第13話・〈職業体験〉

神奈川県箱根

 川渕さんと米さんに叩き起こされた朝。微みの中、始発の汽車に乗り上坂を離れ、陽が東の空から昇った頃には箱根やった。荘厳な旅館を囲む木々が臭ゆかしさを表している。老舗旅館なだけあるなぁ、と思うのと同時に労働のために来ているという憂鬱な気持ちもある。

「千智。ここが箱根有数の老舗旅館夕翠楼、貴方の職菜体験の場です」

「な、なぁ川渕さん。一個だけ聞きたいことあるんやけど」

 昨日詳細資料を見た時に思ったが聞き損ねた疑問。

「何でこんなお高い旅館にしたん?」

「......何で、って私がこの夕翠楼にお世話になったからですよ。昨日も説明しましたが、礼儀作法などとても厳しいのでお忘れなきよう」

「い、嫌やぁーっ!」

 本っ当に嫌や。礼儀作法ほど苦手なものはない。

 そんなおれを川渕さんは口角を上げ見て、「応援していますよ、千智。......あ、正巳さん。お茶して帰りましょう」

「いいけど、千智くんの顔が......」

 慰めるようにおれの顔を見てくれた閏米さんに心の底で感謝しながら、川渕さんを向く。

「性格悪過ぎやろ。何でそんなこと言えるん?」

「この同県鎌倉在中者が......」と口が動きそうになったが、何とか耐えた。


同時刻・入間県

 目の前に年季が入っている黄ばみ満れた、元は白であったことが分かる工場が立っている。とうとうこの日、この時間がやってきてしまった。俺の顔は強張っていることだろう。

 神奈川県鎌倉在住の川渕さんと閠米さんが帰宅するついでに「職業体験の場へ送り届ける」

と連行されたチサ。

「お前は逃げないから大丈夫だな」と信頼?の元、掃途についてしまった我が師。取り残された俺は平安時代の武官のような制服を身に継う美術学校生の温情で駅まで送ってもらった。そんな朝だった。

 朝の出来事にしがみ付き、緊張と不安と一球の期待を抱え事務室に顔を出す。

「お、おはようございます。本日より一週間職業体験をさせていただきます、音羽渉と申します......」

 声を掛けさせていただいた事務員に少し待つよう言われ辺りを見回す。農の穏やかな陽

 光と爽やかな空気が、無機質な工場を照らし内に影を作る。静と慌が混在する人の足音と話し声が遠くから聞こえてきて始業前を身に伝わせてくる。誰も通らず、待つ時間があまりにも長く感じられて来た頃、こちらに先程の事務員が青と白のツナギを身に纏う従業員を一人連れ戻って来る。事務員が「こちらの方です」と俺を示すと、俺と従業員が残された。従業員は穏やかな雰囲気で朗らかな笑みを浮かべて、

「おはよう、音羽くん。俺は早瀬由次(はやせゆきつぐ)。音羽くんのお師匠、横枕が小説家と兼業していた頃の元同僚。だから上司役に抜擢されたんだ。一週間よろしく」

「は、はい。よろしくお願いいたします、早瀬さん」

 俺は出来るだけ丁寧に、カフェでウエイターをしているユウくんを真似て頭を下げる。常識的なことで疑われたくは無かったから。だが、緊張のせいか身体は上手く動かなかったけれど。

「それじゃあ早速従業員室に案内するよ。そこで作業服に着替えてもらった後、業務内容の説明。今日はここに慣れてくれればいいよ。肩の力を抜いて、何かあったら気軽に言ってね」

 このようにして関澄と音羽の一週間に亘る職業体験が始まった。


翌日・早朝六時

神奈川県箱根・夕翠楼

 紺色の作務衣に着替えて、ぼんやりとしながら出勤。仕事内容はまさかの仲居。訛らず標準語で謙譲語など決まり事が多い。慣れないことをして昨日は寝落ち、何だか気持ちが落ち込んでいる。そんな状態で川渕さんが夕楼にお世話になっていた頃に仲良くしていた上司役の仲居の淡浪(あわなみ)さんの元へ行き始業開始となった。


十時

 昨夜の宿泊客に仲居を中心に綺麗に一列に並ぶ。そして丁寧に繊細に忠実に言葉を発する。

「ありがとうございました。またお待ちしております」と、笑顔を渡え言い、最敬礼をする。

 こうしてお客様をお見送りし、本日宿泊されるお客様への提供準備が始める。その時に淡浪さんに呼び出された。

庭園の見える廊下

 美しい日本庭園が広がる、静寂に包まれる廊下で淡浪さんはおれを見て首を傾げる。

「関澄さん。ご体調でも優れませんか?川渕さんよりお伺いしていた人物像とは異なる気がしていまして」

「いえ、至って普通、かと......?」

おれは「何が言いたいのか」と首を傾げる。

「そうですか。それならば、このようなことを言うのは酷かと思いますが。我々の役目はお客様に楽しく過ごしてもらう、また来たいと思ってもらう提供をすること。関澄さんは成り行きでここへ職業体験をすることになったのでしょう。ですが、ここで働く以上、その役目を果たしてもらわねば困ります。やる気がないのであれば帰りなさい」

 淡浪さんは背を向け去る。怒られた。帰れと言われたら帰りたくなる。やけど、帰ろうとは思わんかった。仕事内容は嫌だし、訳の分からないことを言ってくる人もいるし。接客業とかクソ喰らえ、と思ってる程や。帰宅したら裕介や川渕さんに色々言われるからではない。

 執者心がある訳でもない。ただ、今ここを離れたら後悔する気がした。

十七時

「いらっしゃいませ」

本日宿泊されるお客様を出迎える。お部屋に案内し終えた後、淡浪さんと廊下を歩いている。

「関澄さん......」

淡浪さんは何か言いたげに話し掛けてきた。こういう顔、裕介と渉もよくするから何となく言いたい事が分かった。だから、その言葉を渡って、「まだ居る。不出来なのはよう分かってるけど。まだ見つかってないんや、ここに来た理由。せやからまだ帰らへんよ」

淡浪さんは微笑みを容すと、

「そうですか。では頑張って働いてもらいますよ」

「うん!おおきに、淡浪さん」

「ちなみに訛っていますよ、先程から」

「あぁ......ごめんなさい」


翌日・十時

入間県・時計工場

 作業者である青と白のツナギを身に纏い、昨日より目覚時計包装業務を行っている。出来上がった、世に送り出されていく目覚時計をただ包装していくだけの単純明快な業務。想像していたものとはまるで違った業務内容で腑抜けている。もっと、こう「機械!」みたいなことが出来ると思っていた。たかが一週間の職業体験ならこんなものか、と自開しつつ。そんな俺の唯一の救いは掛時計ケース組み立て業務。これもまた出来上がったものを組み立てていくだけなのだが、包装より楽しい。

 俺は業務の手を止め、工場の奥を見る。奥の隔離されたような空間では時計内部組み立てが行われていると昨日教えてもらった。いいな、楽しそうだな、と羨ましがっている。

「......羽くん、音羽くん!」

「あ、は、はいっ!」

 肩を叩かれ振り返る。そこには早瀬さんが立っていた。

「音羽くん。ぼーっとしているようだけど、どうかした?」

「えっと、すみません。少し......いや、だいぶ気になっていまして」

 俺は時計内部組み立て業務の行われている空間を見遣る。

「あぁ、成程。うーん......少し待っていて」

 早瀬さんは頭に手をあて、足早にどこかへ行ってしまった。

 失礼をしてしまったかな、と考えながら業務に戻った。

少しして、「音羽くーん!」

 呼ばれて振り返ると、早瀬さんが足早にやってきて言葉を継ぐ。

「時計内部組み立て業務を見学してもいいっていう許可を貰ったよ。興味があってやれそうなら俺の責任でやってみてもいいってさ。俺の興味で聞きたいんだけど、こういうの好きなの?」

 早瀬さんに首を傾げられ、少し躊躇いながら、

「俺は幼少期父の影響で工学......ええっと、汽車の線路建設に触れて来ました。その家業を継ぐ予定だったのですが、西洋文化に惹かれ文学に惹かれ拗らせまして。ですが、工学は俺にとって馴染み深いもので嫌いではない。だから興味関心がある…だと思います」

 早瀬さんは腑に落ちた、という顔で頷き、

「ああ、成程ね。そっかそっか、それなら気になるよね。それじゃあ尚更見においで、って言うよ。今後、音羽くんの何かの役に立てればいいかなって思うし」

「横枕さんと友人にも言われたんです。何かを拾って帰って来い、と。なので見せて頂けるだけ有難いです。ありがとうございます、早瀬さん」

「ふふっ......見つかるといいね、君の助けになるものが。あ、そういえば忘れてた。同僚たちに俺だけ音羽くんと話すな、って言われたんだよ。だから昼休憩に紹介させて。一先ず行こうか」

 俺は早瀬さんの後ろに付いて、時計内部組み立て業務の見学をする。とても嬉しく、楽しい。

 好きなものはいつになっても、何歳になっても好きなのだ。工学から一度身を引いたから、と近付かないで居た。だけど、それは間違っているのかもしれない。好きなものは、例え形が違っても好きでいいんだ。


十八時

神奈川県箱根・夕楼

 淡浪さんは宿泊客に周辺情報をお教えしていた。おれはその補助をしている。淡浪さんが説明を終え地図を渡す。

「こちらになります」

「ありがとうございます、助かります。そういえば、男性の仲居さんとは珍しいですね」

宿泊客はおれを見る。おれは困惑し、「え......」と言う素の顔狂な声を上げてまう。

『宿泊客を楽しませ、また来たいと思ってもらうのが役目です』という淡浪さんの言葉が身に染みていて、ただ「職業体験です」と言うのは間違っている。そんな気がした。やったる

わ、文士関澄千智の本領発揮や。淡浪さんが助言しようとしたところを避り、「本当にそうですよね。自身でも異例中の異例だと思っています。実際、この夕翠楼での男の仲居は私だけです。色々あって仲居をさせて貰っているのですが、様々なお客様にお会い出来て楽しいです。またお客様の旅路のお手伝いが出来ることが何より感しいのです。私は仲居に就く前は旅人で、旅館ひいては仲居さんにたくさんお世話になっていましたから。ですので、何かございましたらご遠慮なくお声を掛けてください」

 接客が終わり、淡浪さんと廊下を歩いている。そこで淡浪さんが微笑みを見せて話し掛けてきた。何か言いたげな顔ではない、ただ単純に話しかけた、そんな顔で。

「関澄さん。言葉遣いはあやふやでしたが、流石でした。それで、先程の旅人だったというのは事実なのですか?」

「嘘に決まってるやないですか。あぁ、ふらふらしてるのはいつものことやけど。作り話を一瞬で作って話すのって難しいけど、それが出来るのっておれの強みやろ。文士してるんやし。あの二人だけには負けてられへんのや、文士としては。何となくやけど、接客の感覚が掴めて気がするわ。もっと頑張る」

「その矢先、訛っていますが。ですが、期待してますよ」

「うん、期待してて」

 旅をする人の笑顔を作るには周りの環境が大きく関わる。楽しいという感情と表情が生まれるのは、おれが送り出す作品の読者と同じ。それに街歩きをして街に住まう人の感情を探るより、より近くで人の感情を探ることが出来る。楽しくなってきたな。

 入間県の時計工場で時計内部組み立てを体験させて貰ったり、従業員の和の中に入る。神奈川県箱根の夕楼にて不慣れで困惑しつつ、自身の出来る事を徐々に見つけていった。そんな彼らの一週間に亘る職業体験は終わりを迎える。

「「ありがとうございました!」」

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