四頁目 赤ずきんと狩人
家の周りには地獄が形成されていた。他ならぬ、アルドレットとヴァルツの手によって。
「撃て!撃てぇ!」
叫び声とともに、無数の銃口から火が噴き出す。しかし森を疾駆する銀の影に弾はひとつとして擦りもしない。
「クソッ、ク──」
恐怖に引き攣った顔でもはや何も吐き出さない銃の引き金をカチカチと引き続ける男の首が、ずるりと横にずれて落ちた。隣にいた仲間が「ひっ」と悲鳴をあげるより早く、彼の首もまた地面に落ちる。
「う、うわぁああぁあ!!」
迫り来る濃密な死の気配に気が狂った黒服が、叫び声をあげて機関銃を乱射した。音速で射出される無数の弾があたりに飛び散り、木や地面を抉っていく。そして最後の弾が発射され──背後に無音で降り立ったアルドレットのナイフが、彼の首を横一文字に切断した。
そんな地獄の対角線上ではまた別の地獄が形成されている。
「ったく、アポイントメントもなしに押しかけて来るんじゃねえよ」
家の屋根の上、心底迷惑そうな顔でヴァルツはぼやいた。
風が彼の黒い毛並みをふわふわと揺らす。彼が纏う空気は昼下がりの庭でくつろいでいるそれと変わらない。
しかし、そんな彼の眼下にはただの肉塊と化した黒服たちがゴロゴロ転がっていた。森から家に近付こうと走ってくる黒服たちが目的地にたどり着くことはない。彼がいるからだ。
トン、と身軽な跳躍でヴァルツは地面に降り立った。森の中からはまた別の黒服たちが銃を構えてやって来る。
「まったく、本当に装備だけはご立派だな」
自分に向けられた無数の銃口にあくびで返しながら、ヴァルツは言う。黒服の一人が屈辱を隠さない表情で吐き捨てた。
「老いぼれの獣人風情が……!う──」
て、と言うより速く。
べきゃり。
鋼鉄が折れ砕け散る音がした。
男の横に立つヴァルツの右手が、砂糖菓子を潰すように銃を握り潰している。
「え」
銃を握り潰した黒い拳が、そのまま男の顔面へ音速を超える速さで直撃した。顔は潰れる、を通り越して首ごと吹っ飛んで近くの木に当たり、べちゃりと粘ついた音を立てた。
周りの黒服たちが悲鳴をあげながら銃口を修正して撃つ──その数秒があればヴァルツには十分だった。
「さっさと失せろよ、クズ野郎ども」
次の瞬間には、彼らの首は一人残らずヴァルツに無造作に掴まれていた。ちぎられたせいでぐちゃぐちゃな首の断面からは鮮血が大量に流れ落ちている。ヴァルツは冷酷な金の瞳を向けることもなく、掴んでいた首たちを地面に放った。
「デザートに焼いたアップルパイが冷めちまうだろうが」
家の奥に位置するロゼの部屋には、阿鼻叫喚と化した外の音がしっかりと届いていた。
「……すごいね」
「ああ」
絶え間ない銃声と悲鳴を聞きながら、二人は床に座ってベッドに背を預けていた。カーテンを閉めているせいで昼間にも関わらず室内は薄暗い。
ロゼは隣を見た。すぐ横にあるウルの顔はまさに顔面蒼白だった。呼吸は荒く、白い耳は後ろにぺたりと倒れており、しっぽは完全に隠れてしまっている。
「大丈夫だよ。二人は最強なんだから、絶対勝つよ」
つとめて明るい声を出したロゼにウルは何も言わなかった。カタカタと体を震わせながら、自分の身を守るように腕をぎゅっと握り締めている。恐怖と不安で揺れる金色の目は、どこか遠くを見ているようだ。
「ウル……」
彼の様子を見て、ロゼはそれ以上声をかけるのはやめた。ただそっと、包み込むようにウルを抱きしめた。少しだけ彼の震えがおさまったような気がした。
そうしてしばらく経った頃。何十分経ったのかわからない、いまだ戦闘音鳴り止まぬ外からスピーカー越しの声がした。
「──さて、そろそろ駄犬はハウスのお時間だ」
いったい何を言っているのだろう、とロゼは眉を寄せた。同時に、腕の中のウルの体が突如ピシリとこわばったのを感じて彼の顔を見る。
ウルの顔は怯えそのものだった。体も表情も凍りついたように固まっていた。
「ウル……?」
おそるおそるロゼは声をかけた。ゆっくりと、錆びついた玩具のように首を回したウルと目が合う。
金の瞳はゆらゆらと揺れていた。
怯え一色の顔をしていたウルは、ロゼの顔を見ると心臓を握りつぶされたように顔を歪めた。その表情がロゼには、迷子の子どものようにも見えた。
ウルの口が開く。はくはくと言葉を探すように小さく動いた後、彼の凍りついた喉は一言だけ声を絞り出した。
「──ごめんな」
その言葉の意味を考えるより早く、ロゼの意識は暗転した。
「──さて、そろそろ駄犬はハウスのお時間だ」
森の奥から響いた男の声に、アルドレットはぴくりと片眉を上げた。足元には今しがた殺した黒服の首より下が転がっている。
「やっぱり……いや、まだ賭けは終わっちゃいないか」
呟いたと同時に、背後から弾が飛んでくる。すぐに木の影に隠れたアルドレットは銃弾が止んだ一瞬の隙を見逃さない。黒服から奪ったリボルバーを構えると、新たな黒服たちの眉間を的確に撃ち抜いた。
弾が切れたリボルバーを放り捨ててアルドレットはふう、と息をついた。
──体力が落ちている。
じわりと額に滲む汗を苛立たしげに拭う。
理解はしていた。しかし、いざ体が思ったように動かないとなるとこうも不便なのか、と歯痒く思う。
「年はとりたくないもんだね……」
舌打ちをしながら今殺した黒服たちの銃を拾う。
そのとき、死角からアサルトライフルを構えた黒服が列をなして現れた。しかしアルドレットが反応できないはずもなく、素早い身のこなしで弾を避ける──はずだった。
ガクン、と。
地面を蹴ろうとした瞬間、ほんの刹那、膝がわずかに崩れた。彼女の超人的な反応に、老いた体がほんの一瞬遅れをとったのだ。
一秒にも満たないその瞬間。しかしすでに黒服たちは引き金を引いている。
直後、銃声の五重奏が響き渡りアルドレットの体は蜂の巣になる。
──そんな未来は一人のオオカミによって防がれた。
庇うように立ちはだかるヴァルツの大きな背中が、全ての銃弾を受け止めていた。
服が破れた背中は黒い毛がところどころ剥げ落ち、もはや焼け爛れている。それでも彼は一歩も退かず、金の瞳は揺らぐことなくアルドレットを見ていた。
「……無事だな」
ふ、と笑うとヴァルツの巨体はゆっくりと地面に沈む。ボロボロの背中から漂う鮮明な血と火薬のにおいが鼻をついた。
「──」
倒れ込む相棒の姿を目の当たりにするアルドレットの瞳は、たしかに揺れていた。その瞬間だけはその目は伝説の暗殺者のそれではなく。大切な人を想うただの人間の目だった。
だが次の瞬間には、すでに彼女の瞳は"赤ずきん"そのものに戻る。一切の迷いなく、怒りによって洗練された動きは素早く銃口を最も近い黒服の眉間へ──
「動くな!!」
森の方角から鋭い怒号が飛び込んできた。
今回はスピーカー越しに聞こえたものではない。
生の声。すぐそこにいる、残忍さの滲む男の声。
アルドレットの引き金にかけられた指が、ぴたりと止まった。
「銃を放せ、赤ずきん」
足音と共に森の奥から声が近づいてくる。奥の暗闇、木々の間の影からその男は現れた。
暗闇に浸したような色のスーツに、灰色の髪と目。顔には性根の悪さが滲み出ている。
「──お前のかわいい孫娘を殺されたくなければな」
唇の端を左右非対称に吊り上げる男の片手には拳銃、もう片方の腕にはぐったりと項垂れてるロゼがいた。目は完全に閉じられており彼女の意識がないことをアルドレットは瞬時に理解する。
「……!」
アルドレットの目が僅かに見開かれた。そのまま何も言わず、反射的に男に向けた銃口を目線は外さずにゆっくりと下ろす。
「銃を放せと言っている!!」
濁りきった灰色の目をぐわりと開いて男は怒鳴った。男が乱暴にロゼのこめかみに突きつけた銃口がゴリ、と音を立てる。
森は静まり返っていた。耳鳴りがするほどの静寂があたりを包んでいる。
アルドレットは短く舌打ちをして銃を放った。地面に当たった銃の乾いた音が森の張り詰めた空気を揺らした。瞬時に周りから現れた黒服がアルドレットを取り押さえる。
「ふ、ふふ、ははは、久しいな赤ずきん。実に五十年ぶりだ」
「五十年……ってことは、やっぱりアンタあの時の生き残りかい」
「そうだとも。あの日……お前たちが"灰の狩人"本部を襲撃し血の雨を降らせたあのとき、俺はまだ七つのガキだった」
遠い日を見つめる目をしながら、男は銃の先をロゼの頬を滑らせるように弄ぶ。
「洋服が押し込められたタンスの中、俺は必死に息を殺していたよ。そして、扉の隙間から"灰の狩人"たちが……俺の家族が皆殺しにされるのを見せられた」
憎悪に満ち満ちた灰色の目がアルドレットを睨みつける。
「──お前によってな」
「だから、アタシとその家族をぶっ殺して復讐しようって魂胆かい」
眉ひとつ動かさずアルドレットは吐き捨てた。
「くだらないね。せっかく助かった命、もっとマシな使い道はなかったのかい」
「黙れ!!!」
唾を飛び散らせて男は叫んだ。静まり返った森に怒声が破裂音の如く響き渡る。
「俺はこの日のために五十年間生きてきたんだ……お前にわかるか?たった一人で組織を立て直し、武器を揃え、人を集め、復讐のためだけに五十年生きる感情が──家族を、居場所を奪われた苦しみがお前にわかるか!?」
ロゼの首に回された腕に力が込められ、ぎゅっと首が締まる音がした。彼女の細い髪が揺れる。呼吸が乱れ、泣きながら笑っているような歪んだ顔で男は間髪入れずに続けた。
「わかるはずがない!!なぜならお前はずっと奪う側だったからだ、赤ずきん!!!」
そこまで言うと、男ははあ、はあと息を切らしながら煮詰まった狂気を隠さずに笑った。不気味なまでに白い歯と充血した歯茎が露出する。
「だから、俺が教えてやる──今度はお前が奪われる番だ。相棒も、孫娘も全部奪って、絶望の中でお前をいたぶり殺す」
男の歪んだ笑みが深くなる。風が吹いて木の葉が震え上がるようにざわめいた。
「覚えておけ、俺の名はスアルグ・グラウ。お前を地獄へ送る男の名だ」
アルドレットの表情は変わらなかった。一度だけ目を閉じると、再び真紅の瞳がスアルグを見据える。その研ぎ澄まされた視線は彼の一挙一動を決して見逃さない。
「そうかい。じゃあスアルグ、ひとつ聞くがね。ロゼは家の奥にいたはずだ、どうやってここまで連れてきたんだい?」
「ははは、いいだろう。間抜けな老いぼれに最期に教えてやる──うちの犬はな、優秀なんだ」
出てこい、とスアルグが言った。
かさりと落ち葉を踏む音がして、木の影から白い人影が現れる。
その人物を見てアルドレットは驚いた様子はなかった。ただ温度のない声に僅かに失望を滲ませて彼女は言った。
「……アンタ、やっぱり飼い犬だったんだね──ウル」
スアルグの横で、ウルは死んだような顔をして目を逸らした。白い頬は泥で汚れ、自分を守るように左腕を握りしめている。アルドレットの痛いほどの視線から逃げるように、抜け落ちた表情で俯いた。
森は沈黙していた。
それを、小さな蕾ような声が破った。
「……ウル……?」
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