第3話 「癒やし保険屋」、開業……のはずだった
“未来の怪我に備えて、少しずつ払ってもらう癒やし”。
頭の中では、すごくうまくいきそうな気がしていた。
問題は——それを、どうやって人に説明するかだ。
◇◇◇
夜。
安宿の小さな部屋で、私は机代わりの木箱の上に紙を広げていた。
紙とペンは、神殿を出る前にこっそり買っておいた安物だ。
“聖女としての自己研鑽”という名目で買ったけれど、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
「ええと……まず、名前」
思いついたことを、とりあえず書き出していく。
『癒やし保険』
『未来の傷に備える契約』
『ケガ予防プラン』
「……最後のは、ちょっと胡散臭いわね」
自分で書いておいて、首をかしげる。
“予防”なんて言われても、怪我をするかどうかなんて誰にもわからない。
でも、わからないからこそ、少しずつ備える意味がある——それを、どうやって伝えればいいのか。
『定額支払い/月ごと』
『怪我をしたときの治療費、無料』
「無料って言い切っちゃっていいのかな……」
契約者が増えれば増えるほど、私の負担も増える。
魔力は有限だ。神殿のように、大勢の聖女で分担するわけにもいかない。
「……最初は、人数を絞るべきかしら」
そう紙に書き込む。
例えば、最初は十人だけ。
しばらく様子を見て、回らないようなら人数を減らすなり、料金を上げるなりすれば——。
「料金……」
そこでペンが止まった。
「一人いくらにすればいいんだろう」
神殿時代、お金の話をすることはほとんどなかった。
寄進に関する詳しいことは、すべて執事や会計役が取り仕切っていた。
私たち聖女見習いは、ただ祈り、癒やすだけ。
「怪我ひとつ治すのに、いくらの価値があるんだろう」
命の値段を考えるなんて、ずっと罪悪感があって避けてきた。
でも、避け続けた結果が、今のこの状況だ。
神殿の中では、「お金のことは知らなくていい」と言われ続けてきた。
けれど、外に出た以上、知らないままでは生きていけない。
「……銅貨一枚、じゃ安すぎるかしら」
宿代が一泊銅貨五枚。
パン一つが銅貨一枚。
もし一人から銅貨一枚しかもらえないのなら、十人契約してもパン十個分。
怪我人だらけになったら、あっという間に私が倒れてしまう。
「じゃあ、一日銅貨一枚で、十日で十枚……」
ぶつぶつ数字を並べていると、だんだん頭がこんがらがってきた。
「わたし、やっぱり計算は苦手だ……」
神学や魔法理論の試験は得意だったのに、数字だけはどうにもダメだ。
そもそも、この世界で“適正価格”がいくらなのかも知らない。
「……とりあえず、初回限定お試し価格ってことで」
決めきれない私は、結局そんな言い訳じみた結論に逃げ込んだ。
『最初の三人:一人につき、月銀貨一枚』
銀貨一枚。
安くはない。けれど、冒険者なら、怪我をして治療院に何度も通うことを思えば、高すぎるわけでもない、はず。
「まあ……ダメだったら、そのとき考えよう」
私は深く息を吐き、紙を丸めてポケットに突っ込んだ。
明日は、冒険者ギルドに行ってみよう。
あそこなら、怪我と隣り合わせの人たちが集まっている。
目を閉じると、神殿の天井ではなく、粗末な宿の梁が目に浮かぶ。
それでも、不思議と眠りは浅くはなかった。
◇◇◇
翌朝。
王都アルマレストの冒険者ギルドは、想像以上に賑やかな場所だった。
高い天井のホールには、依頼書がびっしりと貼られた掲示板。
剣や鎧を身につけた男女が行き交い、酒場スペースからは笑い声と食器の音が響いている。
「すごい……」
私は入り口で、しばらく立ち尽くしてしまった。
神殿の静けさとは正反対の、むき出しの生気。
そんな中、受付カウンターの手前で、ひとりの女性が私をじろりと見た。
「はい、そこのお嬢さん。依頼の受付? それとも登録?」
栗色の髪をひとつに結った受付嬢。
慣れた口調だが、目は仕事モードの鋭さを帯びている。
「あ、えっと……その、相談があって」
「相談?」
私は、ポケットから紙を取り出した。
「わたし、“癒やし保険”というものを始めようと思っていて……」
その言葉を聞いた瞬間、受付嬢の眉がぴくりと動く。
「保険?」
「怪我をする前に、少しずつお金を払ってもらって、もし怪我をしたら、その分の癒やしをわたしが——」
「あー」
受付嬢は、片手で額を押さえた。
「ごめんねお嬢さん。ここね、“怪しい商売の売り込みお断り”なのよ」
「い、いや、怪しくはなくてですね……!?」
思わず身を乗り出す。
「わたし、本当に回復魔法が使えるんです。神殿で——」
「神殿で?」
受付嬢の目の色が、ほんの少しだけ変わった。
「えっと、聖女見習い、でした。今日からは違いますけど」
「クビになったの?」
ストレートな物言いに、思わずむせそうになる。
「……正確には、“信仰心が足りない”って言われて、追放されました」
受付嬢は、一瞬ぽかんとした顔をした。
次の瞬間、くすっと笑う。
「ごめん、笑うところじゃないんだろうけど。
——でも、神殿をクビになって、冒険者ギルドに来るって発想は、なかなかの度胸だわ」
「……褒められてます?」
「まあ、半分くらいは」
受付嬢は肩をすくめる。
「本当に回復魔法が使えるなら、それ自体はギルドにとっても悪い話じゃないのよ。ただ、“保険”とか言われると、ちょっと話が変わってくるわけ」
「変わってくる、というと?」
「ギルドとして新しい制度を導入するとかなると、上の連中の許可がいるし、面倒くさい書類仕事が山ほど増えるの。私は、それに巻き込まれたくない」
かなり個人的な事情だった。
「だからといって、勝手に広場で客引きされるのも困るし……」
受付嬢は腕を組んで、少し考える。
「……こうしましょう。あなた、名前は?」
「リゼル・アルマリアです」
「リゼルね。とりあえず、“個人のサービス提供”って形で、ギルドに登録してみない?」
「個人の……?」
「“回復魔法使い・リゼル”。依頼主が、あなた個人に治療をお願いするって形。
保険だか何だかの話は、そのあと“実績を作ってから”のほうが通りがいいと思うわよ」
確かに、一理ある。
いきなり「新制度です!」なんて言っても、誰も信用してくれないだろう。
まずは、“元聖女で、ちゃんと癒せる”という事実を見せるべきだ。
「……わかりました。それで、お願いします」
「よし。じゃあ登録料、銀貨二枚」
「……っ」
思わずのけぞりそうになった。
「に、銀貨二枚!?」
「ギルドカード作成料込み。うちも慈善事業じゃないのよ」
宿代一週間分以上が、一瞬で飛んでいく計算だ。
ポケットの小袋の中身を思い浮かべて、私は深く息を吸った。
「……お願いします」
ここで引いたら、多分、一生なにも始まらない。
そう自分に言い聞かせ、私は銀貨を二枚、受付窓口に置いた。
受付嬢は、にやりと笑って受け取る。
「ありがと。じゃ、これがあんたのギルドカードね」
しばらくして渡された薄い金属板には、私の名前と簡単な情報、それから“職種:回復士”の文字が刻まれていた。
神殿の聖印とは違う、でも確かに“自分の名前”が刻まれた証。
私は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「で、“保険”の話だけど」
カードを眺めていた私に、受付嬢が身を乗り出す。
「私は面倒に巻き込まれたくないって言ったけど、個人でやる分にはギルドは口出ししないわ。詐欺まがいじゃないか、ちゃんと説明できるかどうかは、あんた次第だけどね」
「……ありがとうございます」
「ここ、カウンターの横に小さな掲示板があるでしょ」
受付嬢が指さした先には、「個人サービス募集」と書かれた小さな板があった。
荷物持ちや案内人、鍛冶屋への紹介など、いくつかの札がぶら下がっている。
「そこに、“回復契約受付中”みたいな札を掛けときなさい。詳しい説明は、ここで直接すること」
「わかりました!」
思わず、声が弾んだ。
私の“癒やし保険屋”としての第一歩は、こうして冒険者ギルドの片隅から始まった。
◇◇◇
しかし——世の中そう簡単にはいかないらしい。
「なんだそりゃ、“未来の怪我までまとめて治します”だってよ」
「新手の占いか? “あなた、明日怪我しますよ〜”ってか?」
ギルドの隅で小さな札をぶら下げ、必死に説明する私を、最初に囲んだのは、物好きな新人冒険者たちだった。
「ち、違います。占いじゃなくて、“契約魔法”です。回復の術式をあらかじめ組んで——」
「そんな難しい話、わかんねえよ」
「簡単に言うとですね、月に銀貨一枚払ってもらえれば、その期間中に怪我をしても、治療費は追加でいただきません。わたしが責任を持って癒やします」
私は、昨夜考えた説明をそのまま口にする。
「要するに、“怪我し放題”ってことか?」
「ち、違いますってば」
思わず声が裏返った。
「怪我しないように気をつけてもらうのが前提です。あくまで、万が一のときの備えとして——」
「でもよ、怪我しなかったら損じゃねえか?」
言われると思っていた質問が、やっぱり飛んできた。
「損、というか……安心料、みたいなものだと思ってください」
「安心料なんかに銀貨一枚も払えるかよ」
ああ、やっぱり厳しい。
それでも、何度も何度も説明を繰り返す。
傷の治し方、契約の仕組み、神殿では高位聖職者しか扱えない術式を応用していること——。
「お前、神殿から追い出されたんだろ?」
いつの間にか、そんな噂まで広がっていたらしい。
酒場スペースから出てきた中堅らしき冒険者が、にやにやしながら近づいてきた。
「追放された元聖女様が、“保険屋”になって商売か。世も末だな」
周囲から、くすくすと笑いが漏れる。
「……追放されたのは、その通りです」
私は、否定しなかった。
「でも、癒やしの力は、本物です。よかったら、試してみますか?」
「タダで?」
「いえ、契約していただければ」
「ほら見ろよ。“試してみますか?”のあとに“タダで”って言わないやつは、大体怪しいって相場が決まってんだよ」
笑い声が、また一段と大きくなる。
心のどこかが、じくりと痛んだ。
神殿でもここでも、“善意”だけでは通用しない。
それでも。
「怪しいかどうかは、実際に使ってもらえればわかります」
私は、逃げずに言葉を返した。
「怪我をして、治療院に飛び込んで、金を払って、その日の稼ぎが全部飛んでいく。
その心配を、少しだけ軽くするための仕組みです」
そう言いながら、自分の言葉に、自分自身が説得されていく感覚があった。
「まあまあ、からかうのはそれくらいにしときなよ」
低い声が、笑い声を切り裂いた。
振り向くと、革鎧を着た青年がひとり、こちらに歩いてくる。
背は高いが、派手な装備ではない。腰には使い込まれた剣。
「ロアン?」
さっき私の話を聞いていた新人のひとりが、その名を呼んだ。
「お前、興味あんのか?」
「興味っていうか……まあ、こういうのは誰かが試してみないと話が進まないだろ」
ロアンと呼ばれた青年は、私の前に立つ。
「リゼルさん、だったっけ。話はだいたい聞いた。
“月銀貨一枚で、その間の怪我はあんたが治してくれる”。それで合ってるか?」
「こ、細かい条件はありますけど、大筋はそうです」
「細かい条件?」
「命に関わるような大怪我は、その……わたしの魔力にも限界がありますので、完全回復を保証できるとは限りません。ただ、できる限りのことはします。
あと、戦争などで大量の負傷者が出た場合、契約者から順に優先します。
それから——」
説明が長くなりそうだと自分でもわかっていたが、ここで曖昧にするわけにはいかない。
ロアンは、黙って最後まで聞いてくれた。
周囲の冒険者たちも、茶々を入れずに耳を傾けている。
「……なるほどな」
一通り説明を終えると、ロアンは腕を組んだ。
「もし何も起こらなかったら、俺は銀貨一枚払って“安心しただけ”ってことになる」
「はい」
「でも、もしダンジョンで大怪我して、ポーション代や治療費で銀貨十枚飛ぶようなことになったら——」
「そのときは、わたしが契約に従って癒やします。追加でお金をいただくことはありません」
ギルドの空気が、少しだけ変わった気がした。
「ようするに、外れたら損、当たれば得ってことだな」
「……そう聞くと、賭け事みたいで不安になりますけど」
私は苦笑した。
「でも、怪我をしないように気をつけてくれたほうが、わたしも嬉しいです。
“怪我してもいいや”と思って無茶をされたら、さすがに困ります」
「そりゃそうだ」
ロアンは、ふっと笑った。
「いいよ。俺、契約する」
「えっ」
思わず、変な声が出た。
「マジかよロアン!」
「お前ほんとチャレンジャーだな!」
周囲からどよめきが上がる。
「どうせ俺みたいな下っ端は、いつか大きな怪我して引退コースだ。
だったら、一回くらい“安心買う”ってやつを試してみてもいいだろ」
ロアンはそう言って、腰の小袋から銀貨を一枚取り出した。
「いいか、詐欺だったらギルドに訴えるからな」
「しませんってば……!」
私も、笑ってしまっていた。
「では、契約の儀式をします。手をこちらに」
私は、ポケットから小さな羊皮紙を取り出す。
そこには、昨夜のうちに考えた簡易契約文と、その下に魔法陣の一部が描かれていた。
「《未来に結ぶ、小さき誓い。血ではなく、光を代価として》」
小声で呪文を唱えながら、私は指先で魔法陣をなぞる。
淡い光が、羊皮紙の上に浮かび上がった。
「ここに手を乗せて、“自分の意思で契約する”と言ってください」
「……俺、ロアン・バスクは、自分の意思でこの契約を結ぶ」
ロアンが手を置いた瞬間、魔法陣の光が彼の掌と私の胸の間を、一瞬だけ走った。
その感覚に、私は息をのむ。
——ちゃんと、つながった。
未来の怪我に対する契約。
神殿で学んだ理論を、こんな形で実用化することになるなんて。
「どうだ?」
ロアンが、不安そうに手のひらを見つめる。
「特に変な感じはしないが」
「成功です。これで、今から一月の間、あなたが負う怪我は、基本的にわたしが責任を持って癒やします」
「へえ……」
ロアンは、感心したように頷いた。
「面白れえ。じゃあ、今日の依頼からさっそく使わせてもらうか」
「使う前提で行かないでください」
私が思わずツッコミを入れると、周囲から笑いが起こる。
さっきまでの嘲笑とは、少し違う笑いだった。
半分は面白がり、半分は興味を持っている——そんな空気。
「よし、じゃあ俺も様子見で一月分だけ契約しとくか」
別の冒険者が、ぽつりと言った。
「俺も」
「じゃあうちのパーティもまとめて」
気づけば、私の前に、小さな列ができていた。
羊皮紙はあっという間に足りなくなり、契約魔法を繰り返すうちに、額に汗がにじむ。
それでも、胸の奥は、不思議と軽かった。
「……本当に、始まっちゃった」
ギルドを出る頃には、私の手元には数枚の銀貨と、十数人分の契約が残っていた。
最初の一歩としては、上出来すぎるくらいだ。
あとは——。
「本当に、みんなを守れるかどうか」
月が昇り始めた空を見上げながら、私は胸元を押さえた。
そこには、契約の光がまだ微かに残っている気がした。
守りたいと願う気持ちと、お金を受け取ることへの罪悪感。
その両方を抱えながら進む道は、きっと簡単じゃない。
それでも。
「神殿じゃない場所で、誰かを救ってもいいはずだ」
そう呟いた言葉は、夜風に溶けていった。
——この日結んだ契約のひとつが、数日後、私の覚悟を試すことになる。
その予感だけが、胸の奥で静かにくすぶっていた。
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