昨日のままの宿

みぞじーβ

第1話 到着

山道を走るバスのワイパーが、一定のリズムで世界を切り分けていた。ざっ、ざっ、と雨を払い、また次の雨を受け入れる。

窓の外はすでに真っ白で、上り坂に入ってからは電波も消えた。

美咲は、スマホの画面に映る“圏外”の文字を見て、小さく息を吐いた。

「……いいじゃない。もう、誰からも連絡こないんだし。。」

会社を辞めたわけではない。けれど、昇進も恋人も同じ日に失った。

「また明日から頑張ろうね。」と言われたとき、美咲は思った。

——明日なんて、いらない。

そんなとき、SNSのタイムラインに流れてきた広告。


『昨日に帰れる宿——“いにしえの湯”』


ふざけたコピーだと思った。

でも、予約フォームの最後にあった一文が、妙に胸に残った。


『過去をやり直したい方専用。チェックイン時間はお客様の記憶に準じます。』


バスが停まった。

運転手が、「終点ですよ。」と淡々と言う。

降りると、濡れた杉木立の間にひっそりと看板が立っていた。

“いにしえの湯”と墨文字で書かれた木板。

文字の縁が、かすかに光って見えるのは雨のせいだろうか。

玄関の引き戸を開けると、古い木の匂いと、硫黄のような甘い香りが混ざって漂ってきた。

カウンターの奥から、ひとりの女性が現れた。

「ようこそ、“いにしえの湯”へ」

若女将——れいと名乗ったその人は、三十代くらいに見えるが、どこか時代を越えた雰囲気を纏っていた。

言葉の一つひとつが、まるで温泉の湯気のようにゆっくりと漂う。

「おひとりで……昨日からお越しですね。」

「え?」

「……いえ。こちらの手違いでございます。どうぞお入りくださいませ。」

畳の上を歩くたび、ぎゅっ、ぎゅっ、と音が鳴った。客は他にいないらしい。

帳場には、古びた宿帳が一冊。

ページをめくると、いくつかの名前が消えかけている。

インクが時間に溶けたみたいに。

「お食事は六時、朝湯は五時からでございます。」

「五時って……早いですね。」

「“昨日”の五時からでございますので。」

「昨日?」

「ふふ、冗談でございます。」

美咲は苦笑して、部屋に案内された。窓の外では、雨が静かに川をつくっている。

その音が、都会では聞いたことのないほど柔らかかった。

荷物を置いて、ため息をつく。

「……昨日に、帰れるか?」

独り言のように呟いた瞬間、部屋の掛け時計が動き出した。


カチ、カチ、カチ——。


秒針は進んでいるのに、針の位置は変わらない。

夜、美咲は露天風呂に入った。湯の表面が、月をゆらゆらと映している。

湯気の向こうに、白い着物の影が見えた。

若女将だった。

「お湯、ぬるくなってまいりましたね。」

「ええ。でも、ちょうどいいです。」

「そうですね。“昨日の湯”はいつも、ちょうどいいんです。」

美咲は笑った。

意味のわからない会話なのに、どこか安心していた。

その夜、ぐっすりと眠った。


——そして目覚めた朝。

窓の外では、また雨が降っていた。時計の針は同じ位置を指し、テーブルの上の新聞の日付は、変わっていなかった。

どこか、落ち着く朝だった。

何も決めなくていい。誰にも追われない。

——そう思った瞬間、美咲は気づく。

ここは、昨日のままだ。

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