第2話 銃声の向こうに

 夜が来た。

 だが、闇は安らぎをもたらさない。

 塹壕の中には、湿った土の匂いと、焦げた金属の臭いが漂っていた。

 空は雲に覆われ、星ひとつ見えない。

 風が吹くたびに、どこかで鉄板が軋む音がした。


 タケルは、塹壕の壁にもたれかかりながら、ぼんやりと手のひらを見つめていた。

 その手は、泥と血で汚れていた。

 自分の血か、誰かの血か、もうわからない。


 「……これが、俺の手か」


 神代カイとしての記憶は、まだ鮮明だった。

 だが、身体は完全にタケルのものだ。

 十四歳の少年の筋肉、骨格、鼓動。

 そのすべてが、戦場の現実を刻み込んでいた。


 「おい、新入り。水、いるか?」


 声をかけてきたのは、年上の兵士だった。

 顔は煤け、目の下には深い隈。

 だが、その手には、ぬるい水の入った水筒が差し出されていた。


 「……ありがとう」


 タケルは受け取り、一口だけ飲んだ。

 鉄の味がした。

 それでも、喉の渇きは少しだけ癒えた。


 「今日は運が良かったな。お前、初陣だろ?」


 「……うん」


 「死ななかっただけで、上出来だ。あいつらの半分は、顔も覚える前にやられた」


 兵士はそう言って、煙草に火をつけた。

 火の明かりが、彼の顔を一瞬だけ照らす。

 その目は、何かを諦めたように濁っていた。


 「名前は?」


 「斎藤……タケル」


 「そうか。俺は村井だ。よろしくな」


 タケルはうなずいた。

 村井は、それ以上何も言わず、煙草を吸い続けた。

 その沈黙が、なぜか心地よかった。


 塹壕の中では、誰もが静かだった。

 疲れ果て、言葉を交わす気力もない。

 それでも、誰かがすすり泣く声が、遠くから聞こえてきた。


 「……怖いよな」


 タケルは、誰にともなく呟いた。

 その声は、土に吸い込まれるように消えていった。


 やがて、交代の時間が来た。

 タケルは立ち上がり、銃を肩にかけて見張りの持ち場へ向かった。

 夜の闇は深く、何も見えない。

 だが、その闇の中に、確かに何かが潜んでいる気がした。


 「……命って、こんなに軽いのか?」


 自分の問いに、答える者はいなかった。




 「なあ、お前、名前なんて言ったっけ?」


 見張りの交代を終えて塹壕に戻ったタケルに、声をかけてきたのは、昨日見かけた少年だった。

 年はタケルと同じくらい。頬がこけ、目の下には深い隈。だが、その瞳には妙な光が宿っていた。


 「斎藤……タケル」


 「そっか。オレは佐伯ユウジ。昨日、こっちに回されたばっか。お互い、新入りってわけだな」


 ユウジは、どこか飄々としていた。

 戦場にいるとは思えないほど、軽い口調。

 だが、その言葉の端々に、張り詰めたものが滲んでいた。


 「お前、今日の突撃……初めてだったろ?」


 「……うん」


 「オレもだよ。怖かったな。足が勝手に動かなくなってさ。あれ、どうすりゃいいんだろうな」


 タケルは、答えられなかった。

 ユウジは、地面に座り込み、背中を塹壕の壁に預けた。

 そのまま、空を見上げる。


 「なあ、タケル。お前、死ぬの怖いか?」


 唐突な問いだった。

 だが、タケルは即答できなかった。

 科学者としての彼は、死を“現象”として捉えていた。

 だが、こうして肉体を持ち、痛みを感じる存在として生きている今、その問いは重くのしかかる。


 「……怖い、かもしれない。でも、それ以上に……」


 「それ以上に?」


 「わからないまま死ぬのが、怖い」


 ユウジはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


 「変なやつだな、お前。まあ、オレも似たようなもんか。何のためにここにいるのか、よくわかんねぇし」


 「……家族は?」


 「母ちゃんと妹がいる。父ちゃんは、もういない。空襲でな」


 ユウジの声が、少しだけ低くなった。

 タケルは、何も言えなかった。

 言葉にできることなんて、何もなかった。


 「お前は?」


 「……母さんが、泣いてた。駅で。父さんは……何も言わなかった」


 「そっか。どこも似たようなもんだな」


 ユウジは、ポケットから小さな紙切れを取り出した。

 それは、妹からの手紙だった。

 子どもの字で、「おにいちゃん、はやくかえってきてね」と書かれている。


 「これ、毎日見てる。……でも、もう、帰れる気がしねぇや」


 タケルは、その紙を見つめた。

 そこに書かれた文字は、震えていた。

 幼い手で、必死に書いたのだろう。


 「……帰ろう。生きて、帰ろう」


 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。

 ユウジは目を見開き、そして、また笑った。


 「お前、やっぱ変なやつだな。でも、嫌いじゃねぇよ」


 その夜、二人は交代で見張りをしながら、ぽつぽつと話をした。

 家族のこと。学校のこと。好きだった食べ物。

 戦場では、そんな話が一番の贅沢だった。

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