小寒 あの人と過ごした日々は

 僕はあの人がいたところに向かった。ゆっくり歩く、あちこち痛いから。たぶん僕はそう長くは生きられない、怪我がもう治らなくなってるのがその証拠だ。

 僕も一応人ならざる者だから暑さや寒さに強くて怪我の治りも早かった。雪の中に埋もれていても死ななかった。真っ白な僕は雪が降った時こそ周囲に溶け込んで隠れられるから、よく雪の中に隠れていた。


 でも、今回は、無理だろうな。雪の中にいたら寒くて死んでしまうと思う。今もかなり寒い、足がうまく動かせない。

 

 いつも生き急いでいた。早く隠れないと、早く逃げないと、早く食べないと。早く、早く、早く。でもハク様に出会って空や木々を眺めて。ゆっくり景色を楽しむということを知った。

 昔の僕は明日できることは明日やろうって後回しにした。でも今は刹那の時がとても大切に思える。もし明日死んでしまうとしたら残りの時間僕は何をしようかな、って。

 

 季節は冬、色とりどりのものはない。少し寂しい景色だけど、何もないわけじゃないんだ。乾燥していても植物は生えているし、動物たちも少しだけ居る。皆冬を越すために準備をして冬ごもりをし始めている。さすがに今の時期熊はいないな、よかった。

 僕は真っ白だから、よく動物たちに見つかって攻撃されてきた。特にカラスは頭がよくて追い回されたっけ。鳥はいいな、飛べるから上から何でも見通せるな、なんて思ったり。猿とか栗鼠も木登りが得意だから高い場所にある木の実を食べることができる。


 僕は木登りができなくて、落ちて来る実を食べる事しかできなかった。ドングリは苦かったし、山の下の方にあったイチョウは銀杏をつけたけど臭くて近寄れなくて。

 いろいろな木の実の名前はハク様に教えてもらった。僕は赤くて丸いの、小さいの、としか見ていなかったけど。名前を知ると嬉しかった、なんだろうな。名前を呼ぶのが嬉しかったんだ。区別すること、それを「それ」と知る事はワクワクした。

 そうして浮かれていたのがわかったんだろうな、ある日言われたんだ。


「そういえば、君には名がないな」


 それはそうだ、僕は一人だし。必要なかった、誰も呼ばない。僕は「僕」だから。


「今までは必要なかったかもしれないが、今は私がいるから名がないと不便だな。そうだな、何か名をあげようか」


 名。僕に名前。嬉しくて嬉しくて、あの人の足元をチョロチョロ走り回ったっけ。あの頃は体が小さい時だった、人の足首の高さしかなかったから。

「見た時から思っていた。真っ白だからシロにちなむ名がいいな。セキコウ……いや、違うな。うん。単純だけどハクだな。なんだかセキとかコウよりも、ハクの方が似合っている気がする」


 僕の名前。僕だけの名前。ハク、ハクだって。かっこいい。


「こういう名前だ。人はね、文字を使う。音だけではなく書き残す事ができるんだ」


 地面に石でガリガリと書いたのは「白」だった。あの時は当然文字なんて知らない。だから不思議な形をした絵だなって思ったけど、簡単で覚えやすかった。僕でも足で引っかいて書けそうだったし。


 嬉しくて、そこらじゅうの地面に白と書いてまわった。どうせ雨が降れば消えるだろうし、文字が読める動物がいるわけでもない。村人はあそこには来なかったから見つかる心配もなかった。



 少し山道を歩いただけなのに息があがる。本当に冬で良かった、他の生き物がいたら体当たりされただけで死んじゃってたかもしれない。

 僕はウリ坊だけど、イノシシから追い回されるのが一番多かった。たぶん同じ形をしてるのに真っ白で気持ち悪かったんだろうな。足は、僕の方が早かったけど。


 何日もかけて歩いた。歩き慣れた道、山の麓までの獣道。草が多いから周囲から見づらいんだ。お味噌汁食べておいて良かった、ちょっとだけ体力がついたから。

 この道を歩くのも今日が最後だ。僕は最後の時を迎えるまであの場所を動かないつもりだから。そう思ったら歩いているこの道がなんだかとても大切な場所のように思えて、一歩一歩大事に歩きたくなる。


 もう少しだ。あと少しで、あの切り株と壊れかけた社がある場所。ハク様と初めて出会った場所だ。僕が木苺を食べ過ぎたところ。

 あの時は凄く久しぶりの食べ物だったから夢中だった。お腹ポンポンになって、日向ぼっこをして眠いからちょっと寝ちゃおうかな、と振り返ったらあの人がいてびっくりした。

 でも他の生き物みたいに攻撃してこなかったし、切株に座っていたから疲れちゃったのかと思って。何か食べれば元気になるかな、と木苺をあげた。

 何故か目を真ん丸にして、受け取ってくれて。そして笑って「ありがとう」って言ってくれた。笑いかけられたのも、お礼を言われたのも初めてだったからびっくりした。嬉しかった。


 山の麓に人ならざるものを討伐する一族がいる村があるのは知ってた。何度か見つかって追い回されたことがあったから。この人もそうなんだろうなと思ったけど、優しそうな人だったから。ひと口食べて、おいしいと笑ってくれた顔がとても穏やかだったから。

 そうやってあの人と会う事が増えた。忙しそうな人だったからそんなに頻繁に来たわけじゃない。それでも今日は来るかな、次はいつ会えるかな、それを楽しみにワクワクして過ごしていた。あの人からいろいろなことを教えてもらった。


 自然の事もそうだけど、文字とか雲の形とか、農作業も遠くから見て今あれは何をやっているんだとか。本当に他愛のない話だったけど僕にとっては全てとても面白くて大切なことだった。

 貴方からたくさんのことを教えてもらってたくさんのものをもらった。貴方はいつも僕にありがとうと言ってくれていた。でも本当にお礼を言いたかったのは僕の方だ。あの時は言葉が話せなかったから体を擦り寄せるぐらいしかできなかったけど。僕の胸中は伝わっていたからきっとあの人もわかってくれていた。


 一つ何かを得ると、もっと他のものが欲しくなる。言葉をかわさなかった僕は別にそれはそれでいいと思っていたはずなのに、こうして言葉が話せるようになると貴方と言葉で会話をしたかったなと思ってしまう。

 それはもうかなわないから、それならせめて貴方の名前を呼ぼう。


「ハク様」

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