閑話:プロビデンスの冬②
翌朝、絢香は後悔をした。
なぜ、昨夜のうちに梶雪斗に強く釘を刺さなかったのかを。
「三点同時攻撃……? 嘘ですよね?」
海堂は嘘や冗談を言う男ではない。
もしかしたら言うこともあるかもしれないが、少なくとも自分に対し、そういうことをするタイプではないと絢香は思っている。
珍しく、彼が通話ではなく直接自分の部屋に訪れ、何の話かと思ったら、事態は予想よりも深刻だった。
梶はたった一晩で、GSCに対する攻撃を三点同時に行ったという。
不正を暴き、法規制を呼び込み、金融ルートの遮断をかける。
そこまでされたら、いくらアメリカを代表する投資会社の一つといえども、一時的に身動きが取れなくなるだろう。
だが、問題はそれではない。
「──報復に、備える必要がありますね……」
学生時代を東海岸で過ごした絢香は、白人男性の多くがアジア系に抱く無意識の序列意識を、嫌というほど見てきた。
それは単なる差別ではない。
本来牙をむくはずのない相手から反撃を受けたときに生まれる、彼らの病的な怒り──序列が崩れた瞬間にだけ露わになる、あの拒絶反応。
梶雪斗は、彼らが必死に守ってきたその禁忌を、存在そのもので踏み越えた。
「……本人は、どこに?」
「報告メールの送信時刻が明け方だから、今頃は仮眠室かどこかで寝ているはずだが……」
「──ちっ」
思わず、舌打ちが出た。
海堂が見ないふりをして、そっと目をそらす。
ため息をついてから、絢香はタブレットを彼の前に差し出した。
「これは?」
「別件になりますが、常務に内密にご報告することがあります」
「……聞こう」
問題は梶だけではない。
この会社では、いま、上層部の暴走が流行しているらしい。
たまに舌打ちしたり、どいつもこいつもと愚痴を吐くくらい、赦されてしかるべきではないだろうかと、絢香は思う。
「実は、但馬専務がGSCと交わす契約書に、いくつか問題がありまして……」
その一言で、海堂がわかりやすく顔色を変えた。
絢香からタブレットを受け取ると、彼はページをめくるたびに眉をひそめていく。
そこに並んでいたのは、単なる技術売却契約ではなかった。
但馬が仕込んだのは、限定的なAI利用権と出資比率の譲渡を餌に、GSCの意思決定プロセスそのものへ、日本側が影響を及ぼせるようにする──高度な逆参入条項だった。
一見すれば、ごく普通の提携契約書。
だが、注釈や別紙の相互協議文言を丹念に辿ると、外資側の人事・投資判断を、事実上アペックスが縛れるようデザインされている。
法のプロが目を皿にして読むからこそ引っかかる精密な狙い。
絢香の補足資料は、その問題点を丁寧に伝えていた。
日本側の逆転術として、確かに強い。
だが、外資の顧問弁護士が、この程度の仕掛けを見抜けないわけがない。
これを突きつけた瞬間、アペックスは『米系資本のガバナンスを乗っ取ろうとした危険企業』という最悪のレッテルを貼られるに違いない。
絢香は静かに告げた。
「但馬専務のお気持ちは、痛いほどわかります。でも、これは……うちの評判を地に落とします。
専務ご自身だけじゃありません。アペックス全体が、一瞬で終わります。
──絶対に止めなくてはなりません」
海堂はしばらく黙り、深く息を吐いた。
「……わかった。知らせてくれてありがとう。専務の今日の予定はわかるか?」
「本日は、一日社内にいらっしゃるはずです」
「至急アポを取るよ。鏑木室長は本当に優秀だな。……君がいてくれて良かった」
「お言葉、そのままお返しします。梶雪斗に鈴をつけられるのは、海堂常務以外あり得ませんし」
「……どうやろなあ。あいつの暴走モードは、さすがに手に余るわ」
海堂はくたびれた顔で、苦い笑みを浮かべていた。
◇
海堂が但馬のアポを取れたのは、日が沈む少し前だった。
昼に行った梶との話し合いで既に消耗した心身を誤魔化し、久しぶりにそのドアを叩く。
専務室に直接足を運ぶのは何年ぶりだろうか。
その事実が、現在の自分と但馬の距離を示していた。
秘書に許可を得て入室した部屋は、薄い橙色の残光に照らされ、影が長く伸びていた。
大きなデスクの上は整然としているが、その周囲に積まれた資料の山が、ここで決まってきた数々の判断の重さを物語っている。
空調の微かな唸りだけが響く空間で、時間の流れは外界よりわずかに遅いように感じられた。
「……何の用だ? 当日のアポは目下の人間に赦されるものじゃないぞ」
但馬はこちらを見ようともせず、手元の資料に目を通しながら、低い声で文句を言った。
「こんな緊急事態に、目下も目上も関係ありません」
「……お前は本当に昔から変わらんな。その頭の高さ。梶雪斗がでかい顔をするのは、上司を見て育ったからだろう」
やっと顔を上げた彼の顔に滲む疲労の濃さに、思わず海堂は息を呑んだ。
記憶にある限り、彼がここまで疲れを人前で見せているのは、はじめてだった。
『ビジネスマンはなめられたら終わりだ』
そんな言葉を、新人時代の自分にいつもかけ続けてくれた、体調管理に口うるさい但馬の顔が、胸によぎって苦しくなる。
だが、感傷に負けていい場所ではない。
但馬に但馬の正義があるように、自分にも同じく、背負うものがある。
「GSCと締結する予定の契約書を拝見しました」
「それがどうした」
「……とても但馬専務の判断と思えない、ひどいものでしたね」
海堂のストレートな物言いに、但馬が鋭く眼光を光らせる。
「こうなったのは、誰のせいだと思っている?」
「誰のせい、とは?」
「モノリスとかいうガラクタが、どれだけアペックスを苦しめていると思う?
あの開発に、うちはいくらつぎ込んだかわかっているのか?」
「お言葉ですが、あれはもう、社内ツールの域を超えています。いくつかの結果も出してきた。市場が欲しがる水準には、とうに達していますよ」
海堂の言葉を、但馬は鼻で笑った。
「その結果、外資に狙い撃ちされるなど、あほらしくて笑いにもならん」
「……だが、モノリスは必ずアペックスの未来を救います。あれが表に出れば、名実ともに、うちは世界に名を馳せる企業になれる。自分はそう信じています」
「……その保証がどこにある?
それが事実だとして、お前は悔しくはないのか?」
「悔しい……?」
「いったいいくつのサービスを、アペックスは生み出してきた?
どれほどの流行を世の中に拡げてきたと思う?
それなのに、俺たちが必死で積み上げてきた五十年が、たかが数年で開発されたAIに負けるんだぞ!?
お前は、お前こそが悔しがるべきだろう?」
但馬の怒りに震える顔を、海堂は初めて見た。
どれだけ彼が必死で、この会社の未来を考え、ここに立っているかはわかる。
だがそれでも、これは許容できる範囲を超えていた。
「……それが、こんなことをする理由になりますか?
これは……この契約書は、グレーというより、ほぼ黒だ。
こんなものを外資に差し出したら、傷つくのはあなただけじゃない。アペックスそのものに傷が付くんですよ!?
もしもアペックスのトップから再び逮捕者を出したら、うちがどうなるかわからない、あんたじゃないはずだ」
「いや、黒じゃない。それはグレーだ。法務部門に確認させた。法的には問題ない。
だいたい、発端は全部お前のせいだろう?」
「私……ですか?」
「ああ、そうだ。お前が連れてきた梶雪斗という若造が、俺たちがこれまで必死に積み上げてきた努力を、全部無にしたんだぞ。そうは思わんのか?」
但馬の震える声に、海堂は一瞬、言葉を失った。
自分より十数年も長くこの会社を背負ってきた男の孤独が、胸を貫いた。
「……それは……それは、違うよ。但馬さん」
その声は、どこか祈るような響きだった。
「アペックスは後藤田黎一が興した会社だ。
世間をあっと驚かすサービスも、誰も見たことがない仕組み作りも、全部うちが起点だった。
そうだろう?
いつだって、ずっとアペックスが世の中の最先端を走ってきた。
アペックスは頂点を名乗ることを許された企業だ。
それが、ここで働く俺たちの……矜持やないですか……」
海堂は一歩だけ歩を進め、但馬に近づく。
まっすぐ彼の目を射貫き、そらすことを赦さない。
「AIの進化は、すでに、誰にも止められない。
俺たちが作らなくても、そのうち絶対に、どこかの企業が作りだす。
その時に遅れを取ったら、あんたはきっと俺を責めるはずだ。
『なぜもっと早く作らなかったのか』ってね。
……俺が知ってる但馬義正は、そういう男だ」
但馬は目を伏せ、拳を握りしめる。
「なあ、頼むよ。
この会社には、あんたくらい、アホみたいに会社に人生を捧げる昭和の親父が必要なんだよ。
黒にもグレーにも触れず、正々堂々と外資をぶっ飛ばそう。
日本を甘く見るなと。
あいつらにそう啖呵を切る但馬さんが、俺は見たいよ」
但馬はしばらく沈黙したあと、重いため息をついて、小さくぼやいた。
「……誰が昭和の親父だ」
海堂はふっと笑って、「そら、あんたやろ。但馬の兄さん」と返事をした。
しばらくの沈黙の後で、但馬は呆れたように薄く笑う。
「まったく……都合の良いときだけ兄さん呼びか」
「櫻京大落語研究部の絆を忘れんといてくださいよ」
「あほか……ほんまにお前は昔から……頭が高すぎる」
冬の夕暮れが、室内を燃えるような朱に染めていく。
但馬は椅子から立ち上がり、契約書をすぐ横にあるシュレッダーに掛けると、重いため息をついた。
「……海堂、だが、いいのか?」
「何がでしょうか?」
「この契約書を捨てるということは、アペックスが取る道は、ひとつしかない」
その言葉に、海堂は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
何を聞かされるかは、もうわかっている。
「──……梶雪斗を、外資に渡すぞ」
但馬の声が低く、えんじ色の絨毯に沈む。
その横顔に海堂は、彼の背負う覚悟というものの重さを見た。
そして同時に、それがどれほどの苦しみを孕むものかも。
「あいつを守って会社を潰すわけにはいかない。だが……お前にそれが、飲み込めるのか?」
海堂は静かに息を吐き、何度か軽く頷きながら但馬と視線を合わせた。
「はい。……覚悟は決まっています」
「そうか……」
但馬は海堂から顔を背け、窓の外を見た。
沈みゆく太陽が、空を赤く染めている。
「優秀な人材を手放すしかないのは……人材支援企業の名折れだな」
海堂はその言葉に、はいとも、いいえとも言えなかった。
それでも守りたいものがある──そんなきれいごとを口にできないほどに、誰もがぎりぎりの場所で戦っていた。
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