第2話 画面越しの天使、目の前の

(黒瀬璃央)


 認識の解像度が、一気に書き換わる音がした。


 目の前にいる小柄な少女。

 学校指定のジャージの上に、だぼだぼのグレーのパーカー。フードを目深に被り、猫背で、視線は私の足元とモニターの間を彷徨っている。

 教室の隅にいる「背景モブ」。保健室の幽霊。

 それが、Shiraneだって?


 私は震える指先で、ポケットからiPhoneを取り出した。

 画面をタップする指が滑る。DMの履歴。

 昨夜の二時三〇分。私が送ったデモ音源への返信。

 『Bメロのシンセ、帯域がボーカルと被ってるかも。少し削って』

 淡白なテキスト。けれど、その的確な指摘に私は何度救われたか分からない。

 目の前の少女が、ポケットからスマホを取り出す。

 その画面には、私と同じトークルームが表示されていた。


「……本物、なんだ」


 乾いた笑いが漏れる。

 ネット上のShiraneは、年齢不詳、顔出しNGの「天使」。

 リスナーたちは彼女を神聖視し、コメント欄は崇拝の言葉で埋まる。

 その正体が、まさか一番近くにいた「弱者」だったなんて。


「……幻滅、した?」


 ゆいが、消え入りそうな声で訊いた。

 その声は、歌っている時の、あの脳髄を直接撫で回すような倍音成分を含んでいない。ただの、怯えた女子高生の声だ。


「私が、こんな……陰キャで。学校にも行けない、不良品で」

「馬鹿言わないで」


 私は反射的に否定していた。

 幻滅? 逆だ。

 私は、彼女のその「弱さ」にこそ、救いを感じてしまった。

 もしShiraneが、私と同じような「キラキラした人気者」だったら、私はとっくに逃げ出していただろう。

 私の曲に込めた「毒」や「弱音」を、本当に理解できるはずがないから。


「君こそ、どうなの」


 私は一歩踏み出し、わざと意地悪く訊ねた。

 優等生の仮面を、足元で踏みつけながら。


「kuroLeoの正体が、この『完璧な生徒会長』で。……吐き気がするでしょ? 表では先生に媚び売って、裏ではこんな鬱屈した曲作って」


 自嘲が混じる。

 私の正体がバレる時、相手は決まって軽蔑の目を向ける。「裏切られた」と。「嘘つき」と。

 けれど、ゆいは首を傾げた。

 フードの隙間から、あの色素の薄い瞳が私を解析スキャンする。


「……ううん。整合性は取れてる」

「は?」

「璃央さんの声。……さっきの喋り声も、今の怒った声も。全部、フィルターがかかってる」


 ゆいは、私の唇ではなく、喉仏のあたりを見ていた。


「ハイパスフィルター。低音の、汚い部分を全部カットして、綺麗な高音だけ出力してる。……でも、カットされた低音のエネルギーは消えてない。内部で渦巻いて、熱になってる」

「……」

「それが、kuroLeoの曲の『熱量』なんでしょ。……矛盾してない。むしろ、その乖離ギャップこそが、あなたの音」


 言葉を失った。

 今まで、誰にも触れさせなかった核心。

 親でさえ、教師でさえ、私の「表面」しか見ていなかったのに。

 この子は、私の「出力結果」ではなく、「回路設計」そのものを言い当てた。


 ブブブ、ブブブ。

 私の手の中で、iPhoneが不機嫌なバイブレーションを奏でた。

 画面を見るまでもない。母だ。

 通知の表示。『今日は早めに帰宅しなさい。週末の模試の件で話があります』。

 その文字列を見た瞬間、私の身体が強張る。

 ゆいが、それを敏感に察知した。


「……不協和音ディソナンスだね」

「え?」

「そのバイブ音。……嫌いな音なんでしょ」


 ゆいは、全てお見通しだと言わんばかりに呟く。

 私は、通知をスワイプして消した。

 画面の中の母の言葉を、ゴミ箱へ放り込むように。


「……ねえ、Shirane」

「ゆいでいい」

「じゃあ、ゆい。……私と、共犯になって」


 私は手を差し出した。

 握手を求めるような、綺麗な仕草じゃない。

 沈没船の乗客が、最後の救命具を掴むような手つきで。


「私の曲には、君の声が必要なの。私の歪んだ感情を、美しく変換コンバートできるのは、君の砂の耳と声帯だけだ」

「……わたしも」


 ゆいは、おずおずと私の指先に触れた。

 その指は冷たくて、湿っていて、生きている人間の感触がした。


「わたしも、璃央の作る『〇・九秒のリバーブ』の中に隠れたい。……あそこだけが、世界で一番静かだから」


 契約成立ハンドシェイク

 私たちは、物理的に繋がった。

 LANケーブルも、Wi-Fiの電波も介さない、皮膚と皮膚の接触。

 そのアナログな温もりが、私の中にあった空洞を、少しだけ埋めた気がした。


          ***

(白音ゆい) 


 翌朝。

 登校時間の昇降口は、カオスなノイズで満ちていた。

 革靴が床を叩く高周波、話し声の中域、誰かが落とした鞄の重低音。

 それらが無秩序に混ざり合い、私の聴覚野を飽和サチュレーションさせる。


(……気持ち悪い)


 私はパーカーのフードを深く被り、いつものように視線を床に落として歩いた。

 教室には行かない。保健室への直行ルート。

 その時。

 前方から、整然としたリズムが近づいてきた。


 カツ、カツ、カツ。

 一歩ごとのベロシティ《音の強さ》が完全に均一な、ローファーの音。

 黒瀬璃央だ。

 彼女の周りには、常に数人の取り巻きがいる。

 「おはよう、璃央ちゃん!」「昨日の予習見た?」「会長、先生が呼んでたよ」

 黄色い声援という名のホワイトノイズ。

 璃央は、その中心で完璧に「イコライジング」された声を返していた。


「おはよ。数学のノートなら後で貸すね」

「先生? 分かった、すぐ行く」


 その声には、昨日の音楽室で見せた「歪み」は一切ない。

 綺麗なサイン波。誰にとっても耳心地の良い、優等生の周波数。

 私と彼女の距離が近づく。

 三メートル。二メートル。一メートル。


 目が、合うかと思った。

 けれど、璃央の視線は私を透過して、その向こうの掲示板を見ていた。

 私も、彼女を見なかった。

 私たちは、完全な他人だ。

 学校という巨大なシーケンサーの上では、私たちは別のトラックに配置されている。交わることはないし、干渉してもいけない。


 すれ違う瞬間。

 ふわり、と柑橘系の香りがした。

 そして、私の耳だけが拾った。


 ――トン。


 璃央の足音が、私とすれ違うその一瞬だけ、十六分音符ひとつ分、リズムを跳ねさせたのを。

 それは、挨拶だった。

 言葉にも、視線にもならない、音だけの合図。

 『聞こえてるよ』という、暗号。


 私の心臓が、不規則なビートを刻む。

 振り返らない。

 振り返ってしまえば、この完璧なS/N比が崩れてしまう。

 私はヘッドホンの音量を上げた。

 流れてくるのは、昨夜アップされたばかりのkuroLeoの新曲デモ。

 まだ歌詞のないメロディが、私の歩幅に合わせて景色を塗り替えていく。


 ポケットの中のスマホが震えた。

 Discordの通知。

 送信者は『kuroLeo』。


『今夜二十三時。通話繋ぐ。新曲の歌詞、考えるから』


 短いメッセージ。

 私は小さく息を吐いた。

 教室の喧騒が、少しだけ遠くなる。

 私には、帰る場所がある。

 保健室でも、家でもない。

 〇・九秒で切り取られた、彼女との秘密の周波数帯域バンドだけが、私の本当の居場所だった。

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