侯爵夫人は離縁したい〜拝啓旦那様、妹が貴方のこと好きらしいのですが〜
あおいかずき
第1話 黒装束の淑女は正しく脱走したい
ラスコーン侯爵領にある当主の屋敷は、その有り余るほどの財力を誇示するように広い農園を見渡せる高台に建てられた白亜の宮殿であった。
豪奢で繊細な彫刻がほどこされた壁面は朝日を浴びると神々しく輝き、まるで神殿のようだとされながらも侯爵自身の人柄から寒々しい氷の城だと揶揄されることもあるらしい。
十九になるや否や申し込まれた婚約を経て半年前に輿入れして以来、いわゆる白い結婚をしている私にはピッタリの城だと思う。
強引な政略結婚をさせられたが夫と顔を合せることも稀だし、生活自体は気楽で住み心地も悪くない。屋敷の使用人達は皆働き者だし、一緒に料理をさせてくれることもある。広い領地で狩りでもさせてくれたらもっと嬉しいけれど、実家でもなく結婚した身であれば我儘かもしれない。
屋敷に隣接する騎士団の駐屯所から、風にのって馬の嘶きが聞こえてきた。あそこに常駐している騎士の皆さんとも、時折顔を会わせれば挨拶をする程度にはおおむね平和な関係だ。
けれど、私ことルイーサ・バレリア・セレナは心に決めている。
セレナ伯爵家の双子姫の姉であり、ラスコーン侯爵夫人である私は、今夜こそこの侯爵家から脱走するのだ。
「……今夜こそ」
目を閉じれば瞼の裏に双子の妹の顔が浮かぶ。あの子が恋をしているのであれば、全力で応援してあげたい。
背に流れた黒髪を一束ねにした私は窓下に寄せた椅子に上った。
音がせぬように明かり取りの窓を開けると、冷たい夜風が流れ込む。新月に近い今宵の空は暗く、城の白壁もおそらくどんよりと灰色がかっているだろう。
逃げるには好都合だ。
足元では犬のリカルドが心配げに私を見上げている。落ち着いたら迎えにくるからと頭を撫でると、言い聞かせた通りリカルドは自分の寝床へと潜り込んでいく。
私は椅子の上に一通の手紙を置き、割いて長く結んだシーツを窓の外に垂らした。反対側は重たいベッドの足に括り付けてある。体にシーツをひと巻きし何度か引っ張って緩む気配がないことを確かめ、私は窓枠に足をかけた。
「多少緩くても、三階くらいからなら大丈夫でしょ」
そのために動きやすさ重視の男装をしているのだ。
何処に引っかかるとも知れないいつものスカートとパニエを脱ぎひざ下丈のキュロットに長いブーツを履いているし、上着だって袖や襟の装飾もない男性物の黒コートを着ている。窮屈なコルセットがない今なら、息も大きく吸えるし体を曲げても痛くない。そもそも元来、身軽で木登りなども好きだったクチだ。
胸ポケットには厩番のヒルへ渡す口止め料もしっかり入れた。
よし。
私は窓から身を乗り出した。外の壁の突起へ足をかけ、ゆっくりとシーツへ体重をかけて壁を伝い降りる。
雲がかかっているのか外は闇夜と言ってよく、地面までの距離感がつかめない。何度か壁から足が離れそうになるが堪え、慎重に体に巻いたシーツを滑らせる。
やっとの思いで地面に足が付いた私は、ほうっと細く息を吐くとすぐに木陰に身を隠した。
いくら辺りが暗いとはいえ、開けた場所に長くいては見つかってしまうかもしれない。
数回深呼吸をし息を整えると、私は木の影を伝いながら裏門近くにあるはずの厩を目指した。そこには伯爵家から連れてきた愛馬プリシラがいるはずだ。
プリシラはセレナ伯爵家きっての駿馬である。嫁入りの際に持参金の一部として連れてきてからも、ずっと私の心を癒してくれた親友だった。
城を出たらちょっと強行軍になると考え無理をさせたくなくて今までプリシラで逃げようとはしなかったけれど、やっぱり一番信頼できるのは彼女の脚だ。これまで厩を経由したことがないから、こちらへの警戒は薄いだろう。
脱走が成功したらその足で母から相続した領地へ行こう。ほとんど手つかずの小さな屋敷もあるし、自分で狩りをしたり畑を耕したりしてひっそりと暮らす分には問題ない。ほとぼりが冷めたら実家の手伝いでもして暮らせばいい。
逸る心を抑えつつ木の影を縫うように裏庭を進むと、雲が切れたのか辺りがほんのりと明るくなった。細いとはいえ月明かりがあると随分と違うものだな、なんて思いながら視線を上げると木々の向こうに厩の屋根がぼんやりと見える。
この木を避ければ厩だ、と私が一歩足を踏み出したときだった。
ざっという音とともに私の足首に何かが絡みついた感触がした。悲鳴を上げなかったのは奇跡に近い。
しかし蛇かなにかかと思った次の瞬間、ものすごい力で足を引かれた私の視界はぐるりと回転したのだ。
――罠か。
そう思ったけれどもう遅い。縄に片足を取られた私は既に逆さに吊り上げられてしまっている。
しまったと歯噛みしながらなんとか足に絡みついた縄をほどこうともがくが、宙吊りにされていては満足に身動きすら取れない。くそう、と侯爵夫人という身分にはそぐわない言葉が口から洩れる。
できるだけ身軽にと思って準備した軽装が仇になった。縄を切るような刃物もなく、動けば動くほど足首がきつく締めあげられていく。
そして人間、逆さに吊られていると頭に血が上っていくものだ。コルセットもしていないのに息が上がり耳鳴りまでしてくるではないか。
このままではまずい。なんとかしなければともがけばもがくほどに苦しくなる。
思考能力が低下し、痛みに我慢しきれなくなったころだった。
「……やはりこちらにも仕掛けて置いて正解だったか」
ざりざりとした耳鳴りの隙間を縫うように、静かな男の声が聞こえた。
ぎりっと歯噛みをして不自由な態勢ながら首だけ振り返れば、そこには夜着の上にマントを羽織った銀髪の男が立っているではないか。そしてその隣には赤髪の男が一人、目を丸くして腰に下げた剣に手をやっている。
「奥様!」
そう言うと赤髪の男は剣を抜き私を吊るしていた縄を一閃した。待ってと声をかける間もない。あ、と彼が間抜けな声を出すのと、私が地面に落ちるのはほぼ同時であった。
「っつぅ……!」
「お、奥様! 失礼いたしました! ご無事で!?」
「助けてくれたのはありがたいけど状況見て剣抜きなさいよ」
「し、失礼を……! お怪我があれば医師を呼びます!」
「ちょっとぶつけただけだからいいけれど、でも何なのよこの原始的な罠! こんなのに引っかかったなんて、恥ずかしくて誰にも言えないじゃない」
「いや、私どもも初手でこんなにあっさり引っかかってくださるとは夢にも思わず……他にもいくつか仕掛けてあったんですが、これは保険のようなもので一番、無いなと思った罠にかかっておられたので私も驚いてしまって」
猪突猛進気味な従僕の青年は私の脚に絡まった縄をほどくと、その場に這いつくばった。悪気があったわけではないのだろうけれど、もう少しお手柔らかに願いたい。
しかしこの二人が現れたことは今夜の脱走も失敗に終わったということだ。通算五回目。いつもは選ばない経路だったというのに罠を仕掛けられ、あっさりつかまってしまって悔しいことこの上ない。
私がぶつぶつ言いながら首や肩を回して痛みが無いことを確認していると、下草を無造作に踏みつけながら近寄ってくるマントの裾が目に入った。
赤地のベルベッドに金糸の刺繍が施されたそれはわずかな月明かりさえ反射し、暗がりで見てもいかにも高価な一品だと分かる。つまり、それを羽織った人物こそこのラスコーン侯爵家の主という訳だ。
――ロカ・アンブロシオ・ラスコーン侯爵。
戦場で名を馳せた苛烈な武力と彫刻のように整った顔と、そして水流のごとく滑らかな銀髪のおかげでついた二つ名は「炎の氷帝」。マントを羽織っていれば目立たないが、恵まれた体躯による剛腕で大きな戦斧を小枝のように振り回しながら敵をせん滅する、いわゆる国の英雄である。
と、妻である私は使用人達の噂で聞いたことがある。実体なんて知らない。
だって政略結婚を申し込まれて輿入れしたというのに、夫である侯爵とはほとんど話したことがないのだから。そもそも寝室も別だし、屋敷にいついるのかも分からないほど私達に接点はない。
しかしどういう訳か私が脱走を企て始めると、それを阻止するだけでなく決まって姿を現すようになったのだ。
近づいてきた侯爵は、私のすぐ近くまでくると立ち止まった。特に言葉をかけられるわけではないので顔を上げずに自分の手足を確認していると、不意に視界が暗くなった。
ただでさえ月が細く暗い夜だ。手元すら見えなくなる。すると、冷たいものが手首に当たった。いや、掴まれた。ぎゅっと力を籠められ引き上げられる。
「ひ……!」
「っ……!」
つい今しがた縄の罠にかかって吊り上げられた感覚を思い出し、咄嗟に手を引くと頭上で息を飲む声がした。
はっとして顔を上げると、思いのほか近くに人の顔があった。弱い月明かりとはいえ逆光になっているが、マントを羽織っているということはラスコーン侯爵か。
夫に触れられるとは想像もしていなかった私は、思わず彼の顔を凝視したまま固まってしまった。
初めて間近に見る夫の顔は、噂にたがわぬ美しさだった。
影になっているのに鼻梁を縁取る月光のおかげで彼の鼻筋がすっきりとしていることも分かるし、反射したわずかな光が赤色の瞳に映り込み宝石のように輝いていることも分かる。
こんなきれいな男性が戦場では武勇の誉れ高いというのは嘘ではないかと思ってしまう。そしてそんな男性が胸に恋心を秘めているという事実も信じがたい。
その想い人が、私の妹だということも――。
私と瓜二つと言われる妹、マリナの顔が脳裏を掠める。ちくりとした胸の痛みは、彼女を差し置いて侯爵と見つめ合ってしまっている罪悪感によるものだろうか。
「な、何故邪魔をするのですか……」
輝く瞳に吸い込まれるように私の口からは問いが漏れた。極小さな声ではあったものの、至近距離にいる伯爵の耳に届かなかったはずはない。しかし私の夫はただ無言で目を逸らした。
「あなた方のため、私は潔く離縁して身を引くと言っているのです。それもこっそりと姿を消すと。何らかの手違いであったことはお察しします。妹は私と瓜二つ。すぐに呼び寄せれば、きっと領民にも世間にも気づかれずに入れ替わりができるのです。何故邪魔を――」
そう。きっとこの婚姻は何らかの手違いだったのだろう。彼が望んでいたのは私の妹だったのに、勘違いしたのか姉の結婚を先にと父母が焦ったのかでもしたのだろう。
ただ、侯爵の片想いであれば黙殺した。白い結婚で気ままな暮らしが手に入るのであればそれでもいいと思った。しかし妹の気持ちが分かった今、姉である私は彼女の恋を応援したい気持ちでいっぱいなのだ。
用意した離縁状には世間体まで考えてこっそり入れ替わる作戦もしたためているというのに、なぜこの朴念仁は想い人と一緒になることをせず私の邪魔ばかりするのだろう。
焦れた私が一気にまくし立てると、一瞬の後に侯爵は細くため息を吐いて私の手首を放した。そしてかがめていた身を起こし、マントを翻して背を向ける。
「明朝すぐに医師の手配をする。いくぞ、マルシオ」
肩越しにこちらを見るでもなく、たった一言そう告げると侯爵は振り返りもせずに屋敷の方へと歩き出してしまった。
滅多に私に声をかけることがない夫なのに、と私が呆気に取られているうちにその背中はどんどんと遠ざかって行ってしまう。
「あ、おいロカ! いや、ロカ様! 奥様どうするんだよ!」
あとに残された赤色の髪の従僕が私と主を交互に見ながらおろおろしだす。怪我もないからほっといてもらっていいと言えば、マルシオはこちらを気にしながらも主を追いかけて行ってしまった。
「……このまま逃げる手も……というのは無しね。罠があるって言ってたし。今夜のところは諦めるか」
今夜計画した脱走がバレてそれを阻止された以上、重ねての行動はさすがによろしくない。従僕にも見つかってしまったのだから、こっそりと入れ替わる作戦のためには出直すしかないだろう。
私は立ちあがって足に痛みが無いことを確認すると、仕方なしに屋敷へと戻ったのだった。
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