第6話 火の夜

 その夜、風が強かった。


 山の向こうから吹き下ろす風が、村の屋根を撫で、木々をざわつかせていた。

 囲炉裏の火は、風のたびに揺れ、赤く光る炭がぱちりと音を立てては、灰を舞い上げた。


 「……嫌な風だ」


 カイは、囲炉裏の前で膝を抱えていた。

 おっかさんは早くに床に就き、弥太郎も静かに眠っている。

 だが、彼の胸の中は、ざわついていた。


 嫁入りの話。

 村の掟。

 個人の自由のなさ。

 そして、何よりも——自分が“おしの”であるという現実。


 「俺は、神代カイだ。科学者だ。

  なのに、なぜ……こんな場所で、こんな身体で……」


 だが、どれだけそう唱えても、現実は変わらなかった。

 手を見れば、やはりそれは少女の手で。

 声を出せば、やはりそれは“おしの”の声だった。


 「……オルガ。お前は、これを見せたかったのか?」


 答えはない。

 だが、彼女の言葉が脳裏に蘇る。


 ——あなたは、まだ“生きる”ことを知らない。


 「生きるってのは、こういうことか?

  自由もなく、選択肢もなく、ただ流されるだけの人生が?」


 そのときだった。


 ——カン、カン、カン!


 村の中央から、鐘の音が響いた。

 それは、火事を知らせる合図だった。


 「火事だ! 火が出たぞーっ!」


 外から、男たちの怒号が聞こえる。

 カイは立ち上がり、戸を開けた。

 夜の闇の向こう、村の北側に、赤い光が揺れていた。


 「……あれは、納屋の方か?」


 おっかさんも目を覚まし、戸口に駆け寄ってきた。

 「おしの、弥太郎を頼むよ。あたしは手伝いに行ってくる!」


 そう言って、手ぬぐいを頭に巻き、飛び出していった。


 カイは、しばらく戸口に立ち尽くしていた。

 風に乗って、焦げた藁の匂いが漂ってくる。

 遠くで、桶を運ぶ音、叫び声、泣き声が交錯していた。


 「……行くしかないか」


 彼は、弟に布団をかけ直し、戸を閉めた。

 そして、草履を履いて、夜の村へと駆け出した。


 * * *


 火の手は、村の北端にある納屋から上がっていた。

 乾いた藁に火が燃え移り、炎は屋根を舐めるように広がっていた。

 男たちが桶で水を運び、女たちは子どもを抱えて逃げ惑っていた。


 「おしの! こっちだ!」


 誰かが叫んだ。

 カイは、桶を持って走る女たちの列に加わった。

 水場と火元を往復し、何度も水を運んだ。


 火は、思った以上に手強かった。

 風に煽られ、火の粉が舞い、隣の家の屋根にも燃え移りそうだった。


 「もっと水を! 早く!」


 「子どもたちを安全な場所へ!」


 混乱の中、カイはふと、ひとりの少女が泣きながら立ち尽くしているのを見つけた。

 まだ五つか六つほどの年齢。

 足元には、倒れた桶と、転がった水瓶。


 「危ない!」


 その子のすぐ後ろに、燃えた梁が崩れ落ちようとしていた。

 カイは、咄嗟に駆け出した。

 少女を抱きかかえ、転がるようにして地面に伏せた。


 ——ゴオォォン!


 炎をまとった梁が、すぐ背後に落ちた。

 熱風が吹き抜け、髪が焦げる匂いがした。


 「だ、大丈夫か?」


 少女は、泣きながらうなずいた。

 その顔を見て、カイは思わず胸をなでおろした。


 「おしの! 無事か!」


 おっかさんが駆け寄ってきた。

 その顔は、涙と煤でぐしゃぐしゃだった。


 「……うん。大丈夫。あの子も無事だよ」


 「よかった……よかった……」


 おっかさんは、少女を抱きしめ、何度も頭を撫でた。


 火は、夜明け前にようやく鎮火した。

 納屋は全焼し、隣の家の一部も焼け落ちた。

 だが、幸いにも死者は出なかった。


 村人たちは、疲れ果てた顔でそれぞれの家に戻っていった。


 カイも、ふらふらと歩きながら、夜明けの空を見上げた。

 空は、黒から藍へ、そして薄紅へと、ゆっくりと色を変えていた。


 「……命を守るって、こういうことか」


 火の中で、少女を抱きかかえたときの感触が、まだ腕に残っていた。

 あの瞬間、彼は何も考えなかった。

 ただ、身体が勝手に動いた。


 「俺は……もう、ただの観察者じゃないんだな」


 この世界の痛みも、恐怖も、温もりも、すべてが自分のものになっていた。

 それは、科学では測れない感覚だった。


 「オルガ……これが、お前の言う“命”か」


 返事はない。

 だが、風が頬を撫でた。

 まるで、誰かがそっと触れたように。


 カイは、静かに目を閉じた。


 夜が明ける。

 新しい一日が、また始まる。

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