Side Kaji:やさしさは、すぐには届かない
オフィスの照明はすでに落ち、薄暗いサーバールームだけがかすかに光を放っている。
モニターには青白いコードの羅列。
冷めかけた白湯を一口飲み、指先で構文を修正する。
だが、どれだけ条件を組み直しても、理想の反応は返ってこない。
return: correct.
(プログラムは「正しい」結果を返して処理を終えた)
「……これじゃ、正しすぎるんやって」
重いため息が、足下へ沈んでいく。
「人間て、そんな単純なもんやないやろ」
その独り言が、静まり返った空間に溶けて消える。
時計の秒針の音が、遠くで小さく鳴っていた。
もう何時間ここにいるだろう。
思考は鈍っているのに、手だけが止まらない。
夜明けは遠く、不安になりそうな心を必死に見ないふりをする。
諦めるという選択肢は、海堂にも、もちろん自分にもないのだから。
◇
ふと目を覚ますと、自室のベッドの上だった。
天井の間接照明がほのかに滲み、静かな寝室には、空気清浄機の低い唸りだけが漂っている。
カーテンの隙間から、街のネオンが淡く射し込んでいた。
どれくらい眠っていたのか。外はもう夜だ。
壁時計を見ると、それでも設定したアラームが鳴るより早く目が覚めたようだ。
脳の疲れはない。
呼吸は少し浅いが、完全に覚醒すれば徐々に整う範囲だった。
高反発マットレスに抗いながら身を起こし、ゆっくりと立ち上がる。
ぬるま湯のシャワーで目を覚まし、白湯を入れたガラス製のカップを手に取る。
電気ケトルをあらかじめ55度で登録したカスタム温度。
脳をすっと起こすなら、これが適温だった。
端末の隅に、未読の通知が入っている。
開くと、ディスプレイに大きく広がる黄色。
引いて眺めると、それはパンジーによく似た小さな花だった。
黄色と深い紫の花弁が、まるで蝶のように開いている。
『梶さん見て! 蝶がいた!
わたしの蝶、これだった!』
文章から、嬉しくてしょうがないという感情がそのまま伝わってくる。
小学生の作文でも、ここまで気持ちを素直に表すことは難しいんじゃないだろうか。
それを見て、ようやく彼女と先日交わした言葉を思い出す。
「はははっ……やっぱり、花ちゃんはちゃうなあ」
こちらが返信をすると、即座に既読になった。
続く文章では、一週間もかかったことへのお詫びまで書かれていて、さすがに罪悪感を覚える。
最近は業務にかかりきりで、正直、彼女から連絡が来ていないことすら気づかなかった。
にもかかわらず、自分が出した無茶振りに、真剣に向き合っていたことが、文面からうかがえる。
「イラストでも、何でもよかったんやけどな……」
元より、真冬に蝶が見つかると本気で言ったわけでもない。
彼女がこちらの発言を、ここまで真剣に受け取るとも思っていなかった。
ディスプレイに映る、今にも飛んでいきそうな花をじっと見つめ、小さくため息をつく。
「真面目な子やなぁ……いや、ちゃうか」
言葉の途中で、すぐに気がつく。
これは、真面目というよりも。
「誠実なんやろね……この子は……」
見つけたいのは蝶だけど、それは本物じゃなくても構わない。
自分の心が反応したもの。
それこそが、自分にとっての正解なのだと。
そう気づいた瞬間、心の中で何かが微かに揺れるのを感じた。
「……心の反応閾」
一年以上、繰り返し思考実験をしても、たどり着けない答え。
それは、数式では割り切れない「心の反応点」だった。
なのに、この女性はそれを軽く飛び越えてくる。
花を蝶に見立てる彼女を、開発中のAIはどう判定するだろうか。
おそらく、どう考えても良い感触は得られそうにない。
だけど──。
「……満点やろ。どう考えても。
こんなおもろい子を却下する企業に、未来なんかあるかぁ?」
……あの人がここにいてたら、なんて言いはるやろか。
脳内がいつものように、過去の恩人を引っ張り出して会話を繰り広げる。
己の脳だけでは結論が出せないときの、無意識の思考の癖だった。
― 面白いなあ。梶、その子、ちょっとスカウトしてきなよ。
― あほかい。何のためにそないなことするんや。
― そりゃあ、もちろん……
「……心の反応点を測る、ため……?」
突然、脳の奥で線がつながったように、コードが走り出した。
その途中、ふと、モニターに映る黄色の花を見る。
彼女が送ってきたのは、単なる写真に過ぎない。
でも、その中に返ってくる感情があった。
──反応。
それは数値でも、アルゴリズムでも説明できない「共鳴」。
『ここに、音はない。あるのは共鳴だけだ』
いつかの言葉が、脳裏に浮かぶ。
指先が、知らずキーボードに触れていた。
// tentative module name: echo
(人の言葉に、感情の波紋を返す仕組み)
画面の奥で、黄色い花弁がわずかに揺れた気がした。
音もないのに、何かが確かに返ってくる気配。
小さく呟く。
自分にさえ聞こえない声で。
「……ECHO」
◇
夜がまた一つ、溶けていく。
センター長に無理を言って、そのまま有休を連日もぎ取った。
案件の引き継ぎも、報告もすべて済ませてある。
たった数日の猶予が、コードを形にする最後のチャンスになる。
自宅に完全に引きこもって早五日。
黒いThinkPadと、銀のMacBook Proを並べ、脳の奥で走り続ける思考を、ただ形にしようとしていた。
試作データを3Dプリンタに流し込み、レジンの層が少しずつ積み上がっていく。
半透明の卵形が浮かび上がるのを見て、小さく笑った。
「……呼吸してはるみたいやなぁ」
モニターの明かりだけが部屋を照らし、キーボードを打つ指先が止まらない。
どこまでいっても論理しかない世界の中で、それでも確かに温度のあるものを作りたいと願った。
compile complete.
(コンパイル完了──論理は、ひとまず形になった)
no sound detected.
(音は検出されない──けれど、それでいい)
resonance: active.
(共鳴、起動──返ってくるものがある)
小さく息を吐き、画面の下に短く書き加える。
echo.sys initiated.
(ECHOシステム起動──この世界に「反応」を与える)
delay_compassion = true;
(思いやりの遅延を許可──やさしさは、すぐには届かない)
これは、世の中のどこにもない仕組みだ。
完成させて何が起こるかは、まだ誰にもわからない。
画面の端に、小さく「ECHO」と刻まれる。
誰にも傍受されない。
記録も、ほとんど残らない。
正確には、どこかの深層に、微かな痕が残るのだろうけど、それでもいいと思った。
これは、特定多数の誰かと話すためのものじゃない。
たったひとりの声が、確かに届くための場所。
音も光もないのに、言葉の奥で心が触れあう。
送信欄に短い言葉を打ち込む。
"Can you hear this?"
Enterを押すと、画面に小さな波紋が広がる。
ふと、打鍵をやめて、声で言ってみた。
「……聞こえてるか」
空気がわずかに揺れて、波紋が応えた気がした。
鍵盤の音より、言葉の方が正確に心を写すのかもしれない。
それからは、ECHOに話しかけるとき、自然と声を使うようになった。
No sound. Only resonance.
(音はない。ただ共鳴があるだけ)
頭の中にある理想をすべて詰め込んで形にする、その充足感に、心が震えそうになる。
「……せや。今、何日やったっけ?」
腕にはめたスマートウォッチを見る。
日付は三月二日。
……間に合うかどうかは、わからない。
でも、どうしても、届けたかった。
あの……心の素直な女の子に。
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