第42話 この手を離さないために
その知らせが届いたのは、あの日の面談から 二日後 のことだった。
ちょうど昼食を終えて、
美桜と一緒にホールで宿題のプリントを広げていた時──
「朱音ちゃん、美桜ちゃん。
ちょっと職員室まで来てもらえる?」
いつもより少し硬い声で職員に呼ばれた。
胸がざわついた。
美桜も同じだったのか、不安そうに俺の袖をつまんでくる。
職員室の扉をノックすると、
前にも対応してくれた“偉い方”の職員が机の前に座っていた。
いつも気丈に振る舞っている人なのに、
今日は珍しく疲れ切った顔をしていた。
ここの職員は、基本的に疲れている。
子ども達の様々な事情を抱え、
昼も夜も全力で向き合っているからだ。
それでも彼らは、
「子どもを助けたい」という芯の強さを決して折らない。
だからこそ、
そんな人があんなに露骨に疲れた顔をしているのが逆に不安になった。
職員は、ため息まじりに、しかし優しい声で言った。
「……2人とも。
一緒の児童養護施設に行くことになったわよ」
美桜が息を呑む。
俺も思わず肩が跳ねた。
何が起きたか理解できず固まっていると──
職員は書類の束をテーブルに置きながら続けた。
「見計らったようにね……朱音ちゃんの病院から電話があったの。
“病気の定期診察の関係で、
朱音ちゃんは 埼玉県上頭市にある児童養護施設に入ってほしい”
って。そこじゃなきゃダメだって言うのよ。
車で迎えも行くって」
俺も美桜も、まばたきすら忘れて聞き入っていた。
「でね……本当は美桜ちゃんが先にその施設に入る予定だったの。
でも決まりが変わっちゃってね。
だから、朱音ちゃんだけ先に入所させることにしたの」
職員は額に手を当てて苦笑した。
「書類を作っては破棄して……
また作っては訂正して……
もう私、正直泣きそうだったわよ」
その声は愚痴っぽかったけど、
どれだけ奔走してくれたかが伝わってきた。
そして次の瞬間、職員は少しだけ誇らしげに笑った。
「そしたらね──
見計らったように同じ施設に“2人分” 空きができたの。
だから、2人とも入れるって」
言葉が理解できるのに、理解できなかった。
一瞬、時間が止まったような感覚。
美桜と目が合う。
美桜の瞳が揺れて、
次の瞬間、涙と一緒に大きく開かれた。
「また書類の作り直しよ」
そんな職員の言葉は、もう耳に入ってこなかった。
「……朱音……!」
「美桜……!」
胸が熱くなり、
息が詰まりそうになる。
奇跡なんて信じたことなかったのに、
この瞬間だけは信じざるを得なかった。
職員は、くたびれた顔で、でも優しく言った。
「よかったわね。
本当に……よかった」
美桜は両手で顔を押さえ、
俺の方を見ると──
「やったぁぁぁああああ!!」
声をあげて笑った。
俺もつられて笑った。
こんなに心の底から嬉しいと思ったのはいつぶりだろう。
くすぐったいような、
泣きたくなるような、
胸の奥が温かくて苦しいような感覚が全身を満たしていく。
(……美桜と、離れなくて済むんだ)
それだけで、世界が少し優しく見えた。
お昼ご飯を食べたあと、
俺はこっそりトイレに入り、個室の鍵を閉めた。
胸の奥がそわそわして落ち着かない。
(……病院、本当に何したんだ?
二人で同じ施設に行けるようにするなんて。)
確認したくなって、ポケットからスマホを取り出す。
画面を点けた瞬間──
短いメッセージが一行だけ表示され、すぐに消えた。
「しょうがないから根回ししときました」
続けて、また表示される。
「あなたの会話や行動は、すべてログとして送信されてるの」
「無茶はしないこと」
「最近、心臓に負担かけすぎよ」
表示された瞬間に、
まるで紙が燃えるみたいにふっと消える。
息が詰まった。
(……全部の会話?
え、美桜との……全部!?)
脳内が一瞬で真っ白になった。
“ありがとう” とか
“離れたくない” とか
“好き” だとか
泣きながら抱き合った夜の会話とか──
(全部、聞かれてたのか……!?)
顔が一気に熱くなる。
(……あれも!?
あれもか!?
うわぁぁぁぁ!!)
トイレの個室で、一人で悶えながら顔を覆った。
追い打ちをかけるように、再びメッセージ。
「スマホを離したら、施設に縛りつけよ」
そして、また消える。
(……脅し……?
いや、あの人なら本当にやりかねないのが怖い……)
確かに、スマホは唯一の“監視の糸”だ。
手放したら、なんでもしてきそう…
そして──
(これ以上……幼児化したら、本当に困る……)
倒れたあと急激に進行した身体の変化。
あれを止める注射を打てるのもあの研究所だけ。
頼らざるを得ない。
(……深いこと考えるのはやめよう。
今は……美桜といられるだけでいいや)
スマホをすぐにポケットへ押し込み、
また制服の中に隠した。
***
個室の扉を開けると、
すぐ目の前に美桜が立っていた。
ぱっと華やぐような笑顔になって──
「……朱音!!」
隠しきれないほど嬉しそうで、
胸がきゅっとなる。
「一緒に行けるんだよ……!
本当に……本当に一緒なんだよ……!」
美桜が勢いよく抱きついてくる。
俺も反射的に抱き返す。
周りに人がいても、もう気にできなかった。
それぐらい嬉しかった。
***
夜。
いつものように、消灯後は同じ布団で話をした。
明日何をしようとか、
施設に入ったらどんな部屋なんだろうとか、
学校ってやっぱり怖いよねとか。
美桜の声は、今日ずっと弾んでいる。
「一緒に行けるって分かったらね……
なんか、全部明るく見えるの。
食堂も、ここも、廊下も。
全部、ちょっと好きになれた」
そう言って笑う。
その笑顔を見ていると、
自分の胸にも温かい灯りがともるようだった。
だけど──
ふと、脳裏に別の光景が浮かんだ。
(……俺の、本当の家族は……どうしてるんだろう)
急に胸がざわつき始める。
“捨てられた” と割り切ってここまで生きてきたけれど、
思い返せば、俺のせいで妻と子どもたちはひどい目に遭ったのではないか。
俺が仕事ばかりして、
子どもたちの行事にも行けず、
家事も育児も全部任せて。
その結果、心が離れ、
娘には避けられ、
妻には邪魔者扱いされ──
そして俺は消えた。
養育費も払っていない。
(……きっと、行方不明扱いだろうな)
美桜と未来を語っていたはずなのに、
気づいたら胸の奥に重い石が沈んでいく。
(俺の勝手で……家族をこんなふうに……)
考えれば考えるほど頭がぐるぐるしてくる。
美桜の寝息が聞こえ、
その温もりに少し安心しながら、
俺もようやくまぶたを閉じた。
気づけば、そのまま眠りに落ちていた。
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