わたしは、強くなりたかった

 十二月に入った。

 外の空気はすっかり冬の匂いになって、品川のビル風がマフラーの隙間から肌を刺す。

 駅から会社に向かう途中、並木のイルミネーションが昼の光にまだ少し残っていて、季節がほんのりきらめきをまとい始めているのがわかった。


 総務課のフロアに足を踏み入れると、加湿器の湯気と、誰かが淹れたばかりのコーヒーの匂いがまじり合って、いつもの生活の空気が戻ってくる。

 パソコンを開こうとした瞬間、内線が一度だけ短く鳴った。


「佐々木さん、ちょっといい? 第三会議室まで」


 声の主は、総務課長だった。

 普段は穏やかな人だけど、そのときの声はほんの少しだけ張りつめていて、何かミスでもしただろうかと身体が強ばる。


 第三会議室は、昼間でもどこか静かな部屋だ。

 壁際のガラスには冬の薄い光が反射して、長机の表面がやけに冷たく見える。

 緊張しながらドアを開けると、課長が資料を伏せたまま、わたしのほうをまっすぐ見ていた。


「座って。……今日は佐々木さんに大切な話があるの」

「は、はい……」


 椅子を引く音が、思ったより大きく響いた。


「そんなに緊張しないで。悪い話ではないから。……まず、これに目を通してもらえる? 読んだら返して」


 そう言いながら、課長の指先がわずかにタブレットの縁を叩き、手元のタブレットをわたしに向けて差し出した。

 ディスプレイには、プロジェクトインサイトという聞いたこともない案件の概要が書かれている。


 要約すれば、それは働き方改革の一環として立ち上げるものらしい。

 総務や人事がそれぞれに管理してきた実務データ──問い合わせログ、月次の業務量、在席率、突発対応の件数。

 そうした現場の息づかいを、部署ごとではなく会社としてひとつにつなぎ、社員の働き方の兆しを、早い段階で読み取るための仕組みをつくるというものだった。


 経営企画・人事企画・情報システムが中心となって動き、総務は現場の翻訳係としてデータ整理と要件の橋渡しを担う。

 いま起きている小さな歪みを、見逃さないためのプロジェクト。


 読み進めるうちに、わたしの中でひとつの線が静かに結びついた。

 このプロジェクトはおそらく、数字や指標が目的じゃない。

 その裏側にある、誰かの疲れや、叫ばれなかったSOSを見つけること。


 たとえば、問い合わせの行間にある焦りや、月次作業の中に沈んでいく誰かの限界を、ここで拾うことができたら──そんな考えが、胸の奥に静かに根を下ろした。

 なぜなら、総務は社員を陰から支えることが職務だから。


 ……そこまで考え、なぜこれを読まされているのか、その答えに行き着き、声が震えてしまう。


「……もしかして、わたしがこれに参加するんですか?」


 課長は表情の読めない顔のまま、静かに頷いた。


「佐々木さんは、数字の手前の空気を読むのが上手でしょう? インサイトは、そういう現場の洞察がないと進まないプロジェクトなの」


 その瞬間、胸の奥で、かすかに何かが音を立てた。

 このプロジェクトの先に、どんな景色が待っているのかはわからない。

 だけど、わたしの世界が、ゆっくりと違う方向へ動き始めている気がした。


「……聞いていいでしょうか?」

「ええ、もちろん」

「これ、すごく秘匿性の高いプロジェクトですよね。資料をわたしに送付することも赦されていないほどの……」

「そうね。社内でこのプロジェクトを知っているのは、G3職以上。例外は、わたしみたいに部下がそのメンバーに選ばれた場合ね」


 課長は現在、G1職。G3職は統括部長クラスを意味する。

 ちなみに、わたし自身は去年、L1職に上がり、権限が少し増えた。


 課長は一度だけ、視線を伏せて息を整えた。


「……本当はね、もっと上の等級の人を出すべきなのよ。でも、現場の空気を数字の前に嗅ぎ取れる人って、実は社内にそんなに多くないの。

 佐々木さんは、その前兆を拾える人。だから名前が挙がったの」


 急に褒められ、言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。


「あ、ありがとうございます」 

「どうかしら? 参加する意思はある?」

「……わたしがお役に立てるのであれば……」


 そう答えながらも、息を吸うのが少しだけ浅くなった。

 本当のことを言えば、怖い。

 このプロジェクトに参加するということは、きっと本店にしばらく異動になるはずだ。

 全くの新しい環境に飛び込むのも、こんな秘匿性の高いプロジェクトに関わるのも、本当に自分が役に立てるのかさえ、わからない。

 返事をした直後なのに、それほどの自信は持てず、身が縮こまる。


 だけど、インサイトプロジェクトの名前を見たときに、頭の中で何かが小さく連結した。

 これは、志穂さんの言っていた中枢に近い場所なんじゃないか、と。


 梶くんは、初めて会ったときに、自分はシステムを作る側の人間だと言っていた。

 根拠はないけど、あれは絶対に嘘じゃない。

 その言葉の奥にあるものが、ずっとわたしの中で引っかかっていた。


 わたしはきっと、知りたいのだ。

 梶くんが、いったい何を秘密にしているのか。

 でもそれは、彼を暴きたいということではなく、それを知ることで、梶くんの苦しみを少しでも取り除きたいという希望からくるものだった。


 彼が、何に苦しんでいるかは想像もつかないけれど、ずっと一緒にいたら、さすがにわかるよ。

 あの人は、何かに傷ついて、苦しんで、その痛みを誰にも打ち明けることができないまま、ずっと一人で立っている。

 どれだけ彼のそばにいても、わたしが何の役にも立てていないことも、わかる。


 膝の上の震える手をぎゅっと握った。


 それでもわたしは、強くなりたかった。

 何もできなくてもせめて、彼の苦しみを共に背負えるくらいには。


 だからこれは、そのための一歩なんだと思う。


「はい。参加します。インサイトプロジェクトに」



 プロジェクトの始動は年明けからだが、プロジェクトメンバーとの顔合わせは年内に行われるという。

 急な招集に対応できるよう、これから急ピッチで業務の引き継ぎを進めなくてはならない。


 会議室では、あのあと守秘義務契約書にもサインをさせられた。

 そこまでしなくてはならないものなのだと身が竦むのとともに、もしかしたら、梶くんも同じように、契約で縛られている可能性があることにはじめて気がついた。


 梶くんに相談したかった。

 こんなプロジェクトに参加するんですよって伝えたら、彼はなんて言うだろうか。

 驚いたり、励ましてくれたりするのだろうか。

 それとも……と、そこまで考えて首を振る。

 実現し得ない未来を想像したところで、何の意味もない。


 わたしは小さくため息をついて、引き継ぎ資料の整理を始めた。

 今は何かを思い悩むよりも、前に進むべき時だから。

 キーボードを叩く指は、いつもより少しだけ冷えていた。


 二週間後。

 心臓が早鐘を打つのを止められないまま、本店、つまりアペックスホールディングス本社ビルの前に、わたしは立っていた。

 同じ都心でも、いつもいる品川とは空気がまったく違う。

 大手町特有の、冷たいガラスと金融街の緊張を混ぜ合わせた匂いが漂っている。


 耳の詰まりを息苦しく感じながら、エレベーターが目的階に着いた瞬間、目の前の景色に息を呑んだ。

 廊下は深いグレーのカーペットが敷かれ、足音がほとんど吸い込まれてしまう。

 壁一面のガラス越しには、冬の午前の光に洗われた皇居の森と、幾何学のように並ぶオフィスビル群が一望できた。

 風は見えないが、窓の外の雲だけがゆっくりと流れている。


 まるで、ドラマの中の成功者だけが見ることのできる景色そのものだ。いまさら過ぎるけれど、、なぜ自分がここに呼ばれたのかと背中に嫌な汗が伝う。


 指定された会議室の重い扉を開けると、室内には誰もおらず、暖房がわずかに空気を揺らしていた。

 長い楕円形のテーブルに、ブルーグレイのレザーが貼られた椅子。

 壁には大型のディスプレイが二枚。

 電源は落ちているのに、その黒い画面が、今から何か大きなものが始まる予兆のように沈黙している。


「誰もいない、か……」


 小心者ゆえ、五分前行動どころか、いつも約束の三十分前には目的地に着いてしまう癖が、今日も出てしまった。

 どこに座ったら良いかわからず、とりあえず一番出入り口に近い下座を選んで腰掛ける。


 静かすぎて落ち着かず、トートバッグからタブレットを取り出した。

 これは昨日、課長から密かに貸与されたもので、プロジェクトメンバー全員に同じものが配られているのだという。

 何重にも鍵を掛けるようなやり方に、覚悟を決めても怖じ気づきそうになる。


 タブレットに保存された資料には、前回、課長に見せてもらったものよりも、更にプロジェクトの詳細が書かれている。


 つまるところ、プロジェクトインサイトとは、アペックスグループにおける働き方の早期異常検知システムの基礎をつくる試みであり、わたしはおそらく、現場データの解釈者としての役割を求められている。


 それがなぜ、こんな秘匿案件になっているかと言えば、扱うデータが会社の弱点そのものだからだ。

 残業の偏り、在席の揺らぎ、疲弊の兆し──どこが壊れかけているかが、一目でわかってしまう。

 情報が流出すれば、会社を追い詰める道具にすらなりえるだろう。

 だから、ごく少人数の専門メンバーだけで進めているのではないか、そう見当をつけていたとき。


「なんで、花がここに……?」


 後ろから、誰かがわたしにそう声を掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る