夜風と笑い声

 初アジを釣った夜から、僕の週末は少しだけ賑やかになった。

 といっても、相変わらず部屋は静かで、帰れば電気のスイッチを押す前の暗がりが迎えてくれる。

 ただ、その静けさの奥にひっそりと「次の夜も行こう」という小さな火が心に灯り続けていた。


(釣れたときのあの重み。あれを、もう一度)


 仕事を終えた帰り道、街灯の下でふと海の匂いを思い出す。

 電車の揺れに身を任せながら、動画で見た「ワームのローテーション」をまた検索していた。

 釣りを始めてから、会社から家に帰るだけだった平日の夜が、不思議と短く感じるようになった。 


 週末、風のやわらぐ午後。道具を積んで車を走らせる。道路脇に夕焼けが流れ、赤から藍色へ空が少しずつ変わっていく。

 コンビニに寄って温かい缶コーヒーを1本。ついでに唐揚げ串。小さな儀式のようなものになっていた。


 港に着くと、前より少し人が多かった。

 常夜灯が灯り、海面に黄色い道ができる。

 その光の中に、竿を出す人々のシルエットが並ぶ。


 準備をしていると、隣で竿を振る男の人がふとこちらを見た。

 赤いキャップをかぶり、年の頃は五十代後半ほど。顔には刻まれた笑いジワがあり、どこか海と馴染んだ雰囲気がある。


「兄ちゃん、アジ狙い?」

「はい。最近始めたばかりで…」

「ほう。確かにその細っこいロッドは初心者っぽいな」


 からかうような声色だが、悪意は感じない。

 男は自分のクーラーボックスを指差した。


「ほれ、今日の分だ」


 ライトの下で見えたのは銀色の魚。

 以前釣ったアジよりひと回りは大きいアジが四匹並んでいた。


「すげえ……」

「釣れん日もあるがな。まあ、のんびりやるさ」


 彼は佐伯さんと名乗った。定年後はほとんど毎日ここに来ているらしい。

 風の向き、潮の重さ、魚影の気配。

 短い会話の中にも、積み重ねた年季がにじんでいた。


「兄ちゃん、仕掛け貸したろか。新しいの試してみい」

「いいんですか?」

「おう、どうせ余っとる」


 素直にありがたかった。

 ワームの色や動かし方も教えてくれる。僕は釣りの言語を少しだけ理解しはじめていた。


 その少し後、ドタドタと駆けてくる足音が聞こえた。

 見れば若い男二人がリュックを背負って走ってくる。

 片方は派手なパーカー、もう片方はまだ新品のようなスニーカー。


「よっしゃ間に合った! 今日こそ釣るぞ!」

「マジで大物来い!映えるやつ頼む!」


 元気が夜風に溶けていく。

 どうやら大学生で、釣りは友達同士のお楽しみらしい。

 僕がアジングロッドを持っているのを見ると、気さくに話しかけてきた。


「先輩!釣れます?」

「……先輩?」

「俺らより釣具良さそうなんで!経験者っすよね?」


 いや、完全に初心者なんだが。

 笑って否定すると、ふたりは顔を見合わせて声を出して笑った。


「じゃあ今日、一緒にボウズなら仲間っすね!」

「いや、仲間の条件そこなのか」


 くだらない会話が妙に楽しい。

 彼らはシンとジュンと言った。にぎやかだが、どこか憎めない。


 それからしばらくは、三者三様の釣り時間。

 佐伯さんは淡々と、時折ため息をつきながらキャストを繰り返す。

 シンとジュンはずっと喋り、ワームの色を変えては大喜びしている。

 そして僕はといえば――集中したり、ぼんやりしたりしながら、海を眺めていた。


 風が少し冷たくなり、指先に潮の湿りが触れる。水面がざわりと揺れると、常夜灯の光が乱れてきらめいた。


 ポケットでスマホが震える。

 画面には「明日会議資料お願い」の上司からのメッセージ。

 だけど僕はすぐには開かなかった。夜の海にいると、現実が少しだけ遠くなる。


(釣れても釣れなくてもいい。でも、こうして人のいる夜の港が悪くない)


 そんな気持ちがふと胸に浮かんだ。


「ん、来た!」


 突然シンが叫んだ。

 見ればシンの竿がしなっており、慌ててラインを巻き取っている。

 ジュンがスマホで動画を回し始めた。


「映えろ映えろ映えろー!」

「やばっ引く引く!あ、外れた!」


 針が抜け、ワームだけが虚しく宙を舞った。


「……まじかよ……」

「お前今の絶対SNSで伸びてたのに!」


 大げさに肩を落とす二人に、思わず笑いがこぼれた。

 佐伯さんも苦笑いしながらひと言。


「それが釣りよ」


 その夜、結局僕ら(佐伯さんを除いて)は釣れなかった。でも帰り際、シンが言った。


「今日のボウズ、なんか楽しかったっすね」

「次は絶対釣ってやりましょうね、先輩!」


 肩を叩かれ、僕は少し照れた。


「また来るよ。たぶん、来週も」


 そう言うと、佐伯さんが笑った。


「兄ちゃん、もう釣り人の顔じゃ」


 港を離れるとき、潮の匂いが夜風に混じって残った。車の窓を少し開け、冷たい空気を胸に吸い込む。

 ボウズなのに不思議と心は軽かった。


(釣れたときの喜びは、きっともっと大きい)

(仲間と笑い合えた夜が、少しだけ嬉しい)


 そんな思いを抱いて家に戻ると、部屋はいつもと同じ静けさだった。

 でも今夜は、その静けさがやわらかく感じていた。


 冷蔵庫からビールを取り出し、缶を鳴らしてひとり乾杯する。


「――悪くないな」


 ふわりと笑って、僕はノートを開いた。

 釣果欄には「0匹」と書きながら、心の欄にはそっとこう付け足す。


「仲間と笑った夜」

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