少女になった元警察官は、誰かを救い、自分も救われる。
電柱になりたい
少女になる、そして決死の逃走
第1話/少女になるまで
目が覚めた瞬間、世界の重心がずれている気がした。
まるで、身体の中心だけが置き去りにされたような感覚だった。
いつものように布団から手を伸ばそうとして、そこで息が詰まる。
手が、小さい。
指が細く、白い。爪は丸く整えられている。長年、生活安全課で書類を扱い続けてできたペンだこも、事件現場で負った細かな傷も、どれひとつ見当たらない。
「……え?」
自分の声が、妙に高い。澄んでいて、細い。少女の声だった。
胸が一気にざわつき、体を起こす。ベッドが高く見える。視界が低い。足が床に届く感覚も、いつもと違う。体重が軽く、腕も脚も、自分のものではない。
昨日まで着ていたはずの大人用のパジャマが、ぶかぶかで裾を引きずっている。
心臓が、ドクン、と跳ねた。
ふらつく足で廊下に出て、洗面所の鏡の前に立つ。手を伸ばしても、鏡の位置がいつもより高い。つま先立ちになり、ようやく自分の顔が映った。
その瞬間、息が止まった。
鏡の中には――見知らぬ少女がいた。
十二歳前後。大きな黒い瞳。長いまつ毛。少しふっくらした頬。形の良い小さな唇。肩まで伸びた黒髪が朝の光を受けて揺れている。
整いすぎていて、現実味がない。
テレビの向こう側か、アニメの画面からそのまま抜け出してきたような美少女だった。
その少女が、怯えた表情で、俺を見返している。
震える手が自然と鏡に伸びる。鏡の中の少女も同じ動きをする。そこに見えるのは――紛れもなく「俺」だった。
高橋満雄、四十代男性。
昨日まで、生活安全課で事件と人間関係の修復に奔走していた男。
「なんだよ……これ……」
鏡の中の少女が震えた声でそうつぶやく。俺の声で。
理由は分かっている。
分かっているからこそ、どうしても受け入れられなかった。
◆
ほんの少し前まで、俺は「父親」だった。
名前は高橋満雄。県警の生活安全課。
家庭では、娘二人と息子一人を持つ父親であり――いや、かつてはそうだった、と言うべきかもしれない。
生活安全課の仕事は、派手さはないが町の人々の生活と密接だった。
詐欺の啓発。家庭内トラブル。ストーカーの相談。行方不明の子ども。
事件の裏側には必ず、「人間関係のゆがみ」があった。
皮肉な話だ。俺自身が、その「ゆがみ」を家庭で作っていたのだから。
◆
家がぎくしゃくし始めたのは、県警屈指の忙しい警察署に配属されてから、五年ほど前からだ。
今までの経験を活かして活躍してやると仕事にのめり込み、家に帰らない日が増えていった。
「家族のためだ」と自分に言い聞かせながら、実際には「家の中に居場所がない」ことを薄々感じて逃げていた。
ある日、仕事から帰ると、長女の灯がリビングの入り口でスマホを見ながらぼそっと言った。
「今日も遅いんだね」
「ほら、プリン買ってきたぞ。甘いの好きだろ?」
「いらない」
即答だった。
何か言い返す間もなく、灯は二階へ上がっていった。階段を上る足音が、いつもよりずっと遠く聞こえた。
妻の奈緒は、シンクで皿を洗いながら短く言った。
「……おかえり」
その声には、もう感情の温度が残っていなかった。
テーブルの上には、ラップのかかった夕飯が一人分だけ残っている。
電子レンジで温め直したハンバーグは固くなっていて、冷たい油が少し白く浮いていた。
◆
家族写真の中で、俺だけが「いない人」になっていくのが分かった。
娘たちの行事。息子の行動。
スマホには、俺の知らない家族の“日常”が次々と増えていく。
ある日、珍しく日曜が休みになり、リビングでスマホのニュースを眺めていたときのことだった。
キッチンから、灯と奈緒の声が聞こえた。
「……もういいじゃんママ。あの人、家にいなくても同じだし」
「灯……言い方」
「だってそうでしょ。いるときのほうが空気悪いよ。休みでも家にいないでほしいくらい」
手にしていたスマホがぐらりと揺れた。
画面の文字がぶれて読めない。
奈緒が申し訳なさそうに顔をのぞかせたとき、俺は無理に笑おうとした。
「……そうか」
それしか言えなかった。
◆
離婚の話は、静かに進んだ。
奈緒は「疲れた顔」をしていた。泣きも喚きもしない。
ただ決意していた。
「もう一緒にはいられないの」
娘たちも、同じ考えだった。
居場所がなくなった男の末路は、意外とあっけない。
俺は家を出て、狭いアパートで一人暮らしを始めた。
仕事も、やがて崩れた。
集中できず、ミスも増えた。
上司との面談で「一度休め」と言われたが、それすらも心に響かなかった。
数週間後――俺は退職願を出した。
生活安全課を離れた日。
帰り道の風が、骨に染みた。
◆
それからの日々は、空っぽだった。
朝起きても、誰もいない部屋。
スマホでニュースを眺めても、心は動かない。
そんなとき、見つけたのが“あのチラシ”だった。
――健康な成人男性対象
――臨床試験参加者募集
――高額謝礼あり
危険だとは分かっていた。
だが、金が必要だった。
そして、心のどこかで、「どうなってもいい」という気持ちがあった。
◆
臨床試験は説明どおり進み、点滴を受けた帰り道、小さな違和感は確かにあった。
体の奥がきしむような痛み。
熱がこもるようなだるさ。
アパートに戻る頃には、まぶたが落ちてきて、布団に倒れ込むように寝た。
――そのあと、闇に沈む感覚の中で、体がゆっくりと形を変えるような不気味な感覚があった。
だが、そのときの俺には、もはや抵抗する力もなく、ただ意識が消えるのを待つしかなかった。
◆
そして今――。
鏡の中には、十二歳前後の少女が立っている。
肩に触れる黒髪。大きな瞳。細い首。華奢な肩。
昨日まで存在していた「高橋満雄」という男の面影は、どこにもない。
震える唇から、思わず言葉が漏れた。
「……どうして、こんな……」
その声が、また少女の声で。
胸がぎゅっと縮み、喉が熱くなる。
これは夢じゃない。幻覚でもない。
頬をつねったときの痛みが、まだ残っている。
――俺は、少女になった。
どれだけ否定しても、もうそれ以外の答えはなかった。
理由は分かっている。
あの臨床実験で、何かが起きた。
でも、どうしてこんな形に?
なぜ、こんな姿に?
答えはどこにもない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
この瞬間から、俺の日常は完全に終わり、新しい「日常」が始まってしまった。
四十代の男としての人生は終わった。
そして――まだ名もない少女としての人生が始まったのだ。
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