第12話 財務省の会議机と、「冒涜」と書かれた公印付きの紙


“癒やしを売り物にすることは、神への冒涜である”。

——その文言を、財務省の会議室で聞かされる日が来るなんて、誰が想像しただろう。


◇◇◇


「……これが、アルマリア大神殿からの正式な通達だ」


長い机の上に、一枚の羊皮紙が置かれた。

財務省の会議室。

重そうな椅子と帳簿の山に囲まれた空間に、神殿の紋章入りの封蝋は、やけに場違いに見えた。


通達を読み上げたのは、ユリウスの上司にあたる課長——痩せぎすで眼鏡をかけた男だ。


「“王都および周辺地域において、『癒やしを保険として売買する』行為が横行していると聞き及ぶ。

かかる行為は、神の慈悲を値札で量るものであり、信徒を混乱させるおそれがある”」


そこで一度、眼鏡の奥の目がこちらをちらりと見る。


私は、背筋を正したまま、両手を膝の上で握りしめた。


「“ついては、王国財務省におかれても、かかる行為に公的なお墨付きを与えぬよう、慎重なご判断を望む”」


最後まで読み上げると、会議室に重い沈黙が落ちた。


机を挟んで向かい合って座るのは、ユリウスと、その同僚と思しき数名の官吏。

私はその端の席に、少しだけ居心地悪く座っている。


(……正式に、目をつけられた)


胸の奥で、苦い実感がじわりと広がる。


エレナの手紙。

門の外での再会。

あの優しい文字の裏側で、神殿全体もきちんと動いていたというわけだ。


「“横行”は言いすぎだな」


ユリウスが、皮肉っぽく息を吐いた。


「まだ兵士十五人と冒険者十五人、合計三十人の試験導入だ。

“横行”するほど広まっていない」


「そこじゃないだろう、グレンフィード」


課長が、ややうんざりしたように額を押さえる。


「問題は“神殿が不快感を表明した”という事実だ。

あそこを敵に回したくはない」


別の官吏が口を開いた。

柔らかい物腰だが、言葉の端々に打算が滲む。


「王都の民心を考えれば、大神殿との対立は避けたい。

それに、“保険”とやらはまだ試験段階だろう?

ここで一度、引き上げてしまうという選択も——」


「ありません」


自分でも驚くくらいはっきりとした声が出た。


視線が一斉にこちらへ向く。


「……アルマリア嬢?」


課長の眉がわずかにひそめられる。


「す、すみません。

でも、“引き上げる”というのは、“今契約している三十人から、約束を取り上げる”ということです」


膝の上で握りしめた手のひらに、うっすらと汗が滲む。


「“怪我をしても治療費で生活が潰れない”と信じて、毎月銀貨一枚を預けてくれている人たちに、今さら“やっぱりやめます”とは言えません」


官吏のひとりが、軽く肩をすくめた。


「理想論だな」


「理想かもしれません。

でも、私にはそれが、最低限の“誠実さ”だと思えます」


喉がひりつく。


——神殿でさえ。“神の御心”を盾に、制度の矛盾をごまかした。


そのやり方を嫌って飛び出してきておいて、ここで同じことをしたくない。


「アルマリア嬢」


課長が、今度は少し柔らかい声を出した。


「君の熱意はわかった。しかし、これは“一人の元聖女の信念”でどうこうできる話ではない。

相手は王都の信仰を一手に握っている大神殿だ。

我々が“国としての顔”を立てなければ——」


「だからこそです」


言葉が、少しだけ課長の声に重なった。


「“国としての顔”を守るなら、約束も守らないといけないと思うんです」


視線が、またいくつかぶつかる。


「私は、神殿のやり方を変えたいから保険を始めたわけじゃありません。

あの仕組みの外に、もう一つの選択肢を作りたかった。

“神の慈悲”を信じられなくなった人が、それでも生きていける場所を」


胸元の光の束が、きゅっと震える。


「保険は、“祈りの代わり”にはなりません。

でも、“祈っても助からなかった人”に、もう一度手を伸ばすための仕組みにはなれるかもしれない。

それを、数字と約束で支えたいんです」


会議室の空気が、少しだけ変わった。


官吏たちの表情から、露骨な軽蔑は消えている。

代わりに、なんとも言えない戸惑いと、興味と、面倒くさそうな色が混ざり合っていた。


「……面倒な娘を連れてきたな、グレンフィード」


課長が、半ば呆れたようにつぶやく。


「ええ。承知しています」


隣の席で、ユリウスが静かに答えた。


「だが、“この程度の面倒も抱え込めない制度”なら、そもそも続ける価値はありません」


その言葉に、思わず彼の横顔を見る。


灰色の瞳は真っ直ぐ前を向き、少しも揺れていなかった。


「事実として、“兵士十五人+冒険者十五人”の試験導入は、治療費の削減と復帰率の向上という形で結果を出し始めています。

数字で見れば、“続ける理由”はいくらでも挙げられる」


ユリウスは、机の上の報告書を指先でとん、と叩いた。


「問題は、“神殿との衝突をどう避けるか”だ」


「避けられるのか?」


「正面から殴り合わなければ、まだ方法はある」


静かな声。


「まず、“保険”という名称を公文書から外す。

代わりに、“治療費平準化制度”とでも呼べばいい」


「名前を変えただけで、本質は変わらんだろう」


「保険という言葉に神殿が過敏に反応しているのは事実です。

“神の慈悲を売り買いする”という表現は、確かに刺激的すぎた」


そこで、ちらりと私のほうを見る。


「……すみません」


肩をすくめると、ユリウスは首を横に振った。


「ただ、彼女が現場でやっているのは、“怪我をした人が治療費を理由に諦めずに済むようにする”という、きわめて地味な仕組みだ。

“神の慈悲を売っている”わけではない」


課長が腕を組んで唸る。


「つまり、“神殿の言い分にも一理ある。だが、我々にも譲れない事情がある”と」


「そうです。

だから、正面から否定はしない。

“神殿の教えを尊重しつつ、国として治療費の負担を軽くする工夫をしている”と説明する」


「そんな理屈で納得する相手かね」


「“納得させる”のではなく、“攻撃する理由を減らす”んです」


ユリウスが、淡々と言う。


「幸い、今のところ“国家事業として宣伝するな”と釘を刺されただけで、“やめろ”とは書かれていない」


たしかに、通達の文面には、“中止”という単語はなかった。

ただ、“慎重なご判断を望む”と、遠回しに圧をかけられているだけで。


「試験導入はそのまま続ける。

同時に、神殿に対し“あくまで限定的な支援制度であり、神殿の治療と競合するものではない”と説明に行く」


課長が、じろりとユリウスを見る。


「その“説明”に行くのは、誰だ」


「私が行きます」


即答だった。


思わず、椅子の上で身体が跳ねる。


「グレンフィード、お前ひとりで——」


「私一人とは言っていません」


ユリウスの視線が、今度ははっきりとこちらを向く。


「現場を知っている彼女と、ギルド側の代表者にも同席してもらう」


「え、私もですか!?」


思わず声が裏返った。


「当然だ。

君抜きで“癒やし保険”を語っても、上っ面の数字の話しかできない」


「でも、神殿は……」


喉がひゅっと鳴る。


あの白い壁。

冷たい眼差し。


追放を言い渡された日の、あの広間の空気が、一瞬で蘇る。


「怖いか」


小さな声で問われた。


誤魔化せない。


「……怖いです」


正直に答えると、ユリウスは、ふっと口元だけで笑った。


「私もだ」


「え?」


「私は、“神の怒り”より、“神殿の政治”のほうが怖いがね」


冗談とも本気ともつかない言い方。


「だが、“怖いままでも歩く”と君は言っていた。

兵士たちの前でも、友人の前でも」


エレナと交わした約束が、胸の奥で静かに疼く。


「……はい」


「なら、財務省も同じだ。

“怖いからやめる”ではなく、“怖いまま話し合う”。

それが、君の仕組みを“国家事業”にするための第一歩になる」


“国家事業”という言葉に、思わず背筋がぞわりとした。


ギルドの片隅の机から始まった小さな保険が、いつの間にか、そんな大それた言葉と一緒に語られている。


「……グレンフィード。お前、本気でこれを国の柱にするつもりか」


課長が、半ば呆れたように尋ねる。


「“治療費で兵士と冒険者が潰れない国”と、“怪我をした瞬間に人生が終わる国”。

どちらのほうが、長期的に見て国益かと問われれば、答えは決まっているでしょう」


ユリウスの声は、冷静で、しかしどこか熱を帯びていた。


「そのために、“信仰”と“数字”のあいだに橋をかける必要がある。

その橋の一番下手な部分を、今、我々が作っているだけです」


“下手な部分”という言い方が、妙に胸に残る。


きっと、彼も完璧な自信があるわけじゃない。

何度も書き直した帳簿。

余白だらけのメモ。


(——怖いまま、歩いているのは、この人も同じなんだ)


そう思った瞬間、恐怖と同じくらい強い感情が、胸の中に芽生えた。


(この人が前に出るなら、私も隠れていられない)


神殿に追放されたとき、私は一人だった。

でも今は、隣に歩いてくれる人がいる。

ギルドで背中を押してくれる人もいる。


「……わかりました」


私は、しっかりと顔を上げた。


「神殿との話し合いに、同席します。

怖いですけど、それでも、“自分が選んだ仕組み”のことを、自分の言葉で伝えたいです」


課長が、深くため息をつく。


「やはり面倒な娘だな」


「すみません」


「いや——」


彼は、少しだけ苦笑した。


「面倒事を避け続けていたら、国の財布なんぞ守れんのだろう。

わかった。

正式な交渉の場ではなく、“意見交換”という形での会合を設定する。

大神殿側には私の名で“説明の機会を頂きたい”と書状を送ろう」


「ありがとうございます」


頭を下げると、課長は手をひらひらと振った。


「ただし、ここから先は本当に“綱渡り”になるぞ。

神殿も、そう易々と顔を立ててくれる相手ではない」


「承知しています」


ユリウスと視線が合う。

彼の灰色の瞳には、静かな決意が宿っていた。


◇◇◇


会議室を出てから、廊下の窓辺で一度足を止めた。


王都の街並みが、小さく遠くに見える。

あのどこかで、ギルドの酒場にマリナがいて、

駐屯地の兵舎に、傷だらけの兵士たちがいる。


「——大丈夫か」


隣に立ったユリウスが、珍しく先に口を開いた。


「正直に言うと、大丈夫じゃないです」


「私もだ」


即答されて、思わず笑ってしまう。


「でも、会議中、ユリウスさんが“怖いまま話し合う”って言ってくれて、少し楽になりました」


「君が兵士たちに言っていた言葉だろう」


「え?」


「“戻ってこられる戦い方を選べる人にこそ、この仕組みは向いています”」


あの日のギルドの説明会。

自分で言った言葉を、彼が覚えていてくれたことに、胸の奥がじん、と温かくなる。


「我々も同じだ。

“戻ってこられる話し合い”を選ばなければならない」


ユリウスは、静かに続けた。


「神殿を完全に敵に回さず、

こちらの仕組みも手放さず、

そのうえで“次に進める道”を探す。


——無茶な条件だが、やる価値はある」


「……はい」


窓ガラスに映る自分の顔は、少し青ざめている。

けれど、その隣に、同じくらい緊張した顔の財務官が映っているのが、妙に心強かった。


「怖いときは言え」


「え?」


「私も、怖いときは言う」


ユリウスが、少しだけ視線をそらしながら言う。


「そのほうが、数字の間違いも減る」


理由がずるい。

笑ってしまう。


「……わかりました。

じゃあ、怖くなったら遠慮なく言います」


「いいだろう」


その短いやりとりの中で、胸の奥の光の糸が、また一本強く結び直された気がした。


数字の裏側で、震える手がある。

その手を、ただの“都合のいい道具”じゃなく、“一緒に震えてくれる誰か”だと思えるなら——

この綱渡りも、少しは前に進めるかもしれない。


いつか神殿の壁の内側から、本当に誰かが外へ出てくるその日まで。

私は、“数字の盾”の陰から逃げるのではなく、その盾を支える一人でいたいと思った。


——怖いままでも、手を伸ばせるように。

その手を握り返してくれる人たちと、一緒に。

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