立夏

 動くと汗ばむ。暑い、と言っていいくらいになってきた。冬から春になった時は暖かいと言う者もいれば暑いという者もいたが、今は誰もが暑いという。そんな時期になった。畑の土起こしも終わり苗を植える準備が整った。もう少ししたら田植えの為の種まきが始まる。芒種もあっという間に来る。

 子供のころは畑仕事を手伝ったものだ。人手が足りなかったのもあるが、土に触れろというのは婆様の教えだった。


「これから土に触れることなんてなくなる。今のうちに触っておけよ」


 皺皺の顔をほころばせ、土まみれになって苗を植え終わった頃に手ぬぐいと冷たい水をくれた。

 あの時飲んだ水は、今思い返しても一番「美味い」と思った。どれだけお座敷に出されるような上等な膳だろうが、滅多に手に入らない酒だろうが、あの水に勝る物はない。




「水は水だ」


 私は静かに語り掛ける。あの子はきょとん、としていた。たぶん、そんなに美味い水がこの世にあるのかと勘違いをしている。そうじゃない。


「味は同じ、井戸から汲んだ水には違いない。美味いと感じたのは、懸命に働いた後に飲んだからだ。婆様の優しさと、自分が仕事をやりきった後の達成感と、喉が渇いている時に一番欲しかったものを飲めたことの喜び。様々な事を頂いたから美味かったんだ」


 あの子の頭を撫でる。相変わらずきょとん、としているがじっと私を見つめたあとに空を見た。自分なりにかみ砕いて考えているのだろう。この子は頭がいい。ちゃんと話を聞いて、自分の頭で考える。

 ずっと一人だったのだ。誰かに頼ることも、教えを乞う事もできなかった。一人で考えざるを得なかった。周囲から蔑まれ、恐れられ、強制的に一人にならざるを得なかった子。

 それなのに、この子はとても優しい。誰かを傷つけたり奪ったり、そういう考えを持っていない。なんて眩しいんだろう、まるでお天道様だ。出会えたことに感謝をしたい。君がいてくれたから、私は救われた。


「婆様が死んだら、すぐに私の生活は正された。もともと畑仕事や水汲み、そういった下々がやることを私がやるのは婆様以外全員快く思っていなかったんだ。もっと他にやるべきことがある、勉学と剣術と兵法、長としての心構えと人心掌握のすべ。それこそ最優先でやるべきなのに土いじりなど……そう思っていたが、みな婆様に逆らえなかったからね」


 婆様が死んで。鬱陶しいのがやっと死んだ、と喜ぶ者達のなんと醜い事か。実の息子である父でさえ目の上のコブが消えたと言わんばかりだった。今日中に孫氏を読み終えろ、と。白い布をかぶせられた婆様を前に本を渡されたくらいだ。

 婆様の言った通りだった。私はそれ以来田植えも畑も水汲みも、何もやらせてもらえていない。


「今日は立夏だ」


 不思議そうに私を見る。初めて聞く言葉に興味津々と言った様子だ。


「二十四節季と言ってね。季節を区分する一つの物差しだ。今は春、というより夏に近づいてきているだろう? 立夏を迎えるとあっという間に暑くなる。もう、夏がすぐそこだ」


 そう言うとあの子はきょろきょろとあたりを見渡す。すぐそこ、と言ったので夏を探しているようだ。その様子に私は驚き、小さく笑う。心が温かい。

 ああそうだね、もしここに他の者がいたら「馬鹿か」と言って嘲笑うか見下していただろう。だが、その純真さこそが大切なもの。心とは、そうであってほしいのだ。


「草が茂り、蝶が舞い、日が伸びて夜がどんどん遠ざかる。夏はたしかに目に見えるものだ。気づかせてくれてありがとう」


 ふと、気配を感じる。村の者が呼びに来たのだろう。


「里の者だ。山におかえり」


 タタ、っと駆け出した。その姿を見送り、そちらを見つめてしまわないよう空を見た。雲が大きくこちらに近い。秋や冬はあんなに遠いのに、山に行けば掴めるんじゃないかと思ってしまう。そう口にしたら、あの子は掴みに行こうと私を引っ張ってくれるだろう。目を輝かせながら。


「こちらでしたか。もしやここに何かおりますか。奴らが攻めて来る気配でも?」

「まさか。少し静かな場所にいたかっただけだ」

「左様で。そろそろお戻りください、皆心配しております」

「ああ」


私の心配じゃなく、己の身の心配をね。

そんな風に考えて苦笑する。いかんな、最近特に後ろ向きだ。

私は後いくつ、季節を君と過ごせるだろう。


夏がもうすぐそこだ。


戦も、もうすぐそこに。




立夏

夏の気配が感じられる

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