第五話:天空の静寂と、法則が結ぶ命の砦
アランが垂直な岩壁に最初の杭を打ち込み、登攀を開始してから数時間が経過した。夜明け前の薄い光が、青灰色の岩肌をわずかに照らし始めている。
アランの動きは、優雅で、無駄がない。彼は、風の法則を逆利用し、岩壁沿いに流れる**『風のトンネル』の縁**を正確に捉え、その浮力を身体に感じながら、垂直の壁を登っていく。岩壁の小さな亀裂、苔の生え方、風の音の反響。その全てが、アランの探検家としての知恵と経験によって、登攀のための確かな情報へと変換されていた。
「アラン! 右側からの風のベクトルが強くなったわ! 安定している!」
地面からアランの登攀を見上げるリサの警告が、正確に風の法則の変化を伝えてくる。彼女は、地面に体を密着させ、風の強さや岩壁の微細な振動を肌で感じ取り、アランの目となり耳となっていた。
アランは、リサの警告を頼りに、自作の硬質な木杭を、岩壁の微細な亀裂に打ち込んでいく。杭の先端の角度は、リサの地質学的な知恵に基づき、凝灰岩の脆さを考慮した完璧な角度で削り出されている。
カツン、カツンと、杭が打ち込まれる鈍い音が、岩壁に響き渡る。その音一つ一つが、彼らの命を繋ぐ砦となっていた。
中腹に差し掛かると、空気は急激に冷たくなり、雲を抜けたことによって、星々の冷たい光が、アランの身体を凍えさせ始めた。同時に、高度が上がったことで酸素が薄くなり、アランの呼吸は荒くなる。彼の右腕の治癒したばかりの骨が、圧力の変化と寒さによって、再び鈍い痛みを訴え始めた。
「くそっ……治癒したばかりの骨が、法則の変化に抗っているのか」
アランは、右腕の痛みを無視し、次の杭を打ち込むために、岩壁の小さな窪みを利用して休息を取った。彼の体は、限界を超えていたが、彼の探究心は、この極限の状況こそが、世界の法則を解明する最高の場だと理解していた。
その時、リサの叫び声が、冷たい風に乗って響いた。
「アラン! 上空よ! 翼を持つ魔獣が、風のトンネルの中心から降下してくる!」
アランは、空を見上げた。雷雲の隙間を縫って、漆黒の巨大な影が、驚異的な速度で急降下してくる。それは、巨大な翼膜を持ち、全身が鋭利な鱗で覆われた、翼を持つ魔獣**『スカイ・ハンター(天空の狩人)』**だった。
「チッ、奴らは俺たちの熱を感知したのではない。俺たちが登攀に利用している**『風のトンネルの法則』**そのものを、狩りの場として認識している!」
アランは、前世の航空力学の知識で解析した魔獣の飛行の法則を思い出した。奴らは、最も高速で移動できるトンネルの中心から急降下し、獲物を狩る際には、風の勢いが最も弱まるトンネルの縁に沿って急降下してくる。
アランたちがいる場所は、その「弱まる縁」だ。
「リサ! 今だ! ロープを固定しろ! そして、奴らが急降下してくる風の方向とは逆の、最も風が強いトンネルの中心目掛けて、ロープを強く振り子のように振るんだ!」
アランの指示は、一見、自殺行為に思えた。風のトンネルの中心は、風の勢いが最も強烈で、人間の身体は一瞬で岩壁から吹き飛ばされる。
しかし、アランの知恵は、魔獣の飛行の法則を逆に利用しようとしていた。魔獣は、獲物が風の弱い縁にいることを予測している。獲物が突如として、予測不能な風の最中心へと移動すれば、奴らの飛行法則が一時的に崩壊する。
リサは、アランの指示に恐怖で震えたが、迷いはなかった。彼女は、編み上げたロープに全身の体重を預け、アランの体を抱きしめるようにロープを握った。
「行くわ、アラン! あなたの法則を信じる!」
リサの体重と、アランの身体の反動が加わり、二人の体は、岩壁を離れ、風のトンネルの最中心目掛けて、振り子のように勢いよく振り出された。
ゴオオオオオ!
風の轟音が、二人の耳を聾する。凄まじい風圧が、二人の体を岩壁に叩きつけようとする。
その瞬間、スカイ・ハンターが、獲物がいるはずの「風の弱い縁」に突入した。しかし、獲物はいない。奴らは、予測不能な獲物の動きに戸惑い、飛行の法則が一時的に崩壊した。
風のトンネルの中心にいるアランの体は、強烈な風圧を浴びながらも、風の法則が彼らの体を岩壁に押し付けようとする浮力を、逆に安定の力に変えていた。
「成功だ、リサ! 風の法則は、奴らの予測を裏切った!」
アランは、リサを抱きかかえたまま、振り子の反動を利用し、岩壁のさらに上部の、翼を持つ魔獣の巣穴から最も離れた**『風の死角』**となる窪みへと着地した。
スカイ・ハンターは、獲物を逃したことに怒り、甲高い咆哮を上げながら、再び風のトンネルの中心へと戻っていったが、彼らが潜む窪みを見つけることはできなかった。
「ハア、ハア……助かったわ、アラン。あなたの知恵が、私たちの命を救った」
リサは、アランの熱い胸元に顔を埋め、安堵の息を吐いた。彼女の体は、極限の緊張から解放され、激しく震えていた。
しかし、安心は束の間だった。高度が上がり、周囲の気温は極寒に達している。酸素が薄くなり、アランの呼吸は荒い。彼の右腕の鈍い痛みは、激しい痛みに変わり、治癒したばかりの骨が、冷気によって再び悲鳴を上げ始めている。
「くそっ……この寒さ……極限の法則が、俺の身体の限界を試している」
アランは、リサを抱き寄せ、最後の手段に出る。彼の探検は、知識と知恵だけではない。生命の熱そのものが、最大の武器となる。
「リサ、この寒さで凍死する。服の隙間から熱を逃がすな。俺の体温を、全て君に分け与える。そして、君の体温を、俺の法則の熱に換えろ!」
二人は、極寒の岩壁の窪みで、互いの体温と生命の熱を分け合った。それは、生死の境を越える、最も原始的で、最も切実な探検だった。
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