第1話 再会
名古屋市内の高級クラブ。シャンデリアの光が琥珀色のウイスキーに反射する。オフシーズンを迎えた俺は、タニマチに囲まれてグラスを傾けていた。
厚い絨毯が足音を吸収し、店内には低い音楽が流れている。ソファは深く柔らかく、体が沈み込む。壁には有名画家の絵画が飾られ、カウンターにはずらりと高級酒が並んでいる。1本数万円、いや、中には10万円を超える銘柄もあるだろう。
この店に来るようになって、もう2年が経つ。最初は緊張していた。場違いな気がした。だが、今では慣れたものだ。むしろ、ここにいることが当然のように感じられる。
「三井君、来年こそレギュラーだよな?」
隣に座る初老の男が、上機嫌で俺の肩を叩く。建設会社を経営する堀江という男だ。60代半ば、白髪交じりの髪を丁寧に整え、仕立ての良いスーツを着ている。俺のタニマチの一人だ。
「ああ、もちろんですよ」
口では言うものの、心は空虚だった。自分でも分かる。この言葉に重みがないことを。
堀江は満足そうに頷き、高級シガーに火をつけた。紫煙が立ち上り、天井へと消えていく。
「そうこなくっちゃな。三井君にはドラフト1位の看板があるんだ。もっと自信を持たないと」
「ありがとうございます」
自動的に返事をする。こういう場面での受け答えは、もう体に染み付いていた。
今年でプロ4年目。球団側からすれば、そろそろドラフト1位選手としてレギュラーの座をつかんでほしいと思っているだろう。だが、今年の成績は26打席で6安打。打率.230。期待されているホームランは0本。数字は、俺の現実を容赦なく突きつけてくる。
2軍での成績は悪くない。むしろ、そこそこ打てている。だが、1軍の壁は厚い。昇格しても、代打での出場がほとんど。先発出場の機会は、ほとんど与えられなかった。
名古屋アウルズは今年のドラフトで、大卒即戦力のキャッチャー・三瀬を獲得した。それだけ俺に対する評価が下がっていることの表れだろう。まだクビを心配する年齢ではないが、このままの調子であれば、あと3年もすれば戦力外通告を受けるかもしれない。
だが、そんな中でも焦燥感はなかった。
いや、正確には「感じないようにしていた」のかもしれない。
焦っても仕方ない。根拠を問われれば返答には困るが、本気を出せば、いつでも一軍で活躍できる。そう自分に言い聞かせていた。
「三井君、もう一杯どうだ?」
堀江がボトルを掲げる。
「ああ、いただきます」
グラスに琥珀色の液体が注がれる。氷が溶けて、薄まったウイスキー。だが、それでも十分に強い。
一口飲むと、喉が焼けるような感覚。そして、じわりと体が温まる。
この感覚が、好きだった。酔いが回ると、嫌なことを忘れられる。成績のこと、将来のこと、不安なこと。全てが、どうでもよくなる。
プロ1年目。初めて1軍の打席に立った時のことが、今も脳裏に焼きついている。
1軍初対戦の相手は、当時球界の若き大エースとして君臨し、現在は海を渡ってアメリカの地で活躍する堂前だった。
160kmに迫る剛速球。打者の手元で大きく落ちる縦のスライダー。四隅を正確に突いてくる抜群のコントロール。弱冠24歳にして、先発投手が獲得できるタイトルをすべて手にした天才。
当時、消化試合に突入していたアウルズは、将来への投資という意味合いで俺を1軍に上げたのだろう。消化試合でも見に来てくれるファンへのサービスのために。経験を積ませるために。そして、プロの厳しさを教えるために。
バスで球場に到着した時、俺は緊張で手が震えていた。1軍の雰囲気は、2軍とは全く違う。選手たちの纏う空気、報道陣の数、スタッフの動き。全てが、格上だった。
ロッカールームで、先輩たちが声をかけてくれた。
「三井、初1軍だな。緊張するな」
「堂前は化け物だが、思い切って行け」
「お前の持ち味を出せば、何とかなる」
その言葉に励まされながら、俺はユニフォームに袖を通した。1軍のユニフォーム。それは、夢にまで見た景色だった。
「7番、キャッチャー、三井」
場内アナウンスが響くと、将来を期待するファンから大歓声が飛んだ。その声援が、今でも耳の奥に残っている。
スタンドを埋め尽くす観客。何万人もの視線が、一斉に俺に注がれる。その重圧は、甲子園とは比べ物にならなかった。
そして、第1打席。
ベンチから「フリー」のサインが出た。監督からのメッセージは明確だった。まずは一球見て、1軍のレベルを体感しろ、と。
バッターボックスに立つと、マウンドの堂前が睨みつけてきた。187cmの長身。そこから投げ込まれるボールは、まるで上から降ってくるように見える。
初球。腕が振り出される。ボールが、弾丸のように迫ってくる。
ストライクと審判の声が響く。
速い。それが、最初の感想だった。二軍では見たことのない速さ。ボールが、まるで消えたかのように見えた。
速度表示を見ると、155km。
二軍で対戦していた投手の最速が、140km台前半。その差、十数キロ。だが、体感速度は倍以上に感じられた。
その、初めて見る本物の剛速球に度肝を抜かれた。だが同時に、どこか心の奥底で「打てる」という感情が芽生えた。根拠のない、しかし確かな予感。
甲子園でも、俺は打ってきた。どんな投手からも、ヒットを打ってきた。プロでも、同じことができるはずだ。
そして、忘れもしない2球目。
堂前が、またワインドアップから腕を振り抜く。
ボールが来る。今度は、少し軌道が見えた。真ん中高め。ストレート。
体が、勝手に反応した。バットが、ボールを追う。
乾いた打球音が、球場に響き渡った。
真芯に、寸分違わず捉えた。アッパースイングで振りぬいたバットから、完璧な手応えが伝わってくる。
白球は、美しい放物線を描きながらレフトスタンドに吸い込まれていった。
打った瞬間、分かった。入った、と。
審判がホームランを宣告する指を回すと、球場の熱気は最高潮に達した。スタンドが揺れるほどの歓声。その興奮の渦の中を、俺はゆっくりとダイヤモンドを回った。
一塁を回る。二塁を回る。三塁を回る。そして、ホームベースを踏む。
ベンチではベンチでは、先輩たちが総立ちで迎えてくれた。
「やったな、三井!」
「初打席初ホームランだ!」
「すげえよ、お前!」
ハイタッチの嵐。肩を叩かれる。抱きしめられる。
その歓声を聞きながら思ったのだ。
甲子園と同じだ。プロ野球でも、俺は活躍できる。ドラフト会議で指名されたときと同じ感情が、全身を駆け巡った。
このプロ初ホームラン。
あの感触が忘れられなかった。忘れられるはずがなかった。バットに吸い付くような、完璧なミート。体の芯から力が伝わっていく感覚。そして、それを証明するかのように高く舞い上がる打球。
完璧だった。
あれが、俺の実力なのだと。
それからというもの、あのホームランの感触を再び味わうため、ホームラン狙いの強振ばかり重ねた。コーチの助言も耳に入らない。結果は伴わず、三振の山だけが築かれていった。
「三井、もっとコンパクトに振れ」
「ホームラン狙いすぎだ。まずはヒットを打て」
「お前の良さは、そういうスイングじゃない」
コーチたちの言葉は、全て聞き流した。
分かってない。俺の実力を、分かってない。あのホームランこそが、俺の真の実力なんだ。
2軍と1軍を行き来する日々が始まった。
コーチの言葉も、もう耳に入らなかった。あの感触をもう一度。その思いだけでいっぱいだった。そして、本気を出せば1軍なんて余裕だという傲慢な気持ちも、いつの間にか心に巣食っていた。
そんな俺をさらに傲慢にする転機は、プロ2年目の7月に訪れた。
20歳の誕生日を迎えたとき、「酒が飲めるようになったから」という理由で、世話になっていた先輩が複数の大人を紹介してくれた。金銭や食事などで支援してくれる個人スポンサー。俗にいうタニマチだった。
最初に連れて行かれたのは、今と同じ高級クラブだった。
店に入った瞬間、別世界に迷い込んだような感覚に襲われた。豪華な内装、高級な酒、美しい女性たち。そして、俺を特別な存在として扱ってくれる大人たち。
「これが、三井君か。噂は聞いてるよ。ドラフト1位、安濃津旋風を巻き起こした男か。将来が楽しみだな」
「三井君の活躍、いつも見てるよ。期待してるから、頑張ってくれ」
その言葉が、嬉しかった。
球団では、厳しいことばかり言われる。結果を出せ、もっと練習しろ、お前はまだまだだ。
だが、ここでは違う。俺を認めてくれる。期待してくれる。特別扱いしてくれる。
甲子園での栄光。ドラフト1位という看板。それらが重荷となり、まだ2年目で真面目だった俺を、じわじわと押し潰していた。
練習しても、結果が出ない。一軍に上がっても、打てない。期待に応えられない自分が、情けなかった。
だが、タニマチとの集まりではどうだろうか。
甲子園での栄光を語れば、ニンマリとした笑みを浮かべて俺をほめたたえる。こちらが少し相手を持ち上げれば、金銭やブランド品、果ては女性まで斡旋してくれた。
「三井君、これ、受け取ってくれ」
堀江が、封筒を差し出してきたことがある。中身は、明らかに現金だった。
「いや、これは...」
「遠慮するな。君を応援してるんだ。これで、美味いもんでも食って、体作りに使ってくれ」
断る理由が、見つからなかった。いや、断りたくなかった。
その金で、高級な焼肉を食べた。ブランド品を買った。女性とデートをした。
そして、その全てが当然のことのように思えてきた。
俺はドラフト1位だ。甲子園準優勝の4番だ。特別な存在なんだ。こういう扱いを受けて当然なんだ。
1年目にあの大投手から放った値千金のホームラン。その記憶と、自分を良い気にさせてくれるタニマチ。この2つで、俺は十分に堕落した。
練習は適当に流す。夜は毎晩のように飲み歩く。
それがいつの間にか、俺の中で当たり前になっていた。
2軍での成績は、そこそこ維持できていた。だから、問題ない。いつでも1軍で活躍できる。
グラスの氷が溶けて、カラカラと音を立てる。タニマチの笑い声が遠くに聞こえる。
俺は再び、琥珀色の液体を口に運んだ。
頭の奥が脈打つように痛む。二日酔いの重たいまどろみの中から、俺はようやく意識を浮上させた。
口の中は渇き、舌が張り付いているような感覚。吐き気が込み上げてくるが、何とか堪える。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、散らかった部屋を容赦なく照らし出している。名古屋の一等地、栄。このマンションにどうやって帰ってきたのか、昨夜の記憶は途切れ途切れだ。タクシーだったか、それとも誰かに送ってもらったのか。
床には、脱ぎ捨てた服が散乱している。テーブルの上には、空になったビールの缶とコンビニ弁当の空き容器。洗面台を見ると、歯も磨かずに寝たらしい。
最近、こんなことばかりだ。
ベッドから這い出し、リビングへとよろよろと歩く。頭が割れるように痛い。冷蔵庫を開け、スポーツドリンクを取り出して一気に飲み干す。
少しは楽になった。
ソファに座り込み、深くため息をつく。
ベッドサイドのスマホに手を伸ばす。画面を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。今日は秋季キャンプ初日じゃないか。慌てて時刻を確認する。午前7時42分。集合は9時。弥富の二軍球場まで、高速を使っても30分以上。着替える時間を考えると、ギリギリだ。
「クソ……」
毒づきながらベッドを飛び出す。シャワーを浴びる時間はない。洗濯機の上に放置された乾燥済みの普段着に手を伸ばした。皺だらけだが、そんなことを気にしている暇はない。
顔を洗い、歯を磨く。鏡に映る自分の顔は、ひどい有様だった。目は充血し、顔色も悪い。だが、構っている暇はない。
テーブルの上に無造作に投げ出された車のカギを掴み、玄関へ走る。
エレベーターを待つ数十秒が、やけに長く感じられる。イライラしながらボタンを何度も押す。ようやく扉が開き、中に飛び込む。
閉まりかけた扉に滑り込むように乗り込み、地下駐車場のボタンを押す。下降する箱の中で、鏡に映る自分の顔を見た。目の下には隈が見え、顔色も良いとは言えない。
このままじゃ、まずい。そう思いながらも、体が動かない。
地下駐車場に降り立ち、契約金の大半をはたいて買った真っ赤なスポーツカーへ駆け寄る。リモコンキーのボタンを押すと、車が短く鳴いて俺を迎えた。
この車を買った時、先輩に言われたことを思い出す。
「三井、お前まだ3年目だぞ。そんな高い車、必要か?」
「大丈夫っすよ。契約金あるんで」
「...まあ、お前の金だからな。好きにしろ」
先輩は、それ以上何も言わなかった。だが、その目には失望の色が浮かんでいた。
運転席に滑り込んだその時、スマホが震えた。
通知画面に浮かんだ件名は「第88期生安濃津商業野球部同窓会のお知らせ」というものだった。
今すぐ返信する必要なんてない。それなのに、焦りからか、俺は反射的にメールを開いていた。日程は12月初旬。場所は地元津市のホテル。強制的な練習もない時期だ。
本文を読む。幹事は川北。懐かしい名前が並んでいる。そして、熊野の名前も。
行く必要があるか?正直、迷った。
高校時代の仲間に会うのは、気が重い。みんな、それぞれの道を歩んでいる。就職した者、結婚した者、地元で働いている者。
俺は、プロ野球選手。本来なら、誇れる立場のはずだ。
でも、久しぶりに高校時代の仲間に会えるチャンスだ。それにここで少し下卑た感情が顔を出す。同世代の連中にどれだけ稼いでいるか見せつけてやれる。
この車で乗りつけてやろう。高い服を着て、金を使ってやろう。プロ野球選手として成功していることを、見せつけてやろう。
「参加する」
短い返信を打ち込み、エンジンをかける。V6エンジンの咆哮が地下駐車場に響き渡った。アクセルを踏み込み、螺旋状のスロープを駆け上がる。
久屋大通に飛び出した瞬間、朝の陽光が目を刺した。ハンドルを握る手に力が入る。
遅刻したら、コーチにどれだけ説教されるか。
そんな考えを振り払うように、アクセルを踏み込んだ。
名古屋高速に乗るまでの一般道が思いのほか混んでいた。信号待ちのたびにスマホで時刻を確認する。7時58分、8時04分、8時11分。針は容赦なく進んでいく。
ハンドルを握る手に、汗が滲む。
「クソ、動けよ...」
前の車に向かって毒づく。だが、車は動かない。
信号が青になる。アクセルを踏み込む。だが、次の信号ですぐに赤。
この繰り返し。
ようやく高速に合流し、アクセルを床まで踏み込む。速度計の針が120キロを指す。違反だとは分かっている。でも、遅刻は許されないのだ。
エンジンの音が高まる。風切り音が激しくなる。
景色が、後方へと流れていく。
2軍の球場。あの場所に、もう何年いるのだろう。
1年目は、当然だと思っていた。高卒ルーキーなんだから、二軍からスタートするのは普通だ。
2年目も、まだ焦らなかった。徐々にステップアップすればいい。
3年目。少し焦り始めた。同期の選手たちが、1軍で活躍し始めている。俺だけが、取り残されている。
そして4年目。今年だ。
弥富インターを降り、2軍球場へ続く田園地帯の道を疾走する。稲刈りの終わった田んぼが、車窓の両側に広がっていた。ここは名古屋から車で30分少々の距離なのに、まるで別世界だ。
田んぼの向こうに、球場の照明塔が見えてきた。
あと少し。
時計を見る。8時48分。
ギリギリ、間に合う。
球場の駐車場に滑り込んだのは、8時51分。ギリギリ、間に合った。
車を停め、急いで降りる。ドアをバタンと閉め、ロッカールームへと走る。
ロッカールームに飛び込むと、すでに何人かの選手がユニフォームに着替えている。皆、俺を一瞥して、すぐに視線を逸らした。
その視線が、冷たい。
誰も、声をかけてこない。
以前は、こんなことはなかった。遅刻しても、「おせーぞ」と笑いながら迎えてくれた。だが、今は違う。
呆れられているのだ。
見限られているのだ。
だが、そんな失意の目線を向けられてもこれを正そうという気は毛頭なかった。まだ4年目。球団も見限るのにはまだ早いだろう。立場が危うくなったら本気を出せばいいんだ。危なくなるまではこんな自堕落な生活を満喫させてもらおう。
「おう、三井。ギリギリだな」
声をかけてきたのは、同期入団でピッチャーの大町だった。彼は去年の後半からリリーフとして1軍に定着し、今年は抑えのポジション争いに加わっていた。まさに若手の有望株といったところだ。
「悪い、寝坊した」
「またか。お前、最近そんなんばっかりだな」
大町の言葉に棘はない。むしろ心配そうな表情だ。それが余計に腹立たしい。
心配されるほど、落ちぶれてはいない。まだ大丈夫だ。そう思いたかった。
ロッカーから練習着を引っ張り出し、急いで着替える。皺だらけのシャツを見て、大町が小さく溜息をついた。
「……大丈夫か?」
「何が」
「いや……」
それ以上、彼は何も言わなかった。
だが、その沈黙が、全てを物語っていた。
着替えを終え、グラウンドへ向かう。
廊下を歩きながら、自分の姿を窓ガラスに映してみる。
シャツは皺だらけ。髪はぼさぼさ。顔色も悪い。
こんな姿で、誰がプロ野球選手だと思うだろうか。
グラウンドに出ると、コーチが待ち構えていた。厳しい表情で腕時計を見ている。
50代半ばのコーチ。元プロ野球選手で、現役時代は名捕手として鳴らした。引退後、コーチとして若手の育成に携わっている。
「三井、集合3分前だぞ。お前、プロの自覚あるのか」
その言葉が、胸に刺さる。
「すみません」
謝罪の言葉は口から出るが、心はどこか空っぽだった。
本当に、申し訳ないと思っているのか。自分でも、わからない。
コーチは、俺を睨みつけた。
「お前、このままでいいと思ってるのか」
「...」
「4年目だぞ。そろそろ結果を出さないと、本当にクビだぞ」
その言葉に、ドキリとした。
クビ。
その単語が、現実味を帯びて迫ってくる。
「...はい。頑張ります」
「頑張るじゃない。結果を出せ」
コーチは、それだけ言って立ち去った。
キャンプ初日のメニューは基礎練習の確認から始まった。キャッチボール、ティーバッティング、ノック。中学時代から何千回、何万回と繰り返してきた動作。でも、どこか体が重い。
キャッチボールの相手は大町だった。
「じゃあよろしく」
大町が一応といった感じで頭を下げる。
「ああ」
短く返事をし、ボールを投げる。
だが、コントロールが定まらない。ボールが、あらぬ方向へと飛んでいく。
「すまん!」
大町が謝りながら、ボールを追いかける。
悪いのは、俺なのに。
もう一度投げる。今度は、まともに届いた。
大町が投げ返してくる。正確なコントロール。無駄のないフォーム。
若いのに、完成されている。
それに比べて、俺は。
そんな仄暗い感情が芽生えてくるが、それを振り払う。反省ばかりしていたら、タニマチと飲む高い酒もまずく思える。だから反省はしない。自分を振り返らない。それが俺のモットーだ。
バッティング練習の順番が回ってきた。マウンドに立つのは大町だ。初球、ストレートが来る。タイミングは合っている。でも、バットは空を切った。
「三井、力みすぎだ!」
コーチの声が飛ぶ。
わかってる。わかってるんだ。
だが、体が言うことを聞かない。
2球目。またストレート。
今度こそ、と思って振る。だが、また空振り。
「三井! もっとリラックスしろ!」
コーチの冷ややかな視線が自分に突き刺さる。やはり昨日の深酒のせいか、体にキレがない。
3球目。スライダー。
完全に外された。バットは、ボールの軌道とは全く違う場所を通過する。
「交代!」
コーチの声が、グラウンドに響く。
たった3球。それで、交代。
打席から下がりながら、俺は自分の手を見つめた。何かが違う。確かに、何かが欠けている。でも、それが何なのか分からなかった。
津市は県庁所在地の駅としては、お世辞にも華やかとは言えない。周辺に目立った商業施設があるわけでもなく、ビルがひしめいているというわけでもない。それでも、地元で育った人間には独特の愛着がある。見慣れた看板、変わらない駅前の風景。帰省のたびに、ここが「戻ってくる場所」なのだと実感させられる。
12月初旬。秋季キャンプも終わり、オフシーズンに入った。
同窓会の日。
俺は、あの真っ赤なスポーツカーで地元へと戻ってきた。
高速道路を飛ばし、津インターで降りる。見慣れた景色が、次々と目に入ってくる。
変わったもの、変わらないもの。
だが、俺自身は、どうだろうか。
四年前、この街を出て、名古屋へと向かった。プロ野球選手として、成功を掴むために。
そして今、俺はどうなった。
二軍暮らし。成績不振。堕落した生活。
成功しているとは、とても言えない。
だが、少なくとも、プロ野球選手ではある。
それだけでも、十分じゃないか。
津インターからものの数分でホテルに到着した。車を駐車場に止め、エントランスをくぐる。案内に従って宴会場へ向かう廊下は静かで、靴音だけが妙に大きく響いた。
扉の前で、一度深呼吸をする。そして、扉を開けた。
扉を開けた瞬間、ざわめきと笑い声が一気に押し寄せてきた。
天井から吊り下げられたシャンデリアは、津の風景とは不釣り合いなほど豪華だった。真新しい絨毯にはすでに数十人の足跡が刻まれ、会場の熱気は既にピークに達しつつある。高校時代の仲間たちは、思い思いのグラスを片手に談笑していた。懐かしい顔、忘れかけていた名前、あの頃のまま変わらない笑い声。それらが一気に押し寄せてくる。
「おお、三井!来たか!」
真っ先に声をかけてきたのは、当時ショートを守っていた川北だった。丸顔に刻まれた笑い皺が印象的で、高校時代のあどけなさは消え、社会人6年目の落ち着きが滲み出ている。ネクタイを緩めたスーツ姿が、彼の成長を物語っていた。
「久しぶり。相変わらずだな」
川北は屈託のない笑顔で俺の肩を叩いた。その親しげな仕草が、かえって距離を感じさせる。あの頃の俺たちは、もういない。
「お前さ、プロでの暮らしどうなん?ニュースで見るたびにすげえなって思うわ。この前の試合も見たぞ」
川北の言葉に、胸がチクリと痛んだ。
この前の試合?俺、出てたか?
ああ、代打で一打席だけ。結果は、空振り三振。
「まあ、それなりに、な」
川北は昔と変わらぬ目の輝きで話を続けた。会話の内容は、当たり障りのないもの。仕事のこと、結婚のこと、地元の変化。
俺は、適当に相槌を打った。
周りを見渡すと、懐かしい顔ぶれが揃っている。
みんな、それぞれの道を歩んでいる。
就職した者。結婚した者。地元で働いている者。
そして、俺は、プロ野球選手。
本来なら、一番成功しているはずだ。
だが、どこか居心地が悪い。
「熊野も来てるぞ。さっきあっちの席で話してたわ。お前ら、久しぶりだろ?」
川北の言葉に、俺の体が固まった。
「熊野……?」
名前を聞いた瞬間、胸の奥にわずかなざらつきが生まれた。
甲子園準優勝の立役者。最速は140kmにも届かないのに、強気のピッチングで相手打線を翻弄した、あのちんちくりんな右腕。「黄金バッテリー」と新聞に書かれた、あの夏。俺たちは英雄だった。少なくとも、この街では。
だが、高校卒業後の進路は全く違っていた。
俺はドラフト1位で華々しくプロへ。スポーツ紙の一面を飾り、入団会見では100人を超える報道陣が集まった。テレビカメラが何台も並び、フラッシュが絶え間なく光った。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
一方、熊野は甲子園準優勝投手という輝かしい肩書を持ちながらも、プロからの声はかからなかった。レベルが上がれば打ち頃になるその球速と、小柄な体躯が評価されなかったのだろう。推薦どころか、大学のセレクションにも落ちたと聞いた。結局、一般入試で東海体育大学に進学した。東海地方では野球の名門として知られる大学だ。
それ以降、俺たちの交流は途絶えた。だから、熊野のその後を知らない。
連絡を取ろうとは、思わなかった。
何を話せばいいのか、わからなかった。
プロになった俺と、なれなかった熊野。
その差が、どうしても気になって。
「あ、三井!」
振り返ると、熊野がグラスを片手に近づいてきていた。
髪型は相変わらずぼさっとしている。ただ、大学での練習で鍛えられたのか、体つきは高校の頃より一回り大きく見えた。肩幅も厚くなっている。顔立ちは昔のままだが、どこか大人びた表情をしていた。
「久しぶり。元気してるか?」
熊野の声は明るかった。あの頃と変わらない、人懐っこい笑顔。
だが、その笑顔が、なぜか眩しすぎて、直視できなかった。
「まあな。お前こそ、大学はどうだった?」
俺が軽く流すように聞くと、熊野は少し照れくさそうに笑った。
「大学ではデータの勉強をしててさ。体格に恵まれないなら投球術で勝負するしかないだろ?だから、データの観点から相手打者の弱点を分析して、それを活かしたピッチングを磨いてたんだ」
熊野の言葉が、耳に入ってくる。
だが、その内容が、どこか空々しく聞こえた。
データ?投球術?
そんなもので、プロになれるのか?
そう大げさに自慢げに話す熊野に、俺は突っ込む気にはなれなかった。そんなものが通用するなら、誰も苦労しない。突っ込まれないと分かると、熊野の表情はスッと真剣なものに変わり、話を続けた。
「大学でもプロを目指して試行錯誤したけど……今年のドラフト会議でも指名漏れだったよ」
その言葉には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「そうか。まあ、しゃあないよな」
心にもない言葉を吐きながら、俺はグラスを軽く掲げた。
だが心の中では、別の声がくすぶっていた。
(あの程度の球速じゃプロは無理だろ。昔は"黄金バッテリー"だなんて持ち上げられたが、プロの世界じゃそんな幻想は通用しない。現実を見ろよ)
その声が、俺の本音なのか、それとも、プロである自分を誇る考えなのか。
わからなかった。
熊野は気にした様子もなく、グラスを傾けてから話を続けた。
「でもさ、野球はやっぱり続けたくて。来年の春から東亜製鉄四日市で投げることになったんだ。今度は実業団チームからプロを目指すことにした」
「東亜製鉄四日市か。聞いたことはあるな」
東亜製鉄四日市。うちのチームにもそこ出身の選手がいる。ベテランの中継ぎ投手だ。実業団チームの中では強豪とは言えないものの、コンスタントに選手をプロに送り込んでいる印象がある。堅実なチームだ、という評価を聞いたことがある。
「うん。投手の育成プログラムもしっかりしてるらしいし、社会人の舞台からプロを目指したい。ラストチャンスかもしれないけど」
熊野の言葉に、周りに集まってきた仲間たちは素直に感心していた。
「すげえな、熊野。お前、ほんま努力家やなあ」
「プロ目指すなら社会人もええ選択やん。頑張れよ!」
その輪の中心で、熊野は少し照れながらも誇らしげだった。周囲の称賛を受けながら、それでも謙虚な態度を崩さない。その姿が、妙に鼻についた。
(努力家?データ?社会人でプロを目指す?……何を必死になってんだか)
会場を見渡せば、野球を辞めた仲間もいる。家庭を持った者、会社で揉まれながら働いている者。それぞれが自分の道を歩み、それぞれの人生を生きている。野球以外の夢を見つけた者もいれば、現実と折り合いをつけた者もいる。
その中で熊野だけが、まるで高校時代の延長のように野球一筋で、それが"立派なこと"として扱われている。まるで、プロになれなかった負け犬の意地を見せられているようで、不快だった。
(プロでもないくせに、何を語ってんだよ。俺は……少なくとも"プロ"なんだぞ)
そう思った瞬間、胸の奥で何かがひっそりと軋んだ。
プロ。その肩書きだけが、今の俺を支えている。
成績は出ていない。一軍にも定着できていない。だが、俺はプロだ。
それだけが、唯一の誇りだった。
熊野が俺に向き直って笑った。
「三井、お前の活躍、いつもチェックしてるからな。来年は勝負の年なんだろ?期待してる」
その言葉に、なぜか喉がひりついた。
うっとうしいほど純粋な励まし。悪意のない、まっすぐな期待。それが、今の俺には刺さりすぎる。活躍なんてしていない。期待に応えられていない。それを、熊野は知らないのか、それとも知っていて言っているのか。
「……ああ、まあ、頑張るよ」
そう返すのが精一杯だった。
グラスの中のビールは、もうすっかりぬるくなっていた。熊野は満足そうに笑い、仲間たちの輪に戻っていく。その背中を見ながら、俺は一人、空のグラスを見つめていた。
その背中が、なぜか遠く見えた。
同じ高校で、同じ野球部で、同じ夢を見ていたはずなのに。
今は、まるで違う世界にいるようだった。
熊野は、まだ夢を追いかけている。
会場の喧騒が、急に遠くなったような気がした。
笑い声、乾杯の音、談笑する声。
全てが、どこか遠くで聞こえている。
俺は、グラスを置いて、会場の隅へと移動した。
窓の外を見ると、津の街が広がっている。
あの頃、ここから出ていきたいと思っていた。
プロ野球選手になって、成功して、この街を見返してやりたいと。
だが、今の俺は、何を成し遂げたのだろうか。
まだわからなかった。
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