二頁目 ロゼとウル

 自分を包み込むような柔らかな光で少年は目を覚ました。

 天井の梁から吊るされたドライフラワー、部屋いっぱいに広がる木の香り、開け放たれた窓から入ってくる風は彼の白い毛並みを優しく撫でる。少年の視界には全く見慣れない光景が広がっていた。

 包帯で覆われた自分の胸に手を当てると、あたたかい布団の感触が指先に伝わった。


「……ここ、は……」


 かすれた声に応えるように、扉の向こうでパタパタと足音がした。


「あ、起きた!?よかったぁ!」


 林檎のように真っ赤な瞳の少女が、ぱっと笑顔を咲かせて飛び込んでくる。

 淡い栗色の髪が揺れて、光の粒が跳ねた。


「あなた、森で倒れてたの。すっごい血が出てたんだから!」

「……キミが、助けたのか」

「うん!おばあ様にも手伝ってもらって、ね!」


 そう言ってロゼは振り返る。

 そこにはアルドレットが腕を組み、ドアのそばに立っていた。

 厳しい眼差しではあったが、その声は静かで落ち着いていた。


「色々と聞きたいことはあるが、とりあえずは後回しにしてやるよ。……名前は?」

「……ウル」

「そうかい。ウル、傷が癒えるまでここで寝てな」


 短くそう言って、アルドレットは出て行った。残されたロゼはベッドの脇に座り、にこにことウル覗き込む。


「ねえウル、痛くない?お腹すいてない?」


 ウルはわずかに頷いた。それ見て、ロゼは勢いよく立ち上がる。


「じゃあ、ヴァルツにお昼作ってもらうね! すっごくおいしいから楽しみにしてて!」


 元気いっぱいに部屋を飛び出していく少女を見て、ウルは小さく息をついた。

 ──ここはずいぶんと、あたたかい場所らしい。


 


 食卓では湯気の中で笑い声が弾けていた。焼き立てのパンに、野菜と肉がたっぷり入ったスープ。ティーポットの中には摘みたてのハーブを使ったハーブティー。食欲をそそる香りがあたりに充満していた。


「おかわりいるかい?少年」


 ヴァルツが金の瞳を細め、低く落ち着く声で尋ねた。大きな手に包まれたマグカップからはハーブの香りが立ちのぼる。ウルは小さくふるふると首を振った。

 その隣ではロゼがパンをちぎりながら、幸せそうな顔でもぐもぐとリスのように頬袋を膨らませている。


「ね、ウルってパンは好き?ヴァルツのパンはね、世界一なんだよ!」

「へへ、よせやい」


 ヴァルツは照れくさそうに鼻を鳴らした。ぺたりと黒い耳が後ろに倒れる。その隣で、アルドレットが自分のスープに入っていたニンジンを無言でヴァルツの皿に移していた。


「あー!ニンジンちゃんと食べなさい!ガキどもの前で……おまえ今年いくつだよ!?」

「忘れたね」

「79だよ!」

「キャンキャンうるさいねぇ。何度もあたしの皿にはニンジン入れるなって言ってんのに入れるあんたが悪いんだろう」

「俺が悪いの!?」

 

 嘆くヴァルツを見ながら、ロゼは笑って流れるように自分の皿のニンジンをウルの皿に移した。それを見てアルドレットがきっと目を細める。


「ロゼ。ちゃんとニンジンも食べな」

「おばあ様だって同じことしてるじゃない!」

「あたしゃいいんだよ、老いぼれは嫌いなもん食べてる暇なんてないからね。アンタはまだガキなんだから好き嫌いすんじゃないよ馬鹿たれ」

「そんなの屁理屈よ!ズルイわ!」


 アルドレットはフンと鼻を鳴らした。


「あたしだって若い頃はなんでも食べたさ。好き嫌いなんかしてたら強くなれないよ。赤ずきんになるんじゃないのかい?」

「うっ……」


 そう言われるとロゼは何も言い返せない。しぶしぶニンジンを自分の皿に戻した。

 そんな彼らのやりとりを見て、ウルは自分の口角が少しだけ上がるのがわかった。スープの水面に穏やかな顔をした自分が写っている。


「……あったかい」


 こんなふうに笑い声が飛び交う食卓に座るなんて、いつ以来だろう。いや──最初から知らなかったのかもしれない。

 彼の呟きにロゼがにっこり笑う。


「出来たてだからね!たくさんあるから、遠慮しないでいっぱい食べてね!」


 ウルはスープを口に運んだ。あたたかな味がじんわりと全身に染み渡っていく。

 その熱は冷え切った目の奥にまで届いて、思わず下を向いた。それを見たロゼが心配そうにウルをのぞき込む。


「だいじょうぶ?もしかして口に合わなかった……?」

「……違う」


 もう一口スープを飲む。冷たく硬いパンと汚い水の味に慣れきった舌に、誰かを想って作られた料理の味が広がる。ず、と鼻が鳴った。


「おいしい。すごく、おいしい」


 ウルは大切に噛み締めるようにそう言った。それを見て、ロゼは優しく微笑む。


「……そっか。よかった」

「いっぱい食べろよ」

「好き嫌いはすんじゃないよ」


 ウルはこくりと頷いた。

 暖炉で薪のはぜる音がする。食器がかちゃかちゃと笑い合うように音を立てて、ロゼたちの他愛無い会話が流れていく。あたたかい料理が喉を通り、部屋には落ち着く香り。食卓を囲むロゼたちはころころと楽しそうに表情を変える。

 ありふれたその空間のすべてが、ウルの心に染み込んでいった。





「ね、森に遊びに行こうよ!見晴らしのいい木があるんだよ!」


 食後、部屋にやってきたロゼはそう言ってウルの手を引いた。ウルはされるがまま外へと連れて行かれる。

 その途中、部屋を出て廊下を歩いているとき。一室の扉が少しだけ開いていた。ウルはその隙間から、部屋の中に真っ赤な頭巾が大切そうに飾られているのを見て思わず足を止めた。まるで血で染め上げたかのような真紅の頭巾は、長い歴史を経たような重厚な空気を纏っている。


「……赤ずきん」

「ん?ああ、おばあ様の部屋のあれ?」


 ロゼは視線だけで部屋の奥を示した。


「あれはね、代々我が家で"赤ずきん"を襲名した人が受け継ぐ大事なものなの」

「……さっきもアルドレットが言ってたけど、その"赤ずきん"ってなんなんだ?」


 ウルは部屋の中から目を離さずに抑揚のない声で言った。ロゼは「えっと……」としどろもどろになるも、少し考えると一度まぶたを閉じて迷いを振り切るように息を整えた。そして、真剣な顔で口を開いた。


「……暗殺者だよ。みんなが平和に暮らせるように、社会の裏側で悪い人たちをお掃除するの」


 「暗殺者」という単語にウルの白い耳がぴくりと動いた。


「でも……それって結局人殺しだろ」


 冷たい声の奥に、怒りとも恐怖ともつかないものが沈んでいた。しかしそれはロゼを責めているというより──もっと別の誰かに向けた苦味が滲んでいた。

 彼の言葉にロゼは少し寂しげに笑って目を伏せた。真紅の瞳にまつ毛の影が落ちる。


「それは、そうだね。誰であろうと、人を殺すのは悪いことだよ」


 「でも」と彼女は続けた。振り向いたウルと目が合う。赤い瞳は、まっすぐ前を向いて。


「それでも私は、"赤ずきん"になりたいの。罪のない人たちが笑って平和に過ごせるように、彼らの手が血で汚れないように、みんなを守りたい。そのためなら私はどれだけ血を被ろうとかまわない」


 彼女のまっすぐな迫力に驚いたように目を見開くウルに、ロゼは一転照れたように笑った。


「おばあ様は"赤ずきん"の仕事を果たしおおせた──そんなおばあ様がね、かっこいいなって思っちゃったの」


 えへへ、と笑うその顔はあまりに純粋で、痛いほど善良で。

 人を守るために人を殺す──その矛盾に無垢に憧れる目の前の少女のちぐはぐさに、ウルは何も言えなかった。ただ、その白くて眩しい影から目が逸らせなかった。

 彼の反応に、ロゼはわざとらしく大きな声を出した。


「それより、早く森に行こうよ!お気に入りの木が……あ、ウルって木登りできる?」

「できる。と思う……」

「うーん、まあできなくても私が教えてあげるからだいじょうぶ!ほら行こう!」


 ロゼは再びウルの手を引いて駆け出す。その華奢な手はあたたかった。触れられることに慣れていないはずの獣の手が、思わずその温度を握り返しそうになった。





「じゃーん!私のお気に入りの木はこれ!」


 午後の日差しが降り注ぐ森の奥で、一本の一際大きな樫の木をロゼは示した。

 幹はヴァルツくらいの長身が三人手を広げてようやく囲めるほどの太さで、空へ突き上げるように伸びる先端を見上げていると首が痛くなるのは確実だ。


「でっか……」

「すごいでしょ?森の中で一番大きい木なんだよ。この上から見る景色が最高なの!」


 そう言うやいなや、ロゼはぴょんと近くの枝に飛びついた。軽い身のこなしで体を持ち上げ、するすると上へ登っていく。無数の木の葉が落とす柔らかい影の中で、ウルは黙ってその様子を見上げていた。彼女の身軽な姿は木の枝を渡るリスのようだ。


「ほら、ウルも!」


 中間地点あたりまで登ったところでロゼが地面に向かって声をかける。


「……落ちたらどうするんだ」

「そのときは助けるからだいじょうぶ!」


 ニッコリと軽い調子で言い切るロゼに、ウルは金色の目を瞬かせた。声のトーンは軽いのに、怪我した自分を背負って走った少女が言うと、本当に助けてくれそうに思える。

 ……まあ、いいか。ウルはぎこちないながらもロゼの木登りを見よう見まねでやってみた。

 獣人の身体能力の高さゆえか、危なげなくロゼのいるところまでたどり着いたウルを見て彼女はパッと笑った。


「できたじゃん!ウル、木登りの才能あるよ!」

「どこで使うんだその才能」


 近い。ウルは思わず目を逸らした。目と鼻の先で見るには彼女の笑顔はあまりに眩しい。それに、人より何倍も優れた嗅覚が揺れる髪の甘い香りをとらえてしまって落ち着かない。


「よーし、このままてっぺんまで行こう!」


 ウルの様子を知ってか知らずかロゼは明るい声でそう言った。

 そうして二人一緒に木の頂上、最も高い位置に生える枝を目指して登った。最後、ひと足先に目的地にたどり着いたロゼは笑顔で手を差し出す。そこは葉が少ないため陽光が降り注いでいる。


「あと少しだよ、ウル!」


 昼下がりの太陽を背負ったその笑顔は、しかし本物の太陽よりも明るく輝いて見えた。その笑顔が自分の名前を呼んで、手を差し伸べてくれる──それはあまりに眩しくて、ウルの視界はぱちぱちと星が弾けるような錯覚を覚えた。

 吸い寄せられるように手を伸ばす。ウルの手が届くより早く、ロゼの華奢な手が伸びて白い毛むくじゃらの手を掴んだ。ぐい、と小さな手が光の中へウルを引き上げる。

 一気に視界が白んでウルは思わず目を閉じた。風が強く吹き、ウルはそろりと目を開けた。


「……わ」


 視界に広がるのは、地上では絶対に見られない景色だった。

 眼下に広がる森はまるで海だ。濃い緑に薄い緑、さらには黄色。何色もの葉が風に揺れて、光を弾く波のようにざわめく。少し湿った土と木のかおりがウルの鼻をくすぐった。雲ひとつない青空には白い鳥が一羽飛んでいる。


「ね?すごいでしょ、この景色」

「ああ……」


 ロゼの弾む声に半ば無意識で頷く。ウルの目は人生ではじめて見る壮大な自然に釘付けだった。

 不思議だ。自分がとてもちっぽけに思える景色なのに、悲しくはない。

 むしろ、世界はこんなにも大きく広いのだと安心を覚える。そうだ、今自分の胸の中に灯っているこれは──


「──自由」


 ふと、ロゼの澄んだ声が響いた。


「私ね、この景色を見るといつも思うんだ」


 まっすぐにはるか彼方を見つめる赤い瞳は、陽の光を浴びてきらきらと輝いている。


「世界って、こんなに広くて自由なんだって。だから……私が"赤ずきん"になりたいのも、私自身が選んだ自由なんだよ」


 ロゼは森の向こうに見える街を指差した。遠くに、小さな煙突から白い煙が上がっている。


「私はね、明日も明後日も、あの煙がちゃんと上がる世界であってほしいの」


 風が彼女の柔らかい髪を揺らす。

 ロゼの横顔は聖母のようにも、覚悟を決めた執行人のようにも見えた。


「なんで、そんなふうに思えるんだ」


 ウルの鋭い声にロゼが振り向く。ウルは無意識のうちに拳をきつく握りしめていた。


「所詮は他人だろ。顔も名前も知らない奴らのために、どうして命をかけられるんだ。お前があいつらのために死んだとしても、あいつらはそんなこと知らずに……お前に感謝のひとつもせずにのうのうと生きていくんだぞ」

「それでいいんだよ」


 ハッと顔を上げた。揺らぐことない真紅の瞳と目が合う。彼女は笑っていた。


「みんな私のことなんて知らないで普通に、幸せに生きていく。それでいいの。だって──人知れず世界を守るヒーローって、最高にカッコいいでしょ?」


 春の日差しの中、少女は言った。彼女のすべてが今の言葉が嘘偽りない心からの気持ちだと語っている。無邪気な笑顔は春風に揺れるマーガレットのようだった。

 ああ、そうか──ウルはそこで否応なくストン、と理解した。

 この少女は、生まれながらのヒーローなのだと。

 胸の奥が熱を持つ。生まれてはじめて心臓が鼓動したように、すぐ耳元でどくんと音がした。


「それでね!」


 ずい、と急にロゼの顔が近付いてきてウルは思わずのけぞった。この高さでは勘弁してほしい。


「"赤ずきん"になるためにはいろんな掟があるんだけど、その中に"オオカミの相棒を見つけること"があるの」


 そう言うやいなや、ロゼの血色のいい両手がウルの毛むくじゃらの手を包んだ。


「私、ウルと相棒になりたい!森であなたを見つけたとき、運命だって思ったの!

ねえ、ウル──私の相棒になって!」


 ポカン、と間抜けに口を開いていたウルは、みるみるうちに顔を朱色に染めて


「は……はぁ!?!?」


 と、大声を上げた。咄嗟にロゼの手を振り解こうとするが、がっしりと掴まれておりまったく離れてくれない。少女相手に強く抵抗することもできずウルはせめてもの抵抗として顔を逸らす。


「ば、馬鹿言うな!そんな急に……そもそも昨日会ったばかりのこんな得体の知れないやつを相棒にしたいだなんて、お前おかしいんじゃないのか!?」

「付き合いの短さなんて関係ないよ!相棒になったらこれからずっと一緒に過ごすんだから!」

「なっ……」


 曇りなき眼で熱弁するロゼに、ウルはぱくぱくと情けなく口を動かす。


「ね?お願い!私と一緒に世界中をまわって、みんなを守ろうよ!」


 その言葉に、ふと彼女の隣に立つ自分を想像する。暗殺者である以上決して明るい道ではないだろうが──きっと彼女の相棒になるのは、これまでの人生では考えられないほどに自由で幸せなのだろう。

 そこまで考えて、自分のこれまでと"今"を思い出して頭の芯が冷えていった。彼女の相棒になる未来──それは空想上のむなしいお伽話だと誰よりも己が叫ぶ。


「ウル……?」


 彼の様子の変化に気付いたロゼが、心配そうに眉を下げる。ウルは目を伏せると静かに彼女の手をほどいた。ぬくもりが離れていくのを寂しく思う自分に嫌気がさした。


「……気が向いたらな」


 無理だ、とはっきり言えなかったのは。

 せめてもう少しだけ、夢を見ていたかったからなのだろう。

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