Side Kaji:彼女のことを思い出す

 烏丸御池からほど近い再開発ビルに、アペックスホールディングスの京都サポートセンターは入っている。

 数年前に建てられたガラス張りのオフィスで、設備は最新、空調も照明も完璧。

 整いすぎた快適さと無機質な空間は、人の気配を削ぎ落としたぶん、かえって寒々しさを感じさせた。


 今日はセンター長に頼まれ、サポートコール対応の遅番に入っていた。

 本来は職務ではないが、人が足りないと聞けば断る理由もない。

 昼間は百人を超える社員が出入りするが、夜のフロアに残るのは、残業か、夜十時までサポート対応をする遅番の社員数人、そして機械の唸りだけだ。


 最後の通話を終える頃には、時計の針が十時を回っていた。

 受話器を置き、知らぬ間に張り詰めていた肩の力を抜く。

 先ほど対応した女性は、通話が繋がるなり言葉の端々に震えが混じっていた。

 受話器越しの沈黙の向こうから、泣き出すのを必死に堪える呼吸音が届く。


 「……えらい張り詰めてはったなあ。かわいそうに」


 誰にともなく呟いた声が、乾燥した空気に溶けた。

 あんなに肩肘張って倒れやしないだろうか、他人事とはいえ、心配に思う。


 アペックスは社内の競争意識が激しいせいか、真面目で責任感が強い人間ほど追い詰められやすい傾向がある。

 心の反応には必ずしきいがあり、それを越えると人は、案外あっけなく壊れる。

 それは、過去に嫌というほど見てきた。


 ふいに、頭の中にコードが浮かぶ。

 言葉より先に論理が走るのは、いつもの癖だった。

 どうやったら人の心を置き去りにせず、働きやすい組織を作ることができるのか、脳が勝手に演算を始める。


 無意識にそれらが行われる程度には、今の仕事に何もかもを捧げすぎていた。

 仕事中毒ではなく、それ以外に、選びたいと思える道がなかった。


 上からの密命で京都へ異動して二年。

 サポートセンターでの業務は表向きのもので、本来の任務は、機密性が高く、本社の上層部、数人しか知らない。


 だが、正解の見えない道を進む息苦しさに、たまに、羽を休める場所を探してしまう。


 ……難儀なもんやな、人間は。


 いっそ心がなければ、この身にまとわりつく責務から解放されるのではないだろうか。

 けれど、心があるから受け取れる温もりが、この世界にあることも、僅かながらに知っている。


 なんとなく、先ほどまで話していた彼女のことを思い出す。

 電話の向こうから聞こえた、涙まじりの「ありがとうございます」。

 あの一言には、社交辞令では出せない本音が滲んでいた。

 受話器の奥にまだ残る微かな呼吸の気配を思い出す。


 ……あれは、ええ声やったなあ。


 彼女の心を剥き出したような声音には、こちらへ感謝を伝えるための必死さがあった。

 それは顔を見て話すより余程、相手の感情が伝わってくるものだった。


 サポートセンターでそれなりに対応を重ねれば、自然とアルゴリズムが見えてくる。

 サポートが必要な人間の七割はテンパっていて、KEDB(既知障害データベース)にも載らないようなケースほど、人間の本質が出るものだ。


 こちらを駒のように扱う者もいれば、見えない相手にも礼を尽くす者もいる。

 どんな場合でも仕事の質を変えない程度のプライドはあるが、対応する相手によって自然と引き出されるものが存在するのも確かだった。


 ……皮肉なもんやなぁ、と胸の内で思う。

 来る予定もなかった場所で、いちばん大事な理を学んでいる。


 結局のところ、仕事も、人の営みや。


 最後のログを保存し、ヘッドセットを外す。

 周囲を観察しながら、サーバーモニターの光を一瞬見上げた。

 

 ──あれに触れられるんは、もう少し先やろな。


 息を吐く。音にならないほど静かに。


 モニターを消し、適当な挨拶を交わしながら出入り口へ向かう。

 フロアにはパソコンのファンの音と、遠くのキーボードを叩く音だけが残っていた。


 ドアを開けると、鴨川の方から冷たい風が吹き抜ける。

 湿った空気が肌を刺し、冬の匂いが遠くで鳴る鐘の音を包み込む。

 その音に混じって、どこかでうどんの出汁の匂いがした。


 こんな時間でも、人の暮らしは止まらない。

 その灯りが夜の底でかすかに息づいているようで、心の底の冷えた部分が、ほんの少しだけ和らぐ。


 それは、こんな夜にも、人がまだ人でいられるためのあかりのように思えた。

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