黄昏の隣人たち

海ゴリラ風幕長

序章①


 ◆序章 


 人工照明が淡く灯りはじめると、旧駅ホームに眠る居住区がゆっくり目を覚ます。

 天井には地下鉄時代の看板やケーブルがそのまま残り、壁のタイルはところどころ欠けたままだ。


《レゴリス群区 第17保全部》


 今では数百人が暮らす“安全地帯サンクチュアリ”だが、元はただの駅のひとつだった。

 アキトは金属ラックの寝台から起き上がった。

 天井を走るパイプがゴウン、ゴウンと低く鳴り続けていた。この音が止まる日はない。

 止まれば、空調か排水か送電に不具合が出た証拠で、その時は作業員総出の出動となる。


 顔を洗い、作業着のファスナーを引き上げる。

 鏡は曇った金属板。

 それでも、目の下の隈くらいは分かる。


 居住区の通路に出ると、もう多くの人が歩き始めていた。

 誰もが一定の方向へ向かっていた。

 労働開始時刻に合わせ、時間どおりに現場へ行かなければ配給ポイントが減る。

 この社会では貨幣の代わりに、生きる権利を数値化したポイントが使われる。


 配給所でポイントを使えば、肉や野菜ペースト、清潔な水、作業服などが支給される。働かなければ、その権利を失う。


 アキトは配給カードを読み取り機に通し、今日の出勤を登録した。

 金属音がホームに反響する。

 その音が、この地下都市の朝の合図だった。


 元線路だった坑道を、作業区へ向かって進む。

 途中、飼育区画の前を通ると、暗がりの奥で家畜が餌を食べる音がした。

 地下向けに品種改良された豚やヤギに似た生き物。

 毛は少なく、目は弱い光でもよく見える。

 地下で生きる人間にとって、これらは大切な食料だ。


 作業区に着くと、複数人が道具の調整をしていた。

 ピックハンマー、電動削岩機、補強材用のアンカー。どれも古く見た目は時代遅れだが、ここでは現役で動き続けている。


 そんななかに顔馴染みを見つけた。ガロだ。

 彼はアキトよりも歳上で時折、こうして作業区分が同じになることがある気さくでお調子者で頼れる先輩だ。


「おう、アキト。今日は西側の掘削だ。補強材は渋らずに使えよ」


「分かってるよ、それ前にも聞いたから」


「言い続けねえと、次に崩れんのは俺らの頭だからな」


 冗談のように聞こえるが、本気だ。

 この地下を広げ続けなければ、人口、排水負荷、空調容量などが限界を超える。


 だから毎日、新しい穴が掘られ、壁が補強され、管が通される。それがアキトたちの仕事であり、生活そのものだった。


 仕事は単調だが危険だった。

 削岩機が岩壁に噛みつく振動が腕に響く。

 瓦礫をモッコに積み、運搬班に受け渡す。

 汗が渇き、また滲む。

 昼休みは、壁の段差にそれぞれ腰を下ろし、硬い栄養バーを食べる。

 ふと横を見ると、幼い子どもが工具を油で汚れた布で磨いていた。


 この世界に学校はない。

 いや、昔はあったらしいがコストの削減や教育不要論などで廃れていったと聞いたことがある。

 今では子どもは親や現場の年長者から、生き延びる方法や 工具の使い方、地下で守るべき規則、多少の読み書きを覚える。

 アキトには親がいない。物心がついた頃には居なかった。だから親代わりに育ててくれた近所の爺さんにそういうことは教わった。


「よし、それはもういい。手を切るぞ」


 作業員のひとりが声をかけると、少年は素直に工具を置いた。

 少年の親はすぐ横で配管補修をしている。

 この地下では、親子が同じ現場にいる光景は珍しくなかった。


 ただし、人口は厳格に管理される。

 男女が親しく話すのは自由。

 手を繋いでも、口づけを交わしても誰も咎めない。

 しかし許可のない妊娠は、重い処分対象となる。

 この地下都市に余分な口は増やせない。

 それが絶対だった。


 蛍光灯の半数が落ち、薄暗くなると作業終了の合図になる。削岩機を磨き、工具を棚に戻し、配給カードを機械に通すと今日のポイントが加算される。


 地下鉄の線路跡を歩きながら、アキトは天井に吊られた裸電球を見上げた。

 灯りは弱い。

 けれど、まだ生きている。


 居住区に戻ると、夕食の匂いが漂っていた。

 家畜肉を炙る音。

 誰かの笑い声。

 今日も誰も死なず、誰も大きな怪我をしなかった。


 アキトは寝台に体を投げ出し、足の疲労を吐息とともに落とす。目を閉じると、遠くで空調タービンの低い唸りが聞こえた。


 あの音がある限りこの地下は続いていく。

 明日もまた、起きて、働いて、配給を得て、眠る。

 それがこの世界の一日だった。


 毎日、掘削現場には金属を叩く鈍い音が続く。

 それが途絶えることはない。

 アキトは重さ五十kgの電動削岩機を肩に担ぎ、壁面に押し当てた。

 振動が腕骨に響くが、表情一つ変えない。


 その様子を、離れた場所で作業員たちが見ていた。


「……またひとりでやってる」


「俺ら三人がかりだった場所だぞ」


「ほんとに人間かよ」


 囁き声は小さく、しかし確実に届いた。

 露骨に言う者はいないが、態度はいつも同じだった。


 自分は普通じゃいことに気付いたのは10歳にも満たないころだった。

 周囲の子どもと遊んだとき膝を擦りむいて泣く子を抱き上げた瞬間、抱えた相手の骨が悲鳴を上げた。


「痛いっ……! 離せよ!」


 軽く持ち上げたつもりだった。

 だが、相手にとっては“痛むほど強い力”だった。

 それを見た大人たちの顔を、アキトは忘れない。

 人々は、理解不能なものを本能的に排除する。


 ある者は言った。


「不気味だ」


 ある者は呟いた。


「あの子は、人じゃない」


 アキトの耳に、その言葉は何度も何度も刺さった。

 反論も、説明も意味をなさなかった。

 自分がなぜ普通と違うのかアキト自身も答えはなかった。

 ただそれはこの地下社会では、理由の分からない異常だと言うことだけは幼いながらも理解した。


「……おい、危ねえだろ!化物!」


 作業員の一人が声を荒げた。

 アキトが掘削機で岩を削っている最中にたまたま後ろを通った作業員に破片が飛んだ。


「そんなとこで、一人でやってんじゃねぇよ!」


 怒鳴る声には、怒りよりも恐怖が混じっていた。


「……悪い」


 そもそもアキトと組みたがる人間はいない。

 それを目の前の男とて分かっているはずだが、恐らく虫の居所でも悪かったのだろう。

 アキトが頭を下げても、その作業員はなおも吐き捨てる。


「悪いじゃねぇよ!普通にやれよ。普通に」


 普通。

 アキトが最も苦手な言葉だった。

 身体が勝手に強い。

 力の加減が、他人とは違うのだ。

 わざと力を抑えようとすると逆に動きがぎこちなくなる。

 すると今度は。


「危なっかしい動きするな」


「下手に動くと逆に怖いんだよ」


 そう指摘される。


 誰もアキトを“仲間”として扱いきれない。

 使い道がはっきりしている不安定だが便利な異常者。

 それがアキトの立場だった。


 しかし、今日に至ってはその空気を一蹴するような笑い声が聞こえた。ガロだ。


「おーおー、そんなビクつくな!飛んでくる前に避けりゃいいんだよ!」


「……ガロ」


 怒鳴った作業員が振り返る。


「お前な……!俺らみたいに普通の人間は、飛んで来たら死ぬんだよ!」


「だから言ってんだ。飛んでくる前に避けろってな」


「できるか!」


 怒鳴り返す声に、ガロは堪えきれず笑った。


「できるさ。一人一人が気を付けてればな」


 その一言で、空気が固まる。

 正気とは思えない言葉。

 しかし、ガロは真顔だった。


「俺は最初から怖がってねえよ。あいつの力は強いが、俺らも気を付ければいい話だろ?別に崩れそうなら支える。落ちそうなら避ける。ただそれだけだ」


「……お前、あんなの庇って得があるのか?」


 誰かが言った。

 ガロは肩をすくめた。


「得?んなもんダチ、助けんのに必要かよ」


 そしてポンとアキトの背中を叩く。


「いいか、アキト。お前の力は宝だ。オレらに出来ない事がお前にはできる最ッ高にクールじゃねぇか」


「お、おう」


 返事は小さかった。

 言葉は慰めだ。それが分かっていても嬉しかった。

 必要とされているのが温かかった。


 作業終了の合図が鳴る。

 配給カードを通し、今日のポイントが加算される。

 皆が居住区へ帰る中、アキトは坑道の壁を振り返った。

 自分が割り、自分が支えた痕跡。

 普通ではない証拠。

 そんなアキトを見てガロが隣で言う。


「人と違うなんて、誰にでもある話だ。お前のはちょいと目立つだけだ」


「目立ちすぎだろ」


「はっは!目立たねぇ奴よりよっぽど面白ぇじゃねえか!」


「つっても俺なんて庇ってもガロの立場が」


「立場?んなもん関係あるかよ。俺は俺が立ちたいとこらに立つ。そんだけだよ。だからお前も気にすんな」


 そう笑うガロは本心を告げているのだと分かった。

 誰より理解し、誰より受け入れてくれている。

 それがありがたかった。


 その後も他愛ない話しをしていると、ふと思い返したようにガロが言った。


「しっかし、今日も揺れたな」


「確かにちょっと多いよな」


 ここ最近になって小さい地震が多発している。

 今日の日中も何度か揺れてモッコが横転していたのをアキトも見ていた。


「まぁ壁が崩れなかったのが幸いだなーあと天井」


 溜息を吐きながら語るガロの目には疲労が見えた。


「ガロは大丈夫か?少し疲れてるように見えるけど」


「そうか?まぁ確かにこうも揺れが多いとな。てかアキトはよく見てんな。惚れてんのか俺に」


「バカ言う元気があるなら大丈夫そうだな」


 それでも少し彼が疲れて見えたのは小さな揺れでも命に直結するからだろう。気を張って当然だ。

 ましてやこの地下では気分を紛らわすような娯楽はすくない。


 毎日が同じ循環の中で進んている。

 明日も変わらない。

 起きて、働いて、配給を受け取り、眠る。

 崩れそうな天井と、人間関係を同時に支えながら。


 それから数日が経った頃だった。

 その日は坑道の湿気がいつもより重く肌にまとわりついていて不快感を常に感じていた。

 岩壁のひび割れも先週よりもはっきりと音を立てている。

 アキトは肩に削岩機を担ぎながら、その脈打つ振動を腕で受け止めていた。穴の奥側では、ガロが軽口を叩きながら瓦礫を積み上げている。

 いつもの調子だった。

 しかし、いつもより空気が重いのは湿度だけではない気がした。


 その時、地面が大きく揺れた。

 これまでの小さい地震ではなく、腹の底から響くような大きな地響きが地下を襲った。

 そして、ばきん、と乾いた音が響いた。

 補強材が割れる音。それが意味するところは崩落だった。

 地下では小さな崩れは日常の一部に過ぎない。

 だがそれは日常の枠を超えた事故だった。天井の岩盤が大きく割れ、砂と土の塊が一気に落ちてきた。


 作業員たちが叫ぶ。声は砂塵にかき消され、絶叫が互いに重なり合う。アキトは反射的にガロに手を伸ばした。

 だが届かない。その前にガロの姿は土砂によって遮られてしまった。

 重みと衝撃が同時に襲う。床が震え、瓦礫が周囲に飛び散った。

 上から雪崩のように崩れてくる土砂にはアキト自身も恐怖を覚えた。それでもなんとか身を捻り致命的な巨石を交わすが土と泥はそれが叶わかった。

 瞬間、時間が止まったかのようだった。胸の奥で何かが凍りつき、視界は砂と埃で白く染まる。叫ぶこともできず、ただ手を伸ばすしかなかった。


 土砂で埋まった身体を必死に動かす。

 幸い埋まっていたが浅層だったのか、アキトはそこから抜け出すことができた。


「ガァァァァァ!」


 雄叫びを上げながら這い出すと後ろを振り返った。

 自分以外は誰もそこから出てこなかった。


 なぜ自分だけがと。

 手に感じる瓦礫の感触、粉塵の重さ、地面に落ちた血の温度、すべてが現実だった。

 ガロはその場に飲まれ二度と目の前には現れない。生き残ったのは、自分だけだという事実が、胸に重くのしかかる。


 翌日、地下居住区に戻ると、何事もなかったかのように日常は動き始めていた。配給所では、作業員たちが淡々と食料を受け取り、点検された工具を持って次の区画へ向かう。


 誰も昨日の事故の話をしない。ガロの名前も、姿も、そこにはない。

 この地下空間にあって死は珍しくはない。

 ただ、存在しないものとして処理されるだけだ。彼の目には、仲間たちの冷淡さが鮮明に映る。

 だがそれは、彼らが冷酷なのではなく、この地下に生きるための必然なのだ。悲しむ暇も、悼む余裕も、許されない。


 歩きながら、アキトは崩落現場を思い返す。岩の粉が舞う空気、落ちる瓦礫の音、そしてガロの笑顔。手を伸ばしても虚空を切るあの感覚、今も手に残っていた。

 周囲の誰もが自分を避け、恐れる目で見る。だがその視線に心を痛める余裕はない。


 異常であること、普通ではないこと、それが彼の存在を貫く真実だった。誰もが便利さのために使い、そして日常に戻る。アキトだけが、昨日と今日の違いを知っている。


 昨日の崩落区画は完全封鎖され、作業ルートは別の支線へ変更された。

 照明の古い蛍光灯が、安っぽい白い光を坑道に落とすし、鉄骨の反響が耳の奥に鈍く残る。


 アキトは削岩機を担いで歩いていた。

 工具の重みは、普通の作業員なら両手で抱えねば歩くことすら困難だ。

 だがアキトにとっては、肩に引っかける程度で十分だった。

 作業現場に近づくにつれ、低い囁き声が耳に届く。


「……全員潰されたって聞いたぞ」


「全員たぁ災難だな」


「いや……ひとり、生き残ったらしい」


 名前を言わなくても誰のことか分かる。

 声は直接アキトに向けられてはいない。

 だが隠すつもりもない。


「……やっぱり普通じゃねぇよアイツ」


「怪我一つしなかったとか」


 淡々とした声。

 好奇と憎悪が含まれた声音。

 何故、自分がと思う気持ちはある。

 理不尽で不条理なその現実、その許容量を人ひとりが背負うには限界がある。長年蓄積された憎悪という感情をガロが居てくれたから乗り越えることができた。


 そしてまた別の作業員が小さく息を吐く。


「結局、崩落で生き残れるのは……ああいう化物だけだ」


「人間じゃないからな」


 その言葉を聞いても、アキトの足取りは止まらなかった。止めても意味がないと知っていた。


 現場に入ると、作業を開始する合図のベルが鳴った。

 ひび割れた壁に削岩機を押し当てると、砕けた石がぱらりと落ちた。

 粉塵が舞い、光の中でちらちらと反射する。

 アキトは集中しようとしたが周囲の話し声はまだ続いている。


「崩落の中心付近にいたって聞いたぞ」


「それで無傷?そんなやつ、怖くて近寄れねえよ」


「でもいたよな、アイツと仲が良かった物好きな奴」


「色黒でノッポな奴だろ?名前は忘れたがよ。アイツも災難だな疫病神に近付いたばっかりによぉ」


「いやいや自業自得だろ?化物に尻尾振ってよ。僕を守ってぇ〜とかやってたんだぜきっと」


「ギャハハ…やべぇそれ気持ち悪ぃ!そういう奴ほどああいうので死ぬんだよ」


「まぁ化物の金魚のフンにはお似合いかもな」


 その瞬間、アキトの視界がぶわりと赤く揺れた。

 削岩機が床に落ちる音が響く。

 そのまま、アキトの足は無意識に動いていた。


「……てめぇら、もう一回言ってみろ」


 低く、掠れた声。

 いつものアキトとは違う声音だと自分でも気付いた。


「なんだよ図星か?それともアイツの代わりに地面に埋まりたかったか?今からでも埋めてやるぜ?」


 嘲りの笑い声。

 その瞬間、アキトの拳が閃いた。


「──ッ!」


 鈍い衝撃音が坑道に響く。

 一人が吹き飛び、石壁に背中を叩きつけられて崩れ落ちた。


 周囲が息を呑む。

 アキトは動きを止めない。

 もう一人の胸倉を掴み、無造作に突き飛ばす。


「ガロを侮辱するんじゃねえ!!」


 壁に叩きつけられた男が呻き声を上げる。

 残りの男は最初こそ啞然としていたが、次第に目の色を変えた。


「何しやがるこの化──」


 そいつが言い終わる前に、アキトの拳が唸りを上げた。

 殴られた男が後ろへ吹き飛ぶ。

 だが、そこで終わらなかった。

 周囲にいた作業員たちが、驚愕より先に怒号を上げて殴りかかってきた。


「てめぇ!何してやがる!」


「調子乗ってんじゃねぇぞ、化物!」


 数人が一斉に掴みかかる。

 乱闘が始まった。


 坑道は狭く、反響する怒鳴り声と足音、乱れ飛ぶ工具の金属音が混ざり合う。


 アキトは腕を取られ、背に抱きつかれる。

 だが、常人離れした力が唸った。


「離せ!!」


 背に乗った一人を壁に叩きつけ、そのまま振り返りざまに別の一人の腹へ拳を突き立てる。


「ぐっ……!」


 男が膝から崩れた。

 残りがツルハシを手に取り、威嚇するように構える。


「この疫病神のクソ化物んが!」


 アキトの顔には血が一筋伝っていた。

 どこかで殴られもしたのだろう。

 だが、その目は烈火のように燃えていた。


「お前らが…お前らが…俺をそうしたんだろ…!!」


 最初こそ化物なんかじゃないと叫んだ。

 それを否定したのはお前たちだ。

 年端の行かぬ子どもを化物と仕立て上げたのは大多数の大人たちだ。

 子どもだったアキトはそれを受け入れるしかなかった。

 彼らは化物だと勝手にそう築き上げて、そうであって欲しいと願って。

 自分たちとは違う生き物だと決めつけて、薄気味悪い異分子だと集団で指さして、自分たちが迫害しても傷つけてもいい存在なんだと言い聞かせてきたくせに。


 それを庇ってくれた、たった一つの良心を彼の名誉をも傷つけるというならば。


 嗚呼…なら化物でも何でも好き言ったらいい。


 だからお前たちもその化物にーー


「狩られることを受け入れろよ豚ども」


 込み上げてくる黒い感情もろともにアキトはそう吐き捨てる。


 瞬間、ツルハシが振り下ろされた。

 アキトは身を捻って避け、相手の腕を掴んで逆関節に押し込み、床に叩き倒した。

 鈍い悲鳴が鼓膜を突き抜けるがアキトは意に返さない。

 そのまま男の腕を圧し折ろうとしたが横から来た男に蹴り飛ばされた。


 もう一人は背後から抱きつき、頭を押さえ込み、坑道の地面に顔を擦りつけようとする。


「殺してやる!お前みたいな異常者──!」


 アキトは呻き、足を踏み鳴らしてバランスを崩し、その男を背負い投げるように叩きつけた。


 周囲はもう、完全に混乱だった。


「やめろ! 全員やめろ!!」


 監督員がようやく駆け込んでくる。

 だが、乱闘はまだ終わらない。


 倒れた男が這いながらアキトの脚にしがみつき、もう一人が頭に膝蹴りを入れようとする。


 アキトは反射的に腕を払う。

 膝蹴りは外れ、壁にひびが入るほどの勢いで拳が叩き込まれた。


「──ッ!」


 男が白目を剥き、崩れ落ちた。


 その瞬間、坑道が静まり返る。


 監督員も、見ていた他の作業員も言葉を失った。

 荒い息を吐きながら立つのはアキトだけ。

 周囲には、呻き声を上げる男たち。

 血と埃で汚れた坑道。


 誰もが悟った。


 この場で一番危険なのは、崩落でもなんでもないこの年端も行かぬ子どもだ、と。

 監督員が震える声で命じた。


「おまえ……そこから離れろ。もういい、作業は中止だ……!」


 アキトは長く息を吐き、削岩機を拾った。

 誰も、もう彼に近寄ろうとはしなかった。

 怒りの火は未だ消えない、胸に残ったのは空洞だけだった。


 その夜、アキトは鏡のなかの自分自身を見ていた。


「何がガロを侮辱するなだよ」


 これまで、ガロがアキトのために庇ってくれたこと、無闇に噂を立てる者がいれば、代わりに睨み返してくれたし、アキトが余計な揉め事を起こさないよう、よく声をかけてくれてもいた。


 でも──


 アキトはあっさりと、それを踏みにじった。


 静かな部屋の中で、裸電球が微かに震えている。

 ガロはいない。

 守ってくれた背中も、もうどこにもない。

 残ったのは怒りと悲しみだけだった。


 アキトの視界がぼやけた。

 それでも涙は落ちない。

 泣くことも許されない場所だと体がそれを知っている。

 代わりに小さく、呟いた。


「……ガロ、ごめん。」


 その声は金属の壁に吸い込まれ、誰にも届かず消えていった。


 乱闘騒ぎを起こした翌日、アキトの部屋の前には黒い制服を着た男たちが立っていた。

 彼らは総監部と呼ばれるこの地下の治安係だ。問題を起こした労働者や犯罪者を取り締まる者たちであり、彼らがここにいる意味は言葉無くとも明確に示していた。


「労働者No.六五四番、貴様に四日間の独房入りを命じる」


「……あぁ」


 地下で生まれた『異常な個体』、労働力としては申し分なく貴重なアキトを殺すのは惜しい、かと言って大暴れした挙句にお咎め無しでは他の者たちへの示しが付かない故の処置なのだろうとアキトは勝手に解釈する。

 手縄を掛けられ男たちに囲まれながらアキトは歩く。

 周囲はその光景を奇異な目で見るだけだ。その視線にはとうに慣れている。


 居住区を抜け人気のない場所まで来ると小さな扉があった。元は不要になった保線車両の清掃倉庫だったらしく湿気とカビの匂いが鼻腔を刺した。

 黒服がカード鍵を開錠するとアキトはそのまま押し飛ばされ転がるように独房のなかに入った。


「しばらくそこで反省しろ」


「……あぁ」


「ち、愛想のねぇガキだぜ」


 それだけ言い残すと黒服たちの足音は遠ざかっていく。

 見張りも誰もいない一人残されたアキトは扉の上に開けられた小さな鉄格子から差し込む白熱電球の光をただ見ていた。


 自業自得だと自分でも思う。抑えられなかった感情を爆発させて暴れるだけ暴れたバカなガキだ。

 ガロなら今の自分を見て何と言うだろうか、笑っただろうか怒っただろうか、それとも黙って肩を組んでくれたろうか。

 しかし、それを確認することはもうできない。もう彼はどこにもいないのだから。


 アキトは目の前の鋼鉄の扉を見やる。

 恐らくこんな扉でも自分は蹴破るぐらい造作もないことなのだろう。そんな異常を持っていてもガロを助けることができなかった。

 あまつさえ、彼の気持ちを踏み躙った。


「だったらこんな力なんて要らねぇよ」


 ただ膝を抱えることしかできない無力な自分を妬みながらアキトはただ目を閉じた。


 何時間ぐらいそうしていたのだろうか。この地下で時間がどれだけ経ったか分からない。地下では夜も昼も変わらない。唯一の指標は空腹だけだ。


 その時、小さなノックが扉の向こうから響いた。


「ねぇ君、起きてる?」


 透き通った、しかし迷うような声。


「アンタ、誰だ」


 鉄格子の隙間から覗く翡翠の瞳と目が合った。

 黒服たちでもなく、同年代か少し下ぐらいの幼さが残った瞳だ。


「君、アキトでしょ?私はサチ。お腹減ってない?ご飯持ってきたんだけど」


「……は?」


「ご飯って言っても何時もの固い栄養バーなんだけど、無いよりかマシでしょ?ほら」


 鉄格子の隙間から投げられる栄養バーがカタンコトンと音を立てながらアキトの前に落ちてきた。

 アキトは思わず目を上げた。


「なんでこんなこと。黒服に見つかったら……」


「見つからないようにしてるから言ってるの」


 苦笑するような声。


「サチ…だっけ?飯はありがたいけど俺なんかに関わっちゃ駄目だ。俺は……」


「でも君、ガロの友達でしょ?」


「ッ!」


 突然、出てきたガロの名にアキトは思わず彼女を見やる。ガロの関係者、それがアキトの緊張をより高めた。


「ガロね、いつも君の話ばっかりするの。今日はどんなことがあってどうだったとか」


「待ってくれサチ、君は…」


「少し妬けちゃうぐらい君の話ばっかり。アキトはガロにとってかけがえのない友達だったよ。だからお礼が言いたかったの。お兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとうって」


 彼女の翡翠の瞳が優しく微笑むのが分かった。アキトは少し呆然としながらも口を開く。


「ガロの…妹…?」


 掠れたような弱々しい声音だった。それが緊張からなのか罪悪感からなのかアキトには分からなかった。

 ただ言わないといけないことがあった。

 ガロは自身の話をあまり口に出さなかったからアキトもそういう話を避けてきたが、もし彼に家族がいたならば言わないとならないと心の隅で思っていた言葉。


「俺は……」


「うん」


「俺は…!!」


「大丈夫だよゆっくりで」


「俺は…ガロを…彼を守れなくて、ずっと守って貰ってたのに、俺はガロを助けられなかった…ごめん…ごめんなさい…」


 この地下では涙を流すことは許されない。

 そう体が覚えているはずなのに、アキトは大粒の涙を流し、嗚咽混じりに言葉が漏れる。

 その慟哭をサチは黙って、聞いてくれていた。

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