第三章:白い箱庭の記憶

 消毒液と、枯れかけた花。

 総合病院特有の匂いが、僕の肺を冷たく満たした。

 受付で粘り、個人情報保護の壁をどうにか突破して教えてもらった病室の前で、僕は立ち尽くしていた。手が震えていた。ノブに手をかけるだけで、数分を要した。


 深呼吸をして、扉を開ける。

 六人部屋のカーテンで仕切られた一角。窓際のベッドに、彼女はいた。

 渚は、窓の外の枯れ木を見つめていた。

 痩せていた。あの美しいロングヘアは束ねられていたが、艶を失っているように見えた。

「渚」

 僕は、喉に張り付くような声で名前を呼んだ。


 彼女がゆっくりと振り返る。

 その瞳が僕を捉えた。

 僕の心臓が早鐘を打つ。怒られるかもしれない。泣かれるかもしれない。

 しかし、彼女の口から出たのは、僕の人生で最も聞きたくない台詞だった。


「あの……どちら様でしょうか?」


 時が止まった。

 彼女の表情には、悪意も、演技も、拒絶さえもなかった。ただ、知らない人間が急に入ってきたことに対する、少しの驚きと、礼儀正しい困惑だけがあった。

 僕という存在が、その瞳の奥のどこにも映っていない。フィルムが感光して真っ白になってしまったかのように、僕たちが過ごした時間は「無」になっていた。


「僕だよ……。湊だ。カメラマンの、湊」

 縋るように言った。

 彼女は眉を寄せ、記憶の糸を手繰り寄せるように視線を宙に彷徨わせる。

「ミナト……さん? ごめんなさい、私、少し記憶が混乱していて……お仕事の関係の方ですか?」


 他人行儀な敬語。それが鋭利な刃物のように僕を切り裂く。

 もういい。これ以上は耐えられない。

 僕は逃げ出したくなった。ここにいるのは渚の形をした別人で、僕の知っている彼女はもういないのだ。

「……いや、ごめん。間違えたみたいだ」

 嘘をついて、背を向けようとした時だった。


「あっ……」

 背後で、彼女の短い呼気が漏れた。

 振り返ると、渚が胸元を強く握りしめ、大粒の涙をこぼしていた。


「あれ、なんで……」

 彼女は困惑したように、自分の頬を濡らす涙を指で拭った。「おかしいな。私、あなたのこと、知らないはずなのに」

 彼女は震える声で言った。

「あなたの声を聞いたら、急にここが、苦しくなって……。すごく、懐かしくて、寂しくて……痛いんです」

 脳は忘れていても、彼女の身体が僕を覚えていた。

 僕は駆け寄り、彼女を抱きしめたい衝動を必死で堪えた。今それをすれば、彼女をさらに混乱させるだけだと分かっていたから。


 その後、別室で主治医から聞かされた話は、現実的な絶望だった。

 医師の口から紡がれる言葉は、ひどく遠く、水の中にいるように歪んで聞こえた。


「良性」という単語だけが、一瞬、頼りない救命ボートのように僕の意識に浮かんだ。命に別状はないのか、と。

 だが、続く言葉がそのボートの底に容赦なく穴を空けていく。

「発生部位が悪く、手術不可」「腫瘍による記憶中枢の圧迫」「逆行性健忘」。

 専門用語が、僕の頭の中で不協和音となって鳴り響く。

 彼女の命を繋ぐ唯一の手段は、放射線治療で腫瘍の増大を抑えること。しかし、その代償として、彼女の記憶障害はさらに進行し、そして――副作用で、髪が抜け落ちる。


 彼女が何より大切にしていた髪。

 女優としての自信のなさや空虚さを隠すための、美しい鎧。それを剥ぎ取られ、記憶まで奪われたら、彼女はどうなってしまうのか。


 治療が始まって二週間。

 病室の空気は、日を追うごとに張り詰めていった。

 その日、彼女のベッドの周りは、分厚いカーテンで隙間なく閉ざされていた。それはまるで、彼女が世界から自分を切り離すために築いた、脆く、しかし絶対的な城壁のようだった。


「渚?」

「だめ! ……開けないで」

 僕がカーテンに手をかけた瞬間、内側から悲鳴に近い拒絶が飛んできた。


「お願い、湊さん。見ないで。今の私を、見ないで」

 カーテン越しに聞こえる声は震えていた。

「枕元がね、髪の毛だらけなの。手櫛を通すだけで、指に絡みついてくるの。……私、お化けみたいになっちゃった」

「気にしないよ。治療が終わればまた生えてくる」

「髪だけじゃないんです」

 彼女の声が、涙で湿り気を帯び始める。

「昨日ね、看護師さんが誰だか分からなかったの。今日は、お母さんが来てくれたんだけど、一瞬、誰だか分からなくて……」


 すすり泣く音が聞こえる。

 カーテンに、彼女が膝を抱えて丸まっている影が映る。その影が小さく震えていた。

「怖いんです。私の頭の中から、大切なものが一つずつ消しゴムで消されていくみたい。私、空っぽなのに……役という中身がないと生きていけないのに、その役さえも覚えられない。……明日は、きっとあなたのことも分からなくなる」

「渚……」

「湊さんの中の私は、まだ綺麗ですか?」

「ああ、綺麗だよ。ずっと」

「だったら、そのままで終わらせて」


 その言葉は、どんな罵倒よりも重く、僕の胸を押し潰した。

「もう、ここには来ないでください。怪物になって、中身まで空っぽになっていく私を、あなたに見られたくない。……あなたの知っている『神崎渚』のままで、死なせて」


 カーテンの向こうから、決定的な言葉が放たれた。

 過去の美しい記憶(レコード)を守るために、現在(ライブ)の自分を消そうとする彼女。

 僕はカーテンの布を強く握りしめた。

 僕は映像作家だ。消えゆくものを美しいまま保存するのが仕事だ。彼女の願い通り、ここで立ち去れば、僕の中の「神崎渚」は永遠に美しいままだろう。

 でも。


 僕は立ち上がった。

 僕が撮りたいのは、美しい過去の遺影じゃない。

 たとえノイズまみれでも、ピントが合わなくても、今、ここで生きている彼女だ。

 僕は記録しなければならない。彼女が自分自身を忘れてしまっても、「君はここにいる」と証明するために。

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