Side Kaji:// hana := "be my girl"
ひんやりとしたシーツと、腕の中の彼女の温もりの狭間。
身体は寝ているのに、思考だけが遠くで働いていた。
意識が、深い水の底へ沈む寸前で、必ず浮かび上がってしまう。
夢の断片と現実の記憶が、同じ速度で重なって流れていく。
その境界線に漂うとき、なぜか子供の頃の記憶がよみがえる。
己の発言が、母の心のどこかを壊した瞬間を覚えている。
彼女の、こちらを怯えたように見る目。
目も合わさず、家を出て行く後ろ姿。
謝ることもできないまま、それを見送る自分。
……あれが現実なのか、子供だった自分が脳内で組み立てた映像なのか、いまはよくわからない。
ただ、自分が周囲と比べ、異質な存在だと気づくきっかけではあった。
耳に、誰かの抑えた泣き声が聞こえてくる。
それは泣き声というより、息を押し殺すような音だった。
母親の声じゃない。
そう思いながら、母の声なんて記憶にかけらも残ってないのに、なんで違うとわかるのだろうと考える。
……ああ、せや。この甘く響く高い音は……。
「花ちゃん……泣いてはるん?」
微睡みながら、薄く目を開ける。まだ視界は戻ってこない。
「……泣いてないですよ。梶さんが一緒で……。
嬉しくて、どうしていいか、わからなくなって……」
涙声で、彼女が途切れ途切れに答えるのを聞いて、胸がたまらなく痛む。
抱きしめる腕に力を込め、彼女がそれに抗わないことに、少しほっとする。
「もしかして……ほんまは嫌やった?」
「まさか……そんなわけ、ないじゃないですか」
それが本心なのかどうかわからない。
どうか本心であってくれと願うしかできない自分が、情けなかった。
「泣かれると、手が出しにくくなるやん。こうやって触れるのも、あかんかもなあって怖なるし」
違う。こんな最低なことを言いたいわけじゃなく。
もっと彼女の涙を止める言葉が言いたいのに、どう伝えたらいいのか、言葉が思い浮かばない。
「わたしは……梶さんに手を、出されたいです……」
そう言いながらも、彼女の涙は止まらなかった。
腕の中で震える、華奢な肩と背中。
なぜそんなに苦しそうなのかわかればいいのに、観測の歪みという問題を抱えているのは、モノリスだけじゃないことに、はじめて気づく。
「そしたら、何で泣くん? 俺が怖い?」
「ち、違います……。そうじゃなくて……。
梶さんを、あなたを……失いたくなくて……」
心を引き絞るような声に、脳の奥で火花が散った。
シナプスが一斉に跳ねるみたいに、世界が瞬時に書き換えられていく。
痛いとか苦しいとかじゃなく、ただ、理解が遅れて追いつかない。
「わたし……梶さんが好きです……。
ごめんなさい。好きなんです。ずっと、ずっと……」
そこからは夢中で、彼女の唇を奪い、その合間に何度もごめんと謝った。
こんなふうになる前に、自分が今日、一度も彼女に、ちゃんと気持ちを伝えていないことを、まったくわかっていなかった。
こんなに大切な女の子を、ここまで傷つけている己の未熟さが情けなくて、苦しくて、どうしようもない。
自分の発言で人を傷つけるのは、過去に何度も経験した。
人に理解されない痛みを避けるために、いつからか沈黙を選ぶようになった。
けれど、その沈黙が、いちばん大切な人を泣かせてしまうなんて、思いもしなかった。
「そんなこと、先に言わせてほんまにごめん。
俺も好きや。いつからとか、ようわからんけど、花ちゃんしかいらん。
花ちゃんさえおってくれたら、それだけでいい……」
心を言葉にする難しさを、初めて知る。
どう話したら、彼女に伝わるのかわからない。
こんなに好きなのに、嘘だと思われたくない。
その瞬間、心の中で、ひとつのコードが走った。
// hana := "be my girl"
(花ちゃんを、誰よりいちばん大事にする)
それは、音のない告白。
己の脳の概念を書き換えるコード。
「今はまだ……京都を離れられんけど、赦してもらえるなら、ちゃんと花と付き合いたい」
「ほん、とに……?」
「うん。嘘はつかんよ。
こんなこと、本気じゃないならよう言わん。
俺は花ちゃんには、絶対に嘘はつかんから、信じてほしい」
生まれて初めて、女性に捧げる誓約。
言えないことは、たくさんある。
だけど、絶対に彼女には嘘はつかない。
それが今の自分にできる、精一杯の心の証だった。
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