モノノケ班の事件草紙
糀野アオ@『落ち毒』発売中
第1部 連続辻斬り事件編
第1話 まどぎわ検非違使、広重
「誰か……誰か助けてくれ……!!」
男は地面に転がりながら、できる限りの大声で叫んでいた。
両手で覆った目はどちらもじくじく痛み、何も映さない。手に触れるのは涙のように温かく、しかし、もっとぬるぬるした液体。顔は焼けるように熱いというのに、背中は雪解けのぬかるんだ地面のせいで冷たい。
どうしてこんなことになった?
今夜は女の家に泊まって、明け方に帰る予定だったのに。
なのに、あいつが「帰ってこい」なんて言うから――。
ざくり、ざくり。
嫌な音が聞こえた。
一拍遅れて、今度は両足首が
「ああぁぁぁ……!!」
助けを呼びたくとも言葉にならず、口からは悲痛な悲鳴が漏れてくるばかりだ。
どうして誰も助けに来ない?
深夜を過ぎて、誰もが寝静まっている時間ではある。それでも、家屋が並ぶ小路を歩いていたのだ。
誰かこの声に気づいて、駆けつけて来てもいいはずなのに――。
ざくり、ざくり。
また嫌な音が聞こえた。
目を押さえていたはずの両手が不意になくなって、熱をおびた男の頬を冷たい夜風が撫でていった。
全身の痛みで、もう声すら出ない。
月のない夜、何も見えない暗闇の中、男の意識はさらに漆黒の世界に沈んでいった。
***
時は平安――。
碁盤目状に道が東西南北に規則正しく交差する京の都、その東寄りに位置する
どこにでもいる平凡な顔立ちに、
青年と呼ばれるにはそろそろ限界になる二十二歳の男、
春とは名ばかりで、この広い道の端にはかいた雪がまだこんもりと積もっている。日が昇ったばかりのこの時間は凍てつくように寒く、吐く息は白い。知らず知らずのうちに綿入れをかき合わせ、年寄りのように背中を丸めてしまう。
広重の少し前を歩く二人の男も同様に、話に夢中になりながらも身を縮こまらせている。
「そういや昨夜、辻斬りが出たんだってよ。五条
広重はひょろりと背の高い方の男の言葉に興味をそそられ、二人の背後に忍び寄ると、こっそり聞き耳を立てた。
五条万里小路というと、広重の住む家と同じ五条大路沿い、東に五町(約五百メートル)ほど離れたところになる。
昨夜はぐっすり寝入っていたのか、近くでそんな事件があったとは気づかなかった。
「殺されたのか?」と、もう一人の小柄でぽっちゃりした男が聞いている。
「ああ。話に聞いただけだが、そりゃあ、ひどいもんだったらしいぜ。手首と足首を全部落とされて、両目までつぶされてたらしい」
「うぇ……」と、聞いた男は言葉も出ないようだった。
「それだけじゃねぇんだよ」と、背の高い男は興奮したように続ける。
「男の大事なもんまで斬り取られていたんだってよ」
「やめろ! 想像したくねぇ!」
広重はうっかり想像してしまい、ぶるりと身震いをした。
同じ殺されるにしても、それだけは遠慮しておきたいぞ……。
二人の男はその後すぐに二条大路で曲がってしまったので、それ以上の話は聞けなかった。
いや、まあ、朝っぱらから詳しく聞きたい話じゃなかったが……。
広重はそんなことを思いながら、その先の
そのまま右手に
門構えと
役所というにはあまりにお粗末な建物である。
広重は
北側の一番日当たりが悪く、一番狭い部屋の入口に『モノノケ班』の
ここが検非違使、広重の勤め先である。
都の治安を維持するのが検非違使であるが、その中でもモノノケ班はその名の通り、
しかし、広重が配属されてからこれまで、物の怪に関する苦情、被害の届け出は多々あったものの、結果はすべて『幽霊の正体見たり枯れ尾花』。物の怪になど、一度も遭遇したことはない。
もっとも調査の結果、本当に物の怪が関与しているということになれば、
あるいは、事件の裏に人間が絡んでいたとなれば、検非違使庁でもコロシ班やヌスミ班など、内容に合わせて他の班の管轄になる。
つまりモノノケ班の仕事とは、届け出の内容について真偽を判断することのみ。
実際に物の怪を退治することもないし、犯人を
ひと言で、
出世街道から足を踏み外した武官の行き着く先――『武官の墓場』と称される部署である。
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