リ・テイク

銀 護力(しろがね もりよし)

第一章:ファインダー越しの嘘

 ファインダー越しの彼女は、完璧な嘘つきだった。


 五月の由比ヶ浜は、夏を待ちきれない湿った風が吹いていて、彼女の自慢だというストレートのロングヘアを容赦なく巻き上げていた。けれど、彼女――渚(なぎさ)は、乱れる髪さえも演出の一部のように味方につけ、カメラに向かって屈託のない笑顔を向けている。


「カット。今のよかった。少し休憩入れようか」


 僕が声をかけると、彼女はふう、と小さく息を吐き、瞬時に「女優」の仮面を外した。

 僕、湊(みなと)は二十九歳。映像作家として独立して三年。

 僕がスチール(写真)ではなく「映像」に固執するのは、幼い頃に死別した母の記憶が、写真の中の静止画としてしか残っていないからだ。声も、動く癖も、すべて忘れてしまった。

 だから僕は、時間は流れ去り、人は消えゆくものだという諦めと、それを少しでも引き止めたいというエゴのために、カメラを回し続けている。


 今回の仕事は、ある新人シンガーのミュージックビデオの監督兼撮影。

 曲のテーマは『残酷な別れと、前向きな未練』。

 ――新しい恋人ができたから、あなたは早く私を忘れて。

 そんな、身勝手極まりない歌詞を、明るいポップチューンに乗せた曲だった。


「湊さん、モニターチェックしてもいいですか?」


 渚が近寄ってくる。二十五歳と聞いていたが、カメラを通さない彼女は、もっと幼く、そしてどこか頼りなく見えた。

 オーディションの時、彼女は部屋の隅で気配を消していた。「私、空っぽなんです」とでも言いたげな虚ろな目。だが、演技の審査が始まった瞬間、その器に「役」という他人の魂を流し込み、別人のように発光したのだ。

 そのギャップに、僕は惹かれた。いや、記録者として「この空虚を撮りたい」と思わされた。


「ここ、すごくいい画が撮れてるよ。逆光が髪に透けて、歌詞の『さよなら』とリンクしてる」


 僕がモニターを指差すと、彼女は少しだけ安堵したように口元を緩めた。

「よかった……。私、笑えてましたか? この曲の『私』は、未練を隠して笑わなきゃいけないから」

「ああ、完璧だったよ。……でも」

「でも?」

 彼女が不安げに僕を見上げる。その瞳は、吸い込まれそうなほど黒く、濡れていた。

「カメラが回っていない時の君の方が、この曲の本質に近い気がするけどね」


 僕が何気なく言うと、彼女は驚いたように目を見開き、それから急に恥ずかしそうに視線を逸らした。

「……バレてますか。私、本当はこういう明るい役、苦手なんです」

 彼女は自分の二の腕を抱くようにして、小さく苦笑した。

「私、普段の自分に自信がないんです。中身がないから、こうして誰かの役を演じていないと、自分が透明になって消えちゃいそうで」


 その言葉は、僕の胸の奥にある古傷――母の記憶が風化していく恐怖――を、鋭く刺激した。

「……消えないよ。僕が撮ってる限りは」

 つい、口に出していた。

 彼女がきょとんとして僕を見る。

「あ、いや。そのために僕がいるってこと。君が透明にならないように、僕がちゃんと記録(レック)するから」


「ふふ、何ですかそれ」

 彼女は長い髪を手で梳きながら、うつむいて笑った。その仕草は演技ではない。風に吹かれて所在なさげにしている「素の彼女」は、どんな脚本よりも美しく、そして脆かった。


 撮影は夕暮れまで続いた。

 マジックアワー。空と海が紫とオレンジのグラデーションに溶け合う時間帯。

 ラストシーンは、彼女がカメラ(=元彼)に向かって、最後の別れを告げて走り去るカットだ。


『ねえ、約束して。私より幸せになるって』


 リップシンクする彼女の唇が動く。

 その時、強い海風が吹き、彼女の長い黒髪が顔を覆った。彼女は髪をかき上げながら、カメラの奥にいる僕を――レンズ越しではなく、僕自身の目を――射抜くように見つめた。

 その目は、演技ではなかった。

 空っぽの器である彼女が、初めて「誰か」を求めて縋るような、切実な眼差し。

 僕は息をするのも忘れて、シャッターを切るように録画ボタンを押し続けた。


 それが、僕たちの恋の始まりだった。

 その映像が、やがて彼女自身さえも忘れてしまう「遺書」のようになるとは知らずに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る