第2話 ぼくがぼくであること
随分と長く眠っていた気がする。目を開けた瞬間、天井から発せられる光に貫かれた。思わず顔を顰めると、男の声が聴こえた。
「目を覚ましたようだね、おはよう」
見ると、枕元に五十代くらいの男が立っていた。白衣と胸の名表から、医者なのだとわかる。部屋は病室だな。そして僕は病人だ。白いベッドの上に横になっていて、腕からは大量のチューブが伸び、透明な液体を血管に流し込んでいる。鼻には、酸素を吸入するためのチューブ。
「自分の名前は、言えるかな」
医者に聞かれて、僕は少し考えた。決して忘れていたわけではなく、当たり前の話過ぎて、何かひっかけ問題でもあるのではないかと。
「僕の名前は……です」
自分の名を告げたのだが、医者は正解とも不正解とも言わず、頷き、また聞いた。
「好きな食べ物は何かな」
頭の中に、カレーライスとエビフライが思い浮かぶ。どちらも大好きだが。
「強いて言うなら、カレーライス」
「そうか、じゃあ、自分がどうして病院のベッドの上にいるのか、わかるかい」
僕は顎に手をやり記憶を辿った。昨日は確か、妻と一緒に買い物に出かけて、それから何をしたんだっけ。
瞬間、まっさらな紙のような僕の脳みそに、一筋の線が走ったような気がした。僕は「ああ」と洩らすと、天井を仰ぐ。
「そう言えば、トラックに轢かれた気がする」
ある交差点を横断しようとしたとき、猛スピードで突っ込んで来たトラックに。躱すことなんてできなくて、僕は吹き飛ばされ、水切り石のような地面を跳ねた。そして、僕の肉体は、紅葉おろしの如く。
瞬間、医者が初めて歓声をあげた。
「すばらしい。実験は成功だね。ちゃんと、記憶の継承は成功しているようだ」
継承。どういうことだ。
「君は一度死んだんだ」
まるで朝食のメニューを告げるように、先生はそう告げた。
「六年前。君は交差点で、トラックに撥ねられ、死亡した。即死だったよ。ミンチだ」
背筋が冷たくなるのと同時に、趣味の悪い冗談だと思った。原型を留めない程の事故だなんて、じゃあどうして生きているのか。
視線を下げると、薄い布団を被った僕の肉体が見えた。損傷している様子はない。腹に力を込めれば筋肉が収縮し、上体を起こせる。腕も問題なく動き、己の左胸に触れて、肋骨に守られた心臓が脈動するのを感じることができた。そうだ、僕は生きていた。
「クローンだよ」
僕の心を読んだように、先生は言った。
「分析した遺伝情報をもとに、クローンを作製したんだ。記憶に関しては、脳から情報を抽出し、新しい君の脳に書き込んだ」
先生は興奮しているようだった。湧き上がる震えを抑え込むように拳を握り、目を子どものように輝かせ、早口でそう言った。
「正直成功すると思わなかった。世界初だ。姿形が同じクローンの作製には何度も成功していたが、記憶まで再現できるなんて。人類の新たな段階に踏み出したんだ。もう死を恐れることはない。疑似的ではあるが、不老不死を手にしたと言ってもいい。不治の病だって、クローンを作ってしまえば解決するんだ!」
僕のことなんて忘れたように語った先生は、白衣の裾を翻し、リノリウムの床をつかつかと歩き、出口へ向かった。
「論文だ。執筆せねば。忙しくなるぞ」
直前で、我に返ったように固まった。振り返ったその顔は申し訳なさそうに笑っていた。
「いやすまない。興奮していた。まずは、君の最愛の人と再会すべきかな」
「最愛の人」
思い出す。
「ああ、妻のことですか」
僕には、一つ上の妻がいた。出会ったのは高校一年の時で、歴史研究部の先輩と後輩という関係。一緒に活動するうちに仲良くなって、大学は同じところに進学した。就職した後も、時間を見つけては会うようにし、デートを繰り返し、そして二十五歳の時に、僕からプロポーズした。そうか、僕は妻を残して死んだことになるのか。
「悲劇だよ。君は二十六の時に死んだ。最愛の人と、これから幸せを積み重ねていくはずだったのにな」
先生の声は、何処かわざとらしかった。
「君の奥さんはね、君が死んだ後、酷く精神を病んだんだ。毎日部屋に引き籠り、たまに外出したと思えば、君の墓の前で泣く。当然食事も喉を通らず、みるみる痩せていったよ」
「そう、ですか」
僕は弱り切った妻の姿を想像した。目の下には隈が浮き、ただでさえ痩せていた身体が、骸のように骨が張っていた。
胸がチクリと痛み、唾を飲み込む。
「でも安心しなさい。言った通り、君のクローンを作製し、記憶と意識を、脳に移植した。君は生き返ったんだよ」
「そうですか」
生き返った。という言い方に疑問を抱く。壊れた車を前にして、全く同じボディ、全く同じタイヤ、全く同じエンジンを搭載した車を作り、エンジンを注いだとして、果たして修理したと言えるのだろうか。
指摘はできなかった。一世一代の成功を収めたかのような先生の顔を見て、言葉を静かに飲み込んだ。代わりに問う。
「このことを、妻は、知っているのですか」
「いや、伝えていない」
先生は首を横に振った。
「どうして」
僕をクローンとして復活させるのだ。どうしてそんな大事なことを、彼女に言わなかったのか。恨みの籠った視線を先生に向ける。先生は首だけで振り返ると、「彼女の両親の提案でね」と言った。
「サプライズってやつだよ。死んだはずの夫が生き返って現れたら、それは奇跡だろう」
「奇跡、ですか」
「記憶の移植が成功する保証はなかったからね、ぬか喜びはさせたくなかった。だから、君のことは秘密にしていたんだ」
先生はそこまで言うと、にこやかに、僕の肩を叩いた。
「じゃあ、早速、君の奥さんを呼ぼう。感動の再会をするんだよ」
感覚では、二日ぶりって感じ。でも実際は六年ぶり。妻との再会は、サプライズという形で行われた。
病室で待っていると、廊下の方から三人分の足音が近づいてくるのがわかった。そして、三人分の話し声。
「父さん、母さん、私に会わせたい人って、誰なの」「すぐにわかるさ」「会えばきっとびっくりするはずよ」
病室の扉が開いた。入ってきたのは、義父母と、そして、妻だ。髪は伸びて一層大人び、目の下の隈は化粧じゃ隠し切れない程に濃い。ふっくらとしていた頬は削げて、華奢というには少々角の目立つ身体になってしまった妻が、そこにいた。
六年も経ったのだ。そして、僕の死。彼女の変化は当たり前のことだというのに、まるで別人にあったかのような、奇妙な感覚が僕の胸を貫く。
「サプラーイズ!」
義父が叫んだ。
僕は電気を流された人形のように、ベッドから立ち上がると、妻へと三歩歩み寄った。そして、無理やり笑みを作る。
「久しぶりだね」
妻は悲鳴一つ上げない。いや、衝撃の余り言葉すら出ないようだ。彼女は、目を見開き、固まっていた。段々と震え始め、ひっくひっくとしゃくり声を上げる。涙が滲み出し、その酷く爛れた頬を伝った。
妻の隣で、義父母が涙を堪えていた。
先生はご満悦。激しく頷くと、手を叩いた。乾いた拍手と共に舞い降りたのは、先生が言った通りの奇跡ってやつだった。
「ふざけるな!」
妻が叫んだ。瞬間、彼女はぎこちない足取りで間を詰めると、僕の胸を突き飛ばした。不意だったため踏みとどまれない。僕は情けない悲鳴をあげて床に腰を叩きつけていた。
顔を顰めながら見る。妻は額に汗を滲ませ、過呼吸を起こしているようだった。
「やってくれたね。父さん、母さん。これはクローンでしょう!」
夫を突き飛ばす娘を目の当たりにして、義父母は、口を大きく開けて固まっていた。そして、アスファルトに水が染みこむが如く、妻の言葉を理解し、言葉を紡いだ。
「そうだよ、事故死した彼のクローンだ」
「あの人じゃない! なんでこんなことしたんだ! あの人は死んだのに!」
「死んでないよ、生き返ったんだよ」
「違う! あの人じゃない!」
半狂乱。妻は僕へ飛び掛かると、腕を滅茶苦茶に振るった。僕の髪を掴んで引き千切り、僕の頬をガリリと掻いた。義父母に止められたら、今度は頭突き。パンツが見えるのなんてお構いなしで足を振り上げ、僕の顎を蹴り上げたのだ。
「消えろ! バケモノ! あの人の顔を奪った! 死ね! 二度と出てくるなあっ!」
脳が揺れた。堪えることができず、その場に倒れ込む。朦朧とする意識の中、僕は、引きずられて病室の外へ出て行く妻の姿を、ため息交じりに見ていたのだった。
「うちの娘が君に失礼なことをしたね」
妻が帰った後、病室に残った義父は、そう平謝りをした。
「君を拒絶するだなんて。あんな子じゃなかった。きっと、君が死んでいる六年の間に、心が荒んでしまったんだ」
そう、なのだろうか。
「きっと、君が生き返って混乱しているんだ」
義父は自分を言い聞かせるように、無理に笑って見せると、僕の肩を優しく叩いた。
「時間を掛ければ、仲直りできるはずだよ」
だが、それから退院までの一か月、妻が病室を訪れることはなかった。義父母が説得を試みたようだが、門前払い。僕との縁を切ると宣言するのはもちろん、義父母にさえ絶縁を叩きつけたようだった。それは流石に不味い。その日義父母は僕の病室に駆け込んできて、床に額を擦りつけて謝った。
「申し訳ない。娘のことは諦めてくれ。娘に縁を切られるだなんて、こんな恥ずかしいことがあってたまるか。君には悪いが、離婚を」
僕はベッドに腰を掛けたまま、義母の白髪と、義父の禿げ頭を交互に見ていた。
クーラーで喉が乾燥している。
「僕が生き返ったのって、妻を喜ばせたかったからですよね」
「ああ、そうだ」
そう頷く義父の声は、何処か苦々しかった。
「でも妻は僕を拒絶した」
「そうだね」
僕は顔を上げ、義父母の顔を交互に見た。
「僕は一体、何のために生まれたんだ」
二人がその後、答えたのかどうかわからない。まるで、本の数ページを千切り去ったかのように、記憶は途切れ、僕は退院の日を迎えていた。
「バケモノ!」
荷物を抱えて病室を出た瞬間、そう聴こえた。爆竹の如き白い閃光が僕の身体を貫いた。一瞬目を閉じた。再び開いた時、僕はカメラを構えた記者らに囲まれていて、彼らはまるで罪人を責め立てるような鋭い目つきで、僕のことを見ていた。
僕の一挙一動足に彼らは反応し、カメラのシャッターを切った。光の雨を潜り抜けて進んでいると、誰かが言った。
「命を弄んでいる」
その言葉に立ち止まる。彼らは獲物を捕らえた狩人のように、僕に言葉を投げつけた。
「その男は人間ではない」「人間のクローンだなんて間違っている」「生前の男の皮を被ったバケモノだ」
瞬間、僕は走り出し、義父母が用意してくれたアパートへと逃げ帰った。
それからの日々は、本当に気分の悪いものだった。毎日のように、記者らが僕の部屋を訪れて、扉を叩いてくるのだ。「死んだ人間の顔を奪って、どんな気持ちですか」と。記者だけじゃない。人権団体というやつらも抗議にやって来た。アパートの前に列を作って、メガホン構えて叫ぶのだ。「元の人間に、顔を返してやれ!」と。
「うるさいなあ」
僕は布団を頭からかぶって、そう絞り出す。
「僕は僕なのに」
三か月後。僕の籠城作戦に、記者らは痺れを切らし、標的を変えたようだ。テレビを点けると、記者に囲まれた先生が映っていた。憔悴した彼は、禿げ頭を垂れて謝罪した。
「人間のクローンなんて、作るべきではありませんでした」
次の瞬間、テレビの画面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。バチッ! と火花が弾けて、画面が真っ黒になる。僕がリモコンを投げつけたからであった。
真っ黒になった画面に、僕の能面のような顔が写っていた。
※
それから僕は、誰とも会わずに過ごした。
一週間後。外が騒がしかった。またマスコミか。気にしないようにしたのだが、その時、ガンッ! と、窓ガラスが揺れた。
何だ。鳥でもぶつかったのだろうか。
椅子から立ち上がり、窓ガラスに近づいた。カーテンを開けようとした次の瞬間、ガラスが粉々に砕け、煌めく破片と共に、僕の足元に大きな石が転がって来た。
風が吹き込んで、カーテンが揺れる。
足が切れるのなんて構わない。ベランダに出て見下ろすと、アパートの前には若い奴らが集まっていて、彼らは僕を見ると、まるで芸能人でも見たかのように、歓声を上げた。
「幽霊だ。本当に幽霊と同じ顔をしている」
幽霊と同じ顔。
「幽霊?」
それはどういうことか。その日の夜、僕が死んだ場所に向かったことで何となくわかった。
僕が死んだのは、信号機の無い交差点。街灯はあるにはあるが、電池が切れかかったように弱弱しいくすんだ光だった。そのため、辺りには、墨を薄めたような闇が溜まっていて、踏み込めば温い空気が足を舐めた。
端にあった電柱。その根元に、六年経った今でもお供え物があった。とはいえ、花は枯れ果て、ボトルの中のお茶は濁っている。菓子を烏が貪り、唯一無事だったのは、桃の缶詰だった。
僕はしゃがみ込み、人肌のような缶詰を掴んだ。首だけで振り返り、僕が死んだ場所に視線をやる。何もいなかったけれど、何かいるような気がした。
もし、幽霊というものが実在するとする。もし、あの世があったとする。そりゃそうかという話である。事故死だなんて、納得いく死に方だろうか。
「あの世に行けていないんだろうな」
路肩に腰を下ろした僕は、開けた缶詰を摘まみながら、そう洩らした。
「僕が成仏できていない」
黒い空を仰ぎ、鼻で笑う。
「じゃあ一体、僕は何者なんだろう」
もう答えを出す意味は、無かった。
翌日。
お別れがしたい。そう連絡を入れ、ある雑居ビルに向かった。屋上は切りつけるような風が吹いていて、僕は身震いしながら、落下防止フェンスを乗り越える。
パラペットに腰を掛けて待っていると、一時間ほど遅れて、妻はやってきた。危険な場所に腰を据える僕を見るなり、「あっ」と洩らす。直ぐに、敵を見るような目をし、つかつかと歩いてきた。
「おいバケモノ。何の用」
相変わらず冷たい声。僕はふっと笑った。視線を戻し、空へ投げ出した足を揺する。サンダルを放り出せば、それは三十メートル先のアスファルトへと引っ張られ、激突した。
寒々しいものを覚えながら、僕は言った。
「ここから飛び降りたら、僕は人間にもどれるだろうか」
妻の声が「はあ?」と裏返る。僕は続けた。
「彼は、ちゃんと死ねるだろうか」
落下防止のフェンス越しに、妻が背後に立つのがわかった。乾いた声が「何を言っているの?」と問う。だから僕は、もう片方のサンダルを地面に落とし、言葉を紡いだ。
「六年前に彼は死んだ。彼は墓の下。僕は複製。彼じゃない」
とんとんと胸を叩く。
「心が、無いんだろうなあ」
人間とは死ぬものだ。死ぬから人間なのだ。生き返っては人間ではない。同じ顔の人間であってはいけない。僕は人間ではない。バケモノは生きてはいけない。
「死んで」
ぐるぐると巡る中、妻はそう言った。
「あの人は死んだ。私はあの人の死を受け入れた。悲しみを乗り越えた。あなたはもう必要ない。だから、死んで」
畳みかけるような言葉に、僕は安堵していた。「うん、今死ぬよ」と妻に微笑みかけ、視線を真下にやる。ビルの駐車場が見えた。あれはクラウンだろうか、この距離だとミニチュアのような安っぽさがある。
弁償は出来ない。なるべくあれから離れた場所に激突しようと、少し位置を調整した。準備はできた。心も。さあ、飛び降りよう。
僕は唾を飲み込むと、腰を三センチ浮かす。
その時だった。風が吹いた。この真夏らしからぬ、冷気を孕んだ風で、そいつが焼けた頬を撫でた時、死へと乗り出した身体が、キンと固まった。覚悟というやつは、風に攫われたようだ。僕の心臓が逸るのがわかった。
参ったなあと、頭を掻く。あと十秒したら、飛び降りてやる。それがダメならあと二十秒。今は心臓の音がうるさいから、四十秒後に。
座っているからダメなのだと、立ち上がる。でもダメだ。僕の素足は、焼け付いたかのよう動かなかった。
どのくらい経っただろうか。
脚の力が抜けた。僕はガクリと膝を折り、倒れる。ただし、フェンスの方へ。尻もちを突いた時、痺れるような痛みが背中を駆け巡った。僕はため息をつきながら、膝に顔を埋めた。足が震えている。もう立てない。
「死なないの?」
顔を上げると、妻が横に座り込んで、僕の顔を覗き込んでいた。その目は、まるで地面に落ちた雛を眺めているようだった。
「やめた」
僕はそう洩らすと、お尻を引き摺って後退った。それだけじゃない。フェンスを掴み、身体を支える。
「ここで死ねば、僕は人間に戻れるけど、きっと、君が人間ではなくなる」
ため息交じりに笑った。
「君を、人殺しにしたくはない」
それは、咄嗟についた嘘だった。でも、本心だった。ここで僕が飛び降りたとして、それを止めなかった彼女は、人間でいられるだろうかと。
鼻で笑うのが聴こえた。
「バケモノのくせに、偉そうに」
僕を見る妻の目には、光が無かった。まるでブリキのような。
それから妻は、大げさにため息をつき、子どもがペンキをぶちまけたかのような空を仰いだ。それから、首をかくりと折り、真下のアスファルトを見下ろす。
「あの人の居ない世界で、私が生きていけると思う?」
その時だった。妻は「よいしょ」と言って、お尻をずらした。何をするのかと思いきや、次の瞬間、その枯れ枝のように細くなった身体を、空へと放り出していた。
あっと思う。
重力が妻に噛みつく。彼女の髪が烏の翼のように広がり、彼女の身体は地面へと真っ逆さま。アスファルトに叩きつけられた彼女は、裂けた皮膚から内臓やら血液やらが飛び散らせ絶命……とはならなかった。
「何やっているんだよ」
間一髪のところで、僕が伸ばした手が、彼女の腕を掴み、繋ぎ止めていたからだ。
妻は僕の手を握り返さない。窓際の風鈴のように揺られていた。その目の奥には、囲炉裏で燻る火のような怒りがあった。
「どうするつもり」
「死ぬな」
僕は唾とともに吐き出した。
「君には死んでほしくない」
火事場の馬鹿力ってやつ。僕は雄叫びをあげると共に妻を引き上げた。金網の方まで後退り、彼女がもう二度と馬鹿な真似をしないよう、強く抱きしめる。
「何やっているんだよ、何やっているんだ」
妻の身体は何度も抱いてきた。記憶の中の彼女は華奢だけど柔らかい身体だった。はずなのに、胸の中の彼女は、骨と皮だけで硬かった。
彼の死を乗り越えただって。嘘つきだ。
「安心したよ」
僕の肺に、妻の声が響いた。
「あなたは、あの人ではないけれど」
「うん」
「あなたは、ちゃんと人間なんだね」
その言葉に、僕の血管を熱い血液が滑った。僕はさらに強く妻を抱きしめ、己の骨と、彼女の骨をがっちりと噛み合わせた。
心臓が動いている、体温がある。泣いている。骨がある。肉も、皮も。内臓も。僕らは生きていた。
僕の腕の中で妻は首を横に振った。
「バケモノって言ってごめんね」
昔、妻が愛用していたマグカップを落として割ったことがある。僕は必死に謝って、柄の似ているものを買った。彼女は「ありがとう」と受け取ってくれたが、その後、彼女がそれを使っているところを見たことが無い。後から知った話だ。それは、彼女が死んだ祖母に買ってもらったものだったのだと。
「ごめんね、生まれてきて」
その日、僕は妻と離婚した。
一週間後、僕が引っ越しをすると聞いて、妻は見送りに来てくれた。
「これから、どうするの?」
「わからない」
僕は彼女に背を向け、リュックの荷物を確認しながら、そう言った。
「とりあえず、この町を出るよ。もっと生きやすい場所を探しに行く」
「気を付けてね」
建前だろうが構わない。僕は妻の激励に頷くと、リュックを背負った。ちょっと重くて、よろめいてしまう。
「いろいろな人と関わるよ。きっと、バケモノとして扱われるんだろうけど、頑張る。そしていつか、僕が僕であることをわかってもらうんだ」
空になった部屋に別れを告げ、僕は外に出た。空は青かった。入道雲が背を伸ばし、強烈な陽光が、輪郭をなぞっていた。何処かでセミが鳴いている。吹く風が水気を孕んでいる。僕も、彼も、きっと美しいと思える夏の昼だった。
「そう言えばさ」
歩いていこうとした時、妻の声が呼び止めた。振り返ると、彼女は腕を背中に回し、地面を見つめていた。顔を上げた彼女の目は、水面のような輝きを放っていた。
「あなたの好きな食べ物って、なんだった?」
そう問われて、僕の頭の中に、カレーライスとエビフライが浮かぶ。唇に手をやった僕は「強いて言うなら」と絞り出した。
「エビフライ、かなあ」
「そう」
彼女は、何処か嬉しそうな顔をしていた。
了
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