Side Kaji:やさしさは、すぐには届かない

 オフィスの照明はすでに落ち、薄暗いサーバールームだけがかすかに光を放っている。

 モニターには青白いコードの羅列。

 冷めかけた白湯を一口飲み、指先で構文を修正する。

 だが、どれだけ条件を組み直しても、理想の反応は返ってこない。


 return: correct.

(プログラムは「正しい」結果を返して処理を終えた)


「……これじゃ、正しすぎるんやって」


 重いため息が、足下へ沈んでいく。


「人間て、そんな単純なもんやないやろ」


 その独り言が、静まり返った空間に溶けて消える。

 時計の秒針の音が、遠くで小さく鳴っていた。


 もう何時間ここにいるだろう。

 思考は鈍っているのに、手だけが止まらない。

 夜明けは遠く、不安になりそうな心を必死に見ないふりをする。

 諦めるという選択肢は、海堂にも、もちろん自分にもないのだから。



 ふと目を覚ますと、自室のベッドの上だった。

 天井の間接照明がほのかに滲み、静かな寝室には、空気清浄機の低い唸りだけが漂っている。

 カーテンの隙間から、街のネオンが淡く射し込んでいた。


 どれくらい眠っていたのか。外はもう夜だ。

 壁時計を見ると、それでも設定したアラームが鳴るより早く目が覚めたようだ。

 脳の疲れはない。

 呼吸は少し浅いが、完全に覚醒すれば徐々に整う範囲だった。


 高反発マットレスに抗いながら身を起こし、ゆっくりと立ち上がる。

 ぬるま湯のシャワーで目を覚まし、白湯を入れたガラス製のカップを手に取る。

 電気ケトルをあらかじめ55度で登録したカスタム温度。

 脳をすっと起こすなら、これが適温だった。


 端末の隅に、未読の通知が入っている。

 開くと、ディスプレイに大きく広がる黄色。


 引いて眺めると、それはパンジーによく似た小さな花だった。

 黄色と深い紫の花弁が、まるで蝶のように開いている。


『梶さん見て! 蝶がいた!

 わたしの蝶、これだった!』


 文章から、嬉しくてしょうがないという感情がそのまま伝わってくる。

 小学生の作文でも、ここまで気持ちを素直に表すことは難しいんじゃないだろうか。


 それを見て、ようやく彼女と先日交わした言葉を思い出す。


「はははっ……やっぱり、花ちゃんはちゃうなあ」


 こちらが返信をすると、即座に既読になった。

 続く文章では、一週間もかかったことへのお詫びまで書かれていて、さすがに罪悪感を覚える。

 最近は業務にかかりきりで、正直、彼女から連絡が来ていないことすら気づかなかった。


 にもかかわらず、自分が出した無茶振りに、真剣に向き合っていたことが、文面からうかがえる。


「イラストでも、何でもよかったんやけどな……」


 元より、真冬に蝶が見つかると本気で言ったわけでもない。

 彼女がこちらの発言を、ここまで真剣に受け取るとも思っていなかった。


 ディスプレイに映る、今にも飛んでいきそうな花をじっと見つめ、小さくため息をつく。


「真面目な子やなぁ……いや、ちゃうか」


 言葉の途中で、すぐに気がつく。

 これは、真面目というよりも。


「誠実なんやろね……この子は……」


 見つけたいのは蝶だけど、それは本物じゃなくても構わない。

 自分の心が反応したもの。

 それこそが、自分にとっての正解なのだと。


 そう気づいた瞬間、心の中で何かが微かに揺れるのを感じた。


「……心の反応閾」


 一年以上、繰り返し思考実験をしても、たどり着けない答え。

 それは、数式では割り切れない「心の反応点」だった。


 なのに、この女性はそれを軽く飛び越えてくる。


 花を蝶に見立てる彼女を、開発中のAIはどう判定するだろうか。

 おそらく、どう考えても良い感触は得られそうにない。


 だけど──。


「……満点やろ。どう考えても。

 こんなおもろい子を却下する企業に、未来なんかあるかぁ?」


 ……あの人がここにいてたら、なんて言いはるやろか。


 脳内がいつものように、過去の恩人を引っ張り出して会話を繰り広げる。

 己の脳だけでは結論が出せないときの、無意識の思考の癖だった。



― 面白いなあ。梶、その子、ちょっとスカウトしてきなよ。

― あほかい。何のためにそないなことするんや。

― そりゃあ、もちろん……


「……心の反応点を測る、ため……?」


 突然、脳の奥で線がつながったように、コードが走り出した。

 その途中、ふと、モニターに映る黄色の花を見る。


 彼女が送ってきたのは、単なる写真に過ぎない。

 でも、その中に返ってくる感情があった。


──反応。

 それは数値でも、アルゴリズムでも説明できない「共鳴」。


『ここに、音はない。あるのは共鳴だけだ』


 いつかの言葉が、脳裏に浮かぶ。


 指先が、知らずキーボードに触れていた。


 // tentative module name: echo

(人の言葉に、感情の波紋を返す仕組み)


 画面の奥で、黄色い花弁がわずかに揺れた気がした。

 音もないのに、何かが確かに返ってくる気配。


 小さく呟く。

 自分にさえ聞こえない声で。


「……ECHO」



 夜がまた一つ、溶けていく。

 センター長に無理を言って、そのまま有休を連日もぎ取った。

 案件の引き継ぎも、報告もすべて済ませてある。


 たった数日の猶予が、コードを形にする最後のチャンスになる。

 自宅に完全に引きこもって早五日。


 黒いThinkPadと、銀のMacBook Proを並べ、脳の奥で走り続ける思考を、ただ形にしようとしていた。


 試作データを3Dプリンタに流し込み、レジンの層が少しずつ積み上がっていく。

 半透明の卵形が浮かび上がるのを見て、小さく笑った。


「……呼吸してはるみたいやなぁ」


 モニターの明かりだけが部屋を照らし、キーボードを打つ指先が止まらない。

 どこまでいっても論理しかない世界の中で、それでも確かに温度のあるものを作りたいと願った。


 compile complete.

(コンパイル完了──論理は、ひとまず形になった)


 no sound detected.

(音は検出されない──けれど、それでいい)


 resonance: active.

(共鳴、起動──返ってくるものがある)


 小さく息を吐き、画面の下に短く書き加える。


 echo.sys initiated.

(ECHOシステム起動──この世界に「反応」を与える)


 delay_compassion = true;

(思いやりの遅延を許可──やさしさは、すぐには届かない)


 これは、世の中のどこにもない仕組みだ。

 完成させて何が起こるかは、まだ誰にもわからない。


 画面の端に、小さく「ECHO」と刻まれる。

 誰にも傍受されない。

 記録も、ほとんど残らない。


 正確には、どこかの深層に、微かな痕が残るのだろうけど、それでもいいと思った。


 これは、特定多数の誰かと話すためのものじゃない。

 たったひとりの声が、確かに届くための場所。


 音も光もないのに、言葉の奥で心が触れあう。


 送信欄に短い言葉を打ち込む。


 "Can you hear this?"


 Enterを押すと、画面に小さな波紋が広がる。

 ふと、打鍵をやめて、声で言ってみた。


「……聞こえてるか」


 空気がわずかに揺れて、波紋が応えた気がした。

 鍵盤の音より、言葉の方が正確に心を写すのかもしれない。


 それからは、ECHOに話しかけるとき、自然と声を使うようになった。


 No sound. Only resonance.

(音はない。ただ共鳴があるだけ)


 頭の中にある理想をすべて詰め込んで形にする、その充足感に、心が震えそうになる。


「……せや。今、何日やったっけ?」


 腕にはめたスマートウォッチを見る。

 日付は三月二日。


 ……間に合うかどうかは、わからない。

 でも、どうしても、届けたかった。


 あの……心の素直な女の子に。

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