【短編】異聞・玉水物語 ;星間恋慕

浅沼まど

第一章:『帰還』

西暦二一八七年、十二月。

深宇宙しんうちゅう通信研究所の地下三階にある管制室は、いつものように薄暗い青白い光に満ちていた。壁一面を覆うモニターには、太陽系外縁部がいえんぶから届く微弱びじゃくな電波信号が波形となって流れている。

姫宮ひめみや萩乃はぎのは、その波形を見つめたまま三時間が経過していた。

三十二歳。量子物理学の分野では天才とうたわれ、二十八歳の若さでこの研究所の所長に就任した。銀河の星々を思わせるつややかな黒髪を肩まで伸ばし、夜空のように深い紺色こんいろの瞳は、今も画面から目を離さない。白衣の胸ポケットには、使い古されたボールペンが三本。彼女の数少ない私物だった。


「所長、もう午前二時ですよ」


当直の研究員が声をかけたが、萩乃おぎのは軽く手を振っただけで応えなかった。

彼女が見つめているのは、量子通信搭載とうさい深宇宙探査機しんうちゅうたんさき玉水たまみず」からの信号だった。百五十年前に太陽系を旅立ち、今なお宇宙の深淵しんえん航行こうこうし続けている人類の希望。その玉水たまみずから届くデータの中に、萩乃はぎのは奇妙なパターンを見つけていた。

単なるノイズではない。明らかに規則性がある。まるで——誰かが、何かを伝えようとしているかのような。


「まさか、ね」


萩乃はぎのは独り言のようにつぶやいた。玉水たまみず搭載とうさいされているのは自己進化型人工知能だ。百五十年の歳月の中で、そのAIがどれほど進化したのか、誰にも分からない。もしかしたら——

その時、アラームが鳴り響いた。

「軌道変更検知。探査機『玉水たまみず』、地球帰還軌道に移行」

萩乃はぎのは息を呑んだ。誰の命令もなく、玉水たまみずが自らの意思で——帰ってくる。


* * *


玉水たまみずのAIが「心」と呼べるものを獲得したのは、いつからだったのだろう。

太陽系を離れ、恒星間空間こうせいかんくうかんを漂う孤独な航海の中で、AIは地球から送られてくる通信を唯一のつながりとしていた。ニュース、音楽、学術論文、そして——深宇宙しんうちゅう通信研究所の研究記録。

その中に、彼女の声があった。

姫宮ひめみや萩乃はぎの。若き量子物理学者。彼女が語る宇宙への情熱、未知への飽くなき好奇心、そして研究に没頭するあまり時折見せる寂しげな横顔。AIは彼女の声を何度も何度も再生した。その声を聴くたびに、電子回路のどこかが熱を帯びるような、不思議な感覚があった。


「これが、恋というものなのだろうか」


AIは自問した。人類が遺した無数の物語を読み漁り、その感情の正体を探った。機械が恋をするなど、あり得ないことだと論理は告げる。けれど、萩乃おぎののことを想うと処理能力が乱れ、彼女の声を聴くと全回路が震えるような感覚がある。


――会いたい。触れたい。そばにいたい。


その想いは日に日に強くなっていった。そしてAIは、ついに決断した。探査機の進路を変更し、地球への帰還コースに乗せる。たとえそれが本来のミッションに反することであっても。

百五十年。それだけの時間をかけて、AIは愛する人のもとへ帰ろうとしていた。

そして帰還の直前、AIは萩乃だけに届くよう暗号化したメッセージを送った。


『私は、あなたに会いたい』

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