第3話 日曜日の甘い罠、あるいは通話中の『捕食』

日曜日。

 それは、学生にとって唯一の安息日であり、誰にも邪魔されずに惰眠を貪ることができる聖なる時間だ。

 だが、今の俺にとってそれは、「彼女が帰ってくれない時間」を意味していた。

 正午近く。

 カーテンの隙間から強烈な日差しが差し込んでいるにもかかわらず、俺たちはまだ布団の中にいた。

 正確には、俺が起きようとするたびに、九条冬華がタコの足のように手足を絡めて阻止してくるのだ。

「……九条、そろそろ起きないと」

「やだ。充電、まだ終わってない」

 彼女は布団に潜り込んだまま、俺の脇腹あたりに顔を埋めてくぐもった声を出す。

 昨晩よりも体温は上がっているはずなのに、彼女は貪欲に俺の熱を求めて離れようとしない。

 シャツ越しに、彼女の柔らかい身体の凹凸が押し当てられる感触が、俺の理性をゴリゴリと削っていく。

 その時、枕元のスマートフォンが震えた。

 着信画面には、クラスの悪友である田中の名前が表示されている。

「……悪い、電話だ」

 俺は彼女の拘束を少しだけ解き、通話ボタンを押した。

「おう、田中か。どうした?」

『よう! 今からゲーセン行かねえか? 新しいのが入荷してさ』

 日常からの誘い。

 だが、その平和な会話は、布団の中の異変によってすぐに脅かされることになった。

 ごそり。

 布団が大きく盛り上がったかと思うと、九条が這い上がってきたのだ。

 彼女は不機嫌そうに目を細め、スマートフォンを睨みつけている。

 そして――無言のまま、俺のTシャツの襟元を強引に引き下げた。

(……おい、ちょっと待て)

 目で制止するが、彼女は無視だ。

 あろうことか、電話を持っている右側の首筋に、自身の唇を押し当ててきた。

『――でさ、駅前に集合な。聞いてるか?』

「あ、ああ……き、聞いてる」

 声が裏返りそうになるのを必死で堪える。

 首筋に、濡れた感触が走った。

 キスではない。もっと動物的な、味見をするような舌の動き。

 背筋に電流が走り、俺は身体を硬直させた。

「……ん……」

 わざとなのか、彼女が小さく、艶めかしい声を漏らす。

 スマートフォンのマイクのすぐ近くで。

『ん? 今なんか女の声しなかったか?』

「き、気のせいだろ! テレビだよ、テレビ!」

 俺の焦燥を楽しむように、九条の行動はエスカレートしていく。

 唇が耳たぶを甘噛みし、熱い吐息を耳の穴に直接吹き込んでくる。

 ゾクゾクとした痺れが脳天を突き抜け、思考が白く飛びそうになる。

(こいつ、確信犯だ……!)

 俺を遊びに誘う友人の声と、俺を陥落させようとする美少女の熱。

 その板挟み状態で、俺の忍耐は限界を迎えていた。

 彼女の手が、Tシャツの下から素肌を這い上がり、敏感な胸元を指先で弄り始めた瞬間――

「わ、わかった! 今日は無理だ、また今度な!」

 俺は逃げるように通話を切り、スマートフォンを放り投げた。

 静寂が戻った部屋に、俺の荒い息だけが響く。

 犯人は、俺の胸の上で満足げに微笑んでいた。

 その唇は濡れていて、瞳には「私の勝ち」という色が浮かんでいる。

「……ひどいじゃないか」

「あなたが悪いんでしょう? 私という湯たんぽがありながら、他の男と遊ぼうとするから」

 彼女は悪びれもせず、ぺろりと自分の唇を舐めた。

 その仕草が、あまりにも扇情的で。

「罰として、今日は一日中、離してあげない」

 彼女は再び俺の首筋に顔を寄せると、先ほどよりも強く、所有印を刻むように唇を吸い付けた。

 ちくりとした痛みと、それを上書きするような甘い痺れ。

 日曜日の太陽が高い位置に昇っても、俺たちがベッドから抜け出せる気配は一向になかった。

 †

 翌月曜日。

 更衣室の鏡の前で、俺は絶望することになる。

 首筋に一箇所。

 コンシーラーでも隠しきれないほど鮮やかな、紅い痕(キスマーク)が残されていたからだ。

 教室に入ると、いつものように涼しい顔で読書をしている九条冬華がいた。

 だが、俺が席に着くと、彼女は誰にも聞こえないような小声で、ボソリと呟いた。

「……ちゃんと、付いてるわね」

 その日、俺が夏場にもかかわらずタートルネックのような恰好で授業を受ける羽目になったのは、言うまでもない。

 そしてクラス中が「あいつ、なんで今日あんな重装備なんだ?」と噂する中、彼女だけが口元を緩めていたのを、俺は知っている。

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