花束は僕の十字架か?

 

 闇夜をたどって行くと、先の方に一本の巨樹が、大地に杭を打ち込むように立っているのが見えた。真っ暗の中でもその存在を知ることが許されたのは、樹の辺りだけほのかな銀の光が差していたからだ。ささやかな祝福の光は、樹木を現世から切り取り、その手のひらに包んでこっそりと彩っている。僕は光の泉へ足を踏み入れると、滑らかな幹に背を預けて、盛り上がった根本に座り込んだ。……耳鳴りが聞こえる。靴のかかとは擦り切れていた。疲労はあんぐりと口を開けて容赦なく四肢を呑みこんでいく。不条理に置かれた者の行く末が、諦念と逃避であることなど、19世紀の昔から定められているのだ。僕もその摂理の例外ではなかった。……もう、疲れた。怯えるのも、歩き続けるのも。

 そより、そより。腕の中に小さく揺れるものがある。風に揺蕩いながら僕を諭しているようだ。ふと視線を下ろすと、かすみ草に囲まれたやわい八重咲の花が目に飛び込んできた。――桔梗ききょうだ。白絹と深紫の脆い花びらは露に湿り、清らかな瑠璃が滲んでいた。その雫のてっぺんには、プリズムが眠っている。この一粒の玻璃珠はりすは、きっと天の川から流れ落ちてきたのだろう。はっとして、もう一度空を仰いだ。雲が漂っている。風が凪いでいる。そして、木の葉から月が零れている。

「綺麗だね」

 そう口にしたのは、秋の始まりの頃だった。あの日も息を呑むほど大きな月が煌々こうこうと照り映えていた。萩の声が網戸の格子をすり抜けて、1LDKの狭い畳に転がっていた。暖かな常夜灯の下で、本当に僕の目を奪っていたのは――。

 ああ、そうか。僕はあなたに会いに来たんだ。

 その瞬間、潮が一斉に引き、褐色の砂浜がつまびらかに姿を現した。僕は立ち上がり、走り出す。あの銀の光が道しるべだった。


 ――


「綺麗だね」

「ね。なんか、お団子食べたくなっちゃう」

「食いしんぼうだな。『月が綺麗ですね』の返しはさ……」

「ふふっ。でも、今年も買ってきてくれたんでしょう? あの、帰り道の和菓子屋さんで」

 あなたは窓辺に肘をついて、わずかに小首をかしげた。

「そりゃ買ってきたけど、こんな時間に食べたらさすがに太るよ」

「あ、ひどーい。そういうこと言っちゃダメなんだから」

 あなたは、ふっと視線を逸らしながら、腰まで届く長い髪の毛先を指先でくるくると弄んだ。薄桃の細やかな鱗を思わせる爪に、ほんの少し拗ねた色が混ざっている。確かに、あの言い方はちょっと無神経だったかもしれない。

「じゃあさ、代わりに百人一首やろうよ」

 気を取り直して、と言いたげにあなたは上目遣いで笑ってみせた。そういうところが、たまらなくずるい。

「二人で?」

「そう。和歌を味わうのがメインで。月といえば、やっぱり古典文学でしょう?」

「いいけど……。なんで昔の人ってそんなに月が好きだったんだろうな。和歌とか特に、月を詠んだものばかりだし」

「そんなの今の人だって変わらないわ。あなただって、さっき“綺麗”って言ったじゃない。私たちだって、千年後には『昔の人』なのよ」

 窓外の遥かを眺めるあなたの頬に銀の光が伝い、その肌は神秘と純真のあわいに透き通っていた。白妙の衣も、こんな澄明をたたえていたに違いない。

「ときどき考えるの。月の裏には何があるんだろうって」

「クレーターだらけでボコボコしてるらしいけど」

「ふーん。ボコボコしてる月でも、私は好きよ。その影の中に、何か隠れてるかもしれないじゃない? 」

 そうやって、春風の気まぐれのように地を撫でながら、あなたはいつも僕をうつつから幻想へと連れ去ってしまう。その花嵐を、僕は心のどこかで待っていた。

「たとえば……月の裏に誰にも知られずひっそりと佇む、古びた書院があったとして。ところどころ破れた障子の端が、風の通るたび、星灯りにざわめくの。褪せた畳の上には、誰かが遠い昔に地球を詠んだ恋の歌が、和綴じのままそっと置かれていて、筆跡だけが、音のないそらに息づいている――そんな場所が本当にあったら、なんだか、ロマンチックじゃない?」

「うん。……それはとても、綺麗だね」

 気がつけば、その言葉が口をついていた。僕の肩にあなたの頭がちょこんと乗る。さらり、とつやのある黒髪が琴の旋律のようにたわんだ。あなたは目尻を下げて、少し気恥ずかしそうにはにかんだ。

「ええ、死んでもいいわ」

 その声は、戯れのようでいて、どことなく芯のある誠実さを帯びていた。 僕は言葉を失ったまま、蒔絵のごとく高雅な光を宿した玉鏡をうつろに見上げていた……。


 ――


 幅の広い並木道をどこまでも駆け抜けた。この道を僕は知っている。もうじき水汲み場が顔を覗かせるはずだ。そう、ここで。立ち止まると、苔の生えた石畳が手招くように右横へ伸びていた。心なしか、水のせせらぎが耳朶じだに響く。息を吸って、吐く。僕は静謐に守護された石畳の上にゆっくりと足を踏み入れた。

 一歩、一歩と近づくたびに、予感は確信へと変わっていく。月はなだらかな弧を描きながら、傾いてゆく。


 キョッ、キョキョキョキョ。

 甲高い、ほととぎすの鳴き声が閑寂を裂いた。僕は振り返る。そこに、月光の積もった四角い墓石がじいっと僕を見つめていた。


 ――どうして忘れていたんだろう。違う、僕は、忘れたかった。全て、一夜の幻であってほしかったんだ。

 腕の中の花束を墓前に手向ける。そのとき、自分の手が震えていることにようやく気がついた。止まったカレンダー、止められなかった赤信号、ガードレールの鼻を刺す鉄の臭い、やすりのようなこしあんの舌触り、押し花の栞に結ばれた、紅の組紐……。

 次に意識と体が繋がったときには、じょろじょろと蛇口から水が流れていた。水栓をしかと締め、重いバケツを持って、元来た細道を行く。欅の柄杓ひしゃくで掬った水を墓石にかけると、枝が伸びるようにゆるやかな筋がいくつも浮かび上がり、やがて一本の樹になった。濡れた花崗岩の冷ややかな光沢は、どことなくあなたの黒髪を思わせた。

 また夏が終わろうとしている。月を取り零したあの神木の葉は、その重みに耐えることも叶わず、いずれ静々と土にまみれるだろう。そして蕾が芽吹いて、咲いて、散って、葉が茂って、落ちて。眩いほどの残酷さを秘めながら、それでも至極当然に、ありとあらゆるものは絶えず移ろってゆく。何度季節が過ぎ去ろうとも、僕はきっとここへ来る。その流れの狭間に、あなたのぬくもりが確かに在ったから。

 月を、見ていた。あの満月よりもずっと遠く、誰も知らないところへいってしまった、あなたを想って。燦然さんぜんたる円輪の正体は、和仕立ての黒衣に穿たれた空洞か、あるいは、波間を旅する小魚たちの群像か……。そんなことを書き綴ったとしたら、あなたはどんな顔をするのだろう。

 ――もしかすると、あなたは月へ還ったのかもしれない。ならばかつての書院で、和歌を口ずさんでいることだろう。お気に入りだった袖珍本をかたわらに置き、井草の香を懐かしみながら、あなたがその胸に芽吹かせ、抱きしめてきた言の葉の面影を、思い浮かべているのだろう。 

 ぼんやりと月が膨らんで溶けてゆく。すぐに弾けて、頬を伝った。僕の目を覚まして、地平の彼方へ消えていった。

 徒花の桔梗はまだ冴えた東雲しののめとおぼろげに重なっている。

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