有明に咲きて
新川山羊之介
有明に咲きて
ホッチョタケタカ、
ホッチョ、
タケカタ。
遠くで
「
そんな
闇夜をたどって行くと、先の方に一本の巨樹が、大地に杭を打ち込むように立っているのが見えた。真っ暗の中でもその存在を知ることが許されたのは、樹の辺りだけ
そより、そより。腕の中に小さく揺れるものがある。風に揺蕩いながら僕を諭しているようだ。ふと視線を下ろすと、かすみ草に囲まれたやわい八重咲の花が目に飛び込んできた。――
「綺麗だね」
そう口にしたのは、秋の始まりの頃だった。あの日も息を呑むほど大きな月が
ああ、そうか。僕はあなたに会いに来たんだ。
その瞬間、潮が一斉に引き、褐色の砂浜が
――
「綺麗だね」
「ね。なんか、お団子食べたくなっちゃう」
「食いしんぼうだな。『月が綺麗ですね』の返しはさ……」
「ふふっ。でも、今年も買ってきてくれたんでしょう? あの、帰り道の和菓子屋さんで」
あなたは窓辺に肘をついて、わずかに小首をかしげた。
「そりゃ買ってきたけど、こんな時間に食べたらさすがに太るよ」
「あ、ひどーい。そういうこと言っちゃダメなんだから」
あなたは、ふっと視線を逸らしながら、腰まで届く長い髪の毛先を指先でくるくると弄んだ。薄桃の細やかな鱗を思わせる爪に、ほんの少し拗ねた色が混ざっている。確かに、あの言い方はちょっと無神経だったかもしれない。
「じゃあさ、代わりに百人一首やろうよ」
気を取り直して、と言いたげにあなたは上目遣いで笑ってみせた。そういうところが、たまらなくずるい。
「二人で?」
「そう。和歌を味わうのがメインで。月といえば、やっぱり古典文学でしょう?」
「いいけど……。なんで昔の人ってそんなに月が好きだったんだろうな。和歌とか特に、月を詠んだものばかりだし」
「そんなの今の人だって変わらないわ。あなただって、さっき“綺麗”って言ったじゃない。私たちだって、千年後には『昔の人』なのよ」
窓外の遥かを眺めるあなたの頬に銀の光が伝い、その肌は神秘と純真のあわいに透き通っていた。白妙の衣も、こんな澄明を
「ときどき考えるの。月の裏には何があるんだろうって」
「クレーターだらけでボコボコしてるらしいけど」
「ふーん。ボコボコしてる月でも、私は好きよ。その影の中に、何か隠れてるかもしれないじゃない? 」
そうやって、春風の気まぐれのように地を撫でながら、あなたはいつも僕を
「たとえば……月の裏に誰にも知られずひっそりと佇む、古びた書院があったとして。ところどころ破れた障子の端が、風の通る
「うん。……それはとても、綺麗だね」
気がつけば、その言葉が口をついていた。僕の肩にあなたの頭がちょこんと乗る。さらり、とつやのある黒髪が琴の旋律のようにたわんだ。あなたは目尻を下げて、少し気恥ずかしそうにはにかんだ。
「ええ、死んでもいいわ」
その声は、戯れのようでいて、どことなく芯のある誠実さを帯びていた。 僕は言葉を失ったまま、蒔絵のごとく高雅な光を宿した玉鏡をうつろに見上げていた……。
――
幅の広い並木道をどこまでも駆け抜けた。この道を僕は知っている。もうじき水汲み場が顔を覗かせるはずだ。そう、ここで。立ち止まると、苔の生えた石畳が手招くように右横へ伸びていた。心なしか、水のせせらぎが
一歩、一歩と近づくたびに、予感は確信へと変わっていく。月はなだらかな弧を描きながら、傾いてゆく。
キョッ、キョキョキョキョ。
甲高い、ほととぎすの鳴き声が閑寂を裂いた。僕は振り返る。そこに、月光の積もった四角い墓石がじいっと僕を見つめていた。
――どうして忘れていたんだろう。違う、僕は、忘れたかった。全て、一夜の幻であってほしかったんだ。
腕の中の花束を墓前に手向ける。そのとき、自分の手が震えていることに
次に意識と体が繋がったときには、じょろじょろと蛇口から水が流れていた。水栓を
また夏が終わろうとしている。月を取り零したあの神木の葉は、その重みに耐えることも叶わず、いずれ静々と土に
月を、見ていた。あの満月よりもずっと遠く、誰も知らないところへいってしまった、あなたを想って。
――もしかすると、あなたは月へ還ったのかもしれない。ならばかつての書院で、和歌を口
ぼんやりと月が膨らんで溶けてゆく。すぐに弾けて、頬を伝った。僕の目を覚まして、地平の彼方へ消えていった。
徒花の桔梗はまだ冴えた
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