剣術地獄

和泉茉樹

第1話 五十両の誘い

      ◆


 空は一面の薄い青で澄み渡っている。

 高いところを数羽の渡り鳥が飛んでいくのを、見上げるものはいない。

 季節は冬の気配がようやく去ろうかという頃だった。街道を行く人の姿も増え、足取りも冬のそれよりも格段に軽くなっている。

 マルガはゆっくりと歩を進めながら、先を行く若い男の背中をじっと見据えて何度目ともしれない思案をした。

 こいつを切って持っている銭を奪えば、しばらく苦労しないだろうな。

 先を行く男はマルガを案内している立場なのだが、そのミトと名乗る男とマルガは面識があったわけではない。

 そもそも、面識があるもないもない。

 ほんの半月ほど前にミトの方からマルガに突然、声をかけてきたのだ。

 場所は小さな宿場の酒場だった。

 その時、マルガはだいぶ酒を飲んでいて、店の主人と勘定について揉めていた。酔いのせいもあるが、主人の目つきが気に食わなかった。早く出て行けと言わんばかりだったのだ。その態度に腹が立ったのは必然だとマルガは今も思っているし、自分が間違っているとはつゆほども思っていない。

 酒場には他にも客がいたが、マルガと店主の様子から関わってもろくなことがないと察知して、それぞれに卓に自分の勘定を置いてさっさと店を出ていっていた。

 だからマルガは店の中にミトが残っているなどとは、想像もしていなかった。とっくに店には自分と主人二人になっていて、何の気兼ねもなく難癖をつけてやると腰を据えていた。

 もっとも、当時のマルガはひどく酔っていたから普段より視野は狭かったし、感覚もだいぶ鈍っていたのは否めない。少しでも冷静であれば、ミトを直接に見ずともその気配を察することができた。そのはずだ。

 いずれにせよ、他に誰もいないと思い込み、マルガは刀の柄に手を置いて酒場の主人を恫喝した。

「俺はこれでも十人は切っているんだぞ! 今更、一人増やしたところで気に留めるわけもあるまい!」

 酒場の主人は、まさか相手が刀を抜こうとするとまでは考えていなかったのか、一気に血の気の引いた真っ青な顔に変わったが、しかし何がそうさせるのか、強気な視線でマルガを睨み返した。

 その瞳にはマルガからのちょっとした銭を取りそびれるよりも、自らの矜持を優先するような色が見え隠れした気もした。

 面倒だ、このまま切ってしまおう。こうなっては、根負けしてほんの些細な銭を払えば、俺の方こそいい面の皮だ。

 本気でマルガがそう決心した時、やおら声をかけてきたのがミトだった。

 もし、という声にそちらを見て、やっとマルガはミトの存在に気づいた。

 ミトの服装はいかにもな旅装だったが、既にとっぷりと日が暮れている時間帯からするとやや不自然ではあった。

 まったくいないわけではないが、この時間帯に街道へ出るものは珍しい。この夜は月が出ていたが、どちらへ向かうにせよ隣の宿場までは半日はかかる。これから出立するのなら、深夜に次の宿場に寄るか、そうでなければさらに先の宿場まで街道を進むか、ということになるが、非現実的だ。

 今、宿場に着いたばかりで先に食事をしているという可能性もあったが、普通、先に旅籠で部屋を取ってから旅装を解いて、それから飲みに出るものではないのか。

 マルガはミトの様子を酔った頭で分析した。

 服装こそ旅装でも、荷物らしい荷物は携帯していない。では、どこかに荷物を預けたか。どこに? そもそもミトは刀を帯びているわけではない。

 どう観察しても、商人の使いのようにしか見えないが、そんな立場ものが今にも刀を抜きそうなマルガと酒場の店主のいさかいに首をつっこむ理由がない。

 様々な要素がチグハグで、いかにも妙だった。

 胡散臭そうに自分を見るマルガを無視して、ミトは酒場の主人に歩み寄ると、袂から取り出した紙に包んだ銭を丁寧に差し出した。

「これでようございますか? ようございますよね?」

 静かな調子のミトの言葉には、不思議と有無を言わせぬところがあった。

 酒場の主人は顔をしかめたものの差し出された包みを受け取った。そして無言で、顎をしゃくって見せた。さっさと出て行け、ということだ。

 その態度にもマルガは怒りを抑えかねたが、すっとミトの手が伸びてきてマルガの刀の柄を掴んだままの手元を押さえた。

 さして力がこもっているわけでもなく、振り払うのは造作もなかった。

 それなのにミトの手には先ほどの酒場の店主に対する断固とした態度と同じものがある。

 マルガは不服ながら、そのミトの意志の強さに免じて刀を抜くのをやめた。

 参りましょう、とミトが促すので、マルガはいつの間にか酔いがすっかり覚めてしまったことを自覚しながら、舌打ちを残して酒場を出た。

「お前は何者だ」

 店を出て少し歩いたところで、マルガはミトに問いかけた。詰問したと言ってもいい強い口調でだ。

 ミトはマルガを振り向いて、その白眼が夜闇の中で浮かび上がって見えた。

 二人とも提灯も持っていないので、月明かりだけを頼りに向かい合っていたのだが、かすかな明かりの中のミトの目元には、茫洋とした光が宿っているようで、マルガは底知れない何かを感じずにはいられなかった。

「ミトと申します」

 夜の静けさの中にミトの短い声が流れる。

 この時、マルガは初めてミトの名前を知ったのだが、彼は続けて不思議な誘いをマルガに向けた。

「剣の腕が立つ方を探しているお方がいまして、私はそのお方にお仕えするものです」

 マルガは、ふむ、などと咄嗟に頷いてしまったものだ。

 ミトがマルガの腕前を知っている道理がない。それでもマルガを剣の腕が立つと見なしているのは、マルガの実力を見たわけではなく酒場の主人を恫喝した言葉の内容のことを言っているとわかっている。

 買いかぶりだと突っぱねなかったのは、それではまるで自信がないと受け取られかねないという虚栄心が作用したとはいえる。

 そんな欺瞞をマルガは意識から外して、ミトの言葉の理解できない部分を確認した。

 もしかしたら、都合のいい仕事にありつけるかもしれないと考えたこともある。

「剣の腕が立つものを集めて、どうするつもりかな。どなたかの指南役にでもするのか? それとも用心棒のようなものか?」

 まさかこんな形で、ミトのようなものが仕官の話を持ってくるわけもなかったから、指南役などは言い過ぎで、十中八九、用心棒程度だろうとはマルガは解釈していた。

 マルガの問いかけは答えが分かりきった問いかけだが、マルガが念を押した形である。

 マルガとしては、路銀が多いに越したことはない、という事情もあった。用心棒という仕事はマルガの気性に合っているし、何より、刀を抜ける機会もあるかもしれない。

 これまでにマルガが十人を切ったというのは事実だった。そのことで今もマルガを狙っているものも何人か心当たりがある。

 仮にミトの誘いが、何らかの事情がある有力者からのものだとしても、そんな立場の人間を指南役に迎えるのはある面では危険でもあるし、同時に、十人程度を切った腕前は高が知れている。

 結局、剣術使いとしてはマルガは下の下であり、そんな自分をミトは勘違いしているのだとマルガは滑稽に思った。

 しかし、マルガが勝手に頭の中で誘いの内容の結論を出していたのが、ミトが口にしたのはマルガの想像とは違った内容だった。

「私の主人は、剣術に長けた者を大勢、集めております。そして腕試しをされるのです」

「腕試し……? どういうことだ? 腕試しとは、斬り合いか?」

「そうでございます。集めた方々を競わせ、最も腕の立つ者を選ぶのです」

 ひどく混乱したマルガは夜の闇の中で目の前にいる男を真剣に観察しようと、闇を見透かした。しかし暗すぎて輪郭が浮かび上がるくらいで、あとは不気味な白眼の光と口元で時折覗く歯が瞬くくらいだった。

 それでも、ミトの言葉も、その気配も真剣そのもののようだった。

 からかっているようでも、嘘を言っているようではない。

 しかし話はどう考えても荒唐無稽だ。

「真剣勝負をせよ、と言っているのか?」

「そうでございます。真剣を使っての勝負でございます」

 怖気付いたわけではないが、とマルガは前置きして言葉にした。

「真剣での立ち合いとなれば、怪我を負うことも、場合によっては死ぬこともあろう。その腕試しとやらに参加して、何の利がある?」

「もし、お話を受けていただけるなら先に、五十両をお渡しいたします」

 五十両、と思わずマルガの口から声が漏れていた。

 ミトはまったく平然と言葉を続けている。

「まず五十両をお渡しして、到着したところでさらに五十両をお渡しします。そして腕試しに最後まで残れば、さらに二百両をお渡しいたします」

 合わせて、三百両。

 三百両というのはなかなか想像のつかない額ではあった。十両もあれば一人で放浪しているマルガはしばらく自由に暮らしても余裕がある。

 話に乗っただけで、五十両がまず受け取れるなどとはうますぎる話だった。あまりもうますぎて、逆に不審、ひどく不審である。

「俺は騙されているのかな」

 油断せず、マルガは確認した。

 そこへ、こちらを、といきなり袂からミトが何かを取り出したかと思うと、一歩二歩と間合いを詰めて差し出してきた。

 一瞬、短刀でも抜いて突っかかってきたのかとマルガは思った。

 だが、違う。

 ミトの動作は酒場で主人に包みを渡した時とそっくりの動作だったが、手元にあるものはまるで違う。

 月明かりの中でも、それが小判の包みだとわかった。白い紙に包まれているが、一枚や二枚ではない。

「まずは十両でございます。これは私の話を聞いていただいたお礼でございます。もしお話を受けていただけるなら、四十両、お渡しいたします」

 マルガはさりげなく周囲を確認した。

 迂闊に銭に手を伸ばしたところを、隠れ潜んでいるミトの仲間に襲われてはたまらない。もしやミトはマルガを狙っているものの仲間で、これは暗殺の一部なのでは、とマルガはやっと想像が働いたのだ。

 奇妙な芝居ではあるが、マルガは完全に油断していた。

 どれだけ神経を研ぎ澄ませても周囲には人の気配はなかった。時間が遅いために宿場はもうほとんど寝静まっている。

 それでも、即座に刀を抜けるように身構えながら、マルガはゆっくりと手を伸ばして十両という包みを受け取った。受け取ってみると重さ、大きさ、どちらも確かに十両ありそうに思えた。

 もし暗殺者がいるなら、ここで狙ってくる。

 緊張が高まったが、何も起こらないまま、静かに足を送ってミトがマルガから離れる。

 静寂。

 目の前で、かすかな白い光が見える。どうやらミトがかすかに笑みを浮かべ、歯が光を反射したようだ。それが見えなくなったのは、ミトが頭を下げたせいだ。

 張り詰めた空気などまるでないかのように、ミトは自分が滞在する旅籠をマルガに伝えると「もしお話を受けていただけるなら、明日のうちに訪ねてきていただけますか」と告げた。

 まだ暗殺者のことを気にしていたマルガは、半分はまだ緊張していたが、半分は当惑していた。

 ミトにはどうとでも答えることができたが、「考えておこう」とまず答えた。十両を簡単に捨てられるものはそう多くない。ミトの誘いをここで拒絶すると、何かが起こるのではという言い知れない不安がマルガの中にあった。

 ミトもミトで、まるでマルガの芯の強さを試すように、十両を手放したことなどまるでなかったかのようなそぶりで、それでは、と一礼すると背中を向けて離れていってしまった。

 マルガは暗殺者の存在を最後まで気にして旅籠へ戻り、安全だと確信してから包みの中を確認した。

 確かに一両の小判が十枚あった。

 マルガは一晩考えて、ミトの話に乗ることにした。

 どうやらミトに他意はない。あるいはミトのいる旅籠に出向いたところを襲われるかもしれないが、すでに手元には十両がある。十分に警戒して、いざと待ち伏せされて襲われたとなれば逃げればいい。

 もっとも、十両を捨てる可能性を考えれば、ミトの誘いは真実だ。

 十両はそんな結論をマルガの中にもたらした。

 翌朝、自分を訪ねてきたマルガを前にしても、ミトはまったく平然としており、約束通りに四十両をマルガに差し出すと「明日には発ちますのでご同行を」と言った。五十両を手にして、危惧は杞憂だったのだとマルガは確信した。

 この時にやっと、聞くべきことを聞く気にマルガはなった。今度は暗殺者ではなく、剣術使いと命をやり取りすることになるのだ。無駄に死ぬつもりはない。

「それで、ミト殿はどなたにお仕えしているのかな」

 目の前にある四十両の包みを手元に引き寄せておきながら、マルガは慎重に確認した。

 ミトはマルガの心中を無視したように、少しの淀みもなくさらりと答えた。

「ヒュウガ屋シュウボウ様でございます」

「ヒュウガ屋? 知らんな……」

「ダンバラ様の領地で、米などを商っております」

 やはり商人か、とどこかマルガは納得する思いだった。

 おそらく稼ぎが相当なものになって、剣術家を競わせる遊びを思いつきでもしたのだろう。十両だの五十両などを簡単に浪費できる商人にはどこか不快なものがあったが、命で遊ぶ、剣術で遊ぶのはそれ以上に不快に思えた。

 翌日の再会を約束して一度、ミトの元を離れたマルガは自分の部屋のある旅籠へ戻って荷物に五十両をしまいこみ、それから食事にでも行こうかと考えながら表へ出た。

 歩きながらこの先を想像する思考の片隅で、ミトのことを考えていた。

 昨夜、マルガになんでもないように十両を渡した。同じことを他の場所で、他の剣術使いを相手に繰り返しているとすれば、ミトはかなりの銭を持っていることになる。

 どうやら護衛がいるようではないし、ミト自身も腕が立つようではない。ミトは刀を帯びていないどころか、短刀も携えていない。武術の心得はなさそうだ。

 なら、ミトを切ればどうなるか。

 ここでミトを切って、その持ち物をせしめる方が、よくわからないシュウボウなどという男の元へわざわざ出向くまでもなく、より大きな額の銭を容易に手に入れられるのではないか。

 繰り返し考えたが、マルガは決断できなかった。

 ミトを切らずに、ダンバラ領にあるというシュウボウという男の元へたどり着けば、それだけで五十両は手に入る。それをせしめて逃げ出せば、すでに手元にある五十両と合わせて百両を労せずに手に入れられる。

 別にミトを切ることに抵抗はないが、面倒は避けたい。

 結局、マルガはミトとともに旅を始めた。

 ダンバラ領までは一ヶ月もかからずに着くということだった。幸い、気候は崩れることなく、むしろ日に日に寒さは遠ざかり、過ごしやすくなった。

 それでも、マルガの中にはミトを切るという展開は常にあり、何度も考えてみてはその度に否定することになったのだった。

 だからその時も、もう数え切れないほど繰り返した思案がまた頭をもたげたにすぎないのだった。

 切っても良いが、切る気になれない。

 二人は峠を登りきり、緩やかな下りに差し掛かっていた。

 前方に茶屋が見えてくる。

 ふとミトがマルガを振り返り、ささやかな笑みを見せた。

「少し休んでいきましょう」

 マルガは愛想でわずかに笑みを見せて、頷いた。旅の間の費えは全てミトが持っている。やはり銭を十分に持っているのだ。

 切らなくても銭は手に入るが……。

 二人はゆっくりと茶屋へと歩を進めていく。



(続く)

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