よう泣く子の色

 西陣の通りは、夏の夕立が去ったばかりだった。

 石畳の隙間に、まだ水の匂いが残っている。


「……叔母さん、今日は機嫌ええ日やとええんやけどなあ」

「えっ? 機嫌って、そんなに日によって違うんですか?」

「いや、年中そこそこ怖い」

「……わたし、生きて帰れますかね?」

「花ちゃんは大丈夫やろ。俺はわからんけど」


 ……わからないんだ。そこは、二人とも大丈夫であって欲しかった。


 古い格子戸をくぐると、ひんやりとした空気が肌に触れた。

 奥から、小柄な女の人が現れる。

 藍色の着物に、白い半襟。

 髪をきちんと結い上げて、姿勢がまっすぐだった。

 梶くんにはあまり似ていないけれど、迫力のある美人だ。


「まあ、雪斗。あんたがうちに顔出すなんて、いつぶりやろ」

「せやなあ。忘れたころに来てる気ぃするわ」

「忘れたころ言うて、よう平気で言わはる。うちが躾を間違えたか思いましたえ」


 そう言って、着物姿の女性──梶くんの叔母さんで、この呉服屋の若女将だという坂東志津さんは、わたしの方へ向き直った。

 じっと見据えられ、反射するように全力で頭を下げる。


「さ、さ、佐々木花と申します! 今日はお時間をいただき、ありがとうございますっ」

「まあ、ご丁寧に。遠いところ、ようおこしやす。暑かったやろ。お茶でも飲んでいきよし」

「はっ。ありがとうございますっ」


 声はやさしいのに、目が笑っていない。

 なんだろう。なんとなく中学時代の、めちゃくちゃ怖かった部活の先輩のことを思い出す。


 ……『ぶぶ漬けでもお上がりよし』と言われないだけ、マシなのかな?

 丁寧な京都弁の中に、静かな探りの気配があった。


 しかし、勧められるまま通された部屋で、わたしは思わず絶句する。


 お茶って!

 お茶ってこういうこと!?


 畳の間の奥、炉の前には水指と茶釜。

 掛け軸の下には、桔梗が一輪だけ生けてある。

 志津さんは黙って袖を払うと、茶杓を手に取った。

 その一連の動きがあまりに流麗で、本物のおもてなしを見せられているのだと、背筋が伸びる。


 畳の上に正座しながら、わたしは昔覚えたお作法を必死に思い出していた。

 手の向き、目線、呼吸。

 茶筅の音が、静かな部屋に響く。

 泡立つ抹茶の色が鮮やかで、光に透けるようだった。


 息をするのも緊張する空間で、心の中では、こっそり梶くんに問いただしたくてたまらない。

 ……こういう情報は事前に欲しかったですよ!


 拝啓、お母さん。

 あなたに勧められるまま、茶道部に入ったあの経験が、いま、古都でわたしを生かしています……!

 思わず母親に感謝の祈りを捧げてしまう。


「どうぞ」


 差し出された茶碗に、両手を添える。


「……お点前、頂戴いたします」


 一口含むと、舌の奥にやわらかな苦味が広がった。

 冷房の風に晒されて乾いていた喉が、じんわり潤っていく。

 あ……すごく、おいしい。

 思わずそんな言葉が漏れそうになったけれど、志津さんの視線が鋭くて、胸の奥で飲み込んだ。

 その視線の奥には、探るでも、責めるでもない、何かを測るような静けさがあった。


「へえ……お作法、ご存じなんやね」

「いえ。あまり自信はないですが、高校で、茶道部に入っていたので」

「そうどすか。……あんたが選んだ女性にしては、ええこやなあ」


 志津さんが視線を向けると、「せやろ」と梶くんが得意げに笑った。

 それにしても、梶くんのお作法があまりにきれいで、素でびっくりしてしまう。

 ……この人、できないことがないのでは?


「なあ、志津さん、電話でも話したけど、よかったら花ちゃんに合う浴衣を見繕ってもらえへん? 週末に二人で祇園祭に行こうと思うとんのやけど」

「へえ。そらかまいませんけど、うちの浴衣があんさんのお手に合うやろか」

「俺をいくつや思うてはるん? もう高校生ちゃいますねんで。なんぼでも払うさかいに、うんとべっぴんさんにしたってや」


 ええ!? 梶くん、わたしは市販の安物でいいですし、むしろ自分で払いますが……と思うものの、この場でそんな失礼なことを口にする勇気はない。


「そうどすか。ずいぶん立派にならはったんやねえ。頼もしおすなあ」


 志津さんは、ふっと笑みを浮かべた。


「せやけど、浴衣言うても、うちのは反物からのお仕立てどすえ」

「そ、そうですよね……」


 待って! 西陣で反物から仕立てる浴衣っていくらするの、梶くん!

 と聞きたいけど、やっぱりとても聞ける雰囲気ではない。

 背中に嫌な汗が伝う。

 ごめんなさい……! わたしは、ただの庶民なんです!


「せやさかい、今日選んではっても、出来上がるんはひと月先になりますえ」

「そんなかかるんや」

「うちはそのへんの量販もんと一緒にされたら困りますさかいなあ」


 涼しい声のまま、ぴたりと針のような一言を刺す。

 でもそのあと、ほんの少しだけ柔らかく笑った。


「せやけど……せっかく遠いとこ来はったんやし、今日は見本の一着を着ていかはり。

 うちの娘の若いころのもんやけど、花さんにはよう似合う思いますえ」

「えっ、そんな……」

「ええのええの。反物より、人の縁の方が高うつくるもんどす。

 今日仕立てるのは、また違う機会に着たらよろしいやろ。

 ほな、花さん。お品は奥にあるさかい、上がってもらってええやろか?」

「は、はい……!」


 断るって選択肢、絶対ないやつ!

 志津さんに促され、廊下を抜けて奥の部屋へ向かう。

 畳の香りと、箪笥に染みこんだ絹の匂いが混ざって、ほんのり甘い。

 障子越しの光がやわらかく、棚には反物が整然と並んでいる。

 白、浅葱、薄紅──どの色も、光を受けてかすかに艶めいていた。

 触れたら溶けてしまいそうな生地の並ぶ光景に、息を呑む。


 こんな世界を、梶くんは日常として見てきたんだ。

 思わず隣を見上げると、彼は嬉しそうに「花ちゃんの浴衣姿、楽しみやんなあ」と笑っている。

 ずるい……。あとで今日の文句を言おうと思っていたのに、そんな顔されたら怒れない……。


「花さんの肌の色には、このあたりがよう映えるわ」


 志津さんは、几帳面な手つきで反物を三つ広げた。

 白藍、薄紅、そして淡い檸檬色。


「これは冷たい風。こっちは穏やかな春」


 指先が最後の反物をなでる。


「ほんで、これがよう泣く子の色」


 思わず顔を上げると、志津さんが笑った。


「やさしい子は、よう泣きはりますのえ。せやけど、涙の色が似合ういうんは、めったにおへんのどす」


 その言葉の裏に、何かを見透かすような響きがあった。

 梶くんが、横で困ったように笑う。


「志津さん、またそうやって人を試すようなこと言うて。花ちゃんが困るやろ」

「試すやなんて人聞きの悪い、そんなつもりおへんえ」


 志津さんは淡い檸檬色の反物を手に取り、わたしの肩にそっと当ててくれた。

 絹のような手触り。夏の光が生地に透け、わたしの頬まで反射した。


「うん。これやな。花ちゃんによう似合うわ」


 梶くんの声が静かに響いた。

 そのあとも、帯はどれにしようかと笑い合う二人を見て、胸の奥がじんわり温かくなった。


「そしたら、次は今日着ていかはるお品を持ってきますねえ」


 席を外す志津さんを見送り、ため息交じりに小声で梶くんに話しかける。


「ねえ、きっとすごく高いでしょう? わたし、とてもこんな高価なもの受け取れない。あとででいいから、ちゃんと教えてね。払わせてほしいの」

「んー。たぶん、花ちゃんが想像するより高くないし、これは俺のわがままやから、気にせず受け取って欲しいんやけど」

「でも……」

「昔、志津さんに言われたんよなあ。

 ええ加減な付き合いをするんやのうて、うちの品を贈りたいって思えるくらいの子と付き合いなはれって。

 そんな子作るん無理やろって思ってたけど、花ちゃんと会うて、やっと胸をはって志津さんに紹介できる子ができた。

 せやから、これはほんまに、俺のわがままなんや。

 悪いけど、最後まで付き合うてほしい」


 そんなふうに言われたら、断れるわけがない。

 そこまで言ってもらえるようなものが、自分にあるのかはわからないけれど、せめて同じ気持ちを返せるように、梶くんの指先をぎゅっと握った。


「お待たせしましたえ」


 志津さんが、見本の浴衣を抱えて戻ってきた。

 着付けをしてもらい、髪の毛も結われて鏡の前に立つと、普段とは違う自分の姿がそこにある。


「まあ、かわいらしおすねえ」

「ありがとうございます……!」

「雪斗は面倒くさいところがある子やから、花さんは大変どすやろ?」

「いいえ! 梶くんはいつもすごくやさしくて、わたしの方が足りないくらいです」

「……そおどすか。花さんのようなやさしい子があの子のそばにいてくれはると、うちも安心しますわ」


 志津さんは少し黙り、帯の端を指でなぞるように整えてから、今日一番やさしい顔で微笑んだ。

 光を受けた横顔が、驚くほど梶くんに似ていた。


「また京に来はったら、いつでもおこしやすえ。花さんなら、うちは大歓迎どす」

「はい。ありがとうございます。次はもっとちゃんとした服装で来ます……!」

「まあ、ほほほ。花さんは、ほんまにおもろい子ぉやねえ」


 元いた部屋に戻り、障子を開けた瞬間、そこの空気が変わった。

 夏の光に紺の布が浮かんで、いつの間にか梶くんまで浴衣姿になっていた。


「え? なんで……? か、かっこいい……!」

「せっかくやし、俺も浴衣着ようかなって……。花ちゃんも、よう似合うとるよ。さすが、志津さんの見立ては間違いないわ」


 二人で笑っていると、志津さんが梶くんに強い視線を投げかけた。


「ええどすか? 花さんを泣かすようなこと、したらあかんえ」


 その言葉に、梶さんが思わず肩をすくめる。


「心得てますわ」


 梶くんは、少しだけ頭を下げた。

 その横顔を見つめる志津さんのまなざしが、一瞬だけ、祈るように見えた。


 外へ出ると、夕暮れの光が石畳を照らしていた。

 志津さんが店先から手を振る。


「ほな、行こか」


 西陣の風が、麻の裾を軽く揺らした。

 生まれて初めて京都で過ごす夏は、夕立のあとみたいに、胸の奥が澄んでいく季節だった。

 夕暮れの石畳に、ふたつの影が一瞬重なり、やがてゆっくりと離れていく。


 風が少し強くなって、風鈴の音が遠くに流れた。

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