第27話 〈アストラル〉

《ねえ、ルシェ。海ってどんな場所?》


 海? 情報を読めばいいじゃん。


《じゃあそれ読んでよ》


 ええと、塩水と砂がずっと広がっている場所、だってさ。


《そうじゃなくてさ、もっと具体的に》


 塩水と砂も具体的だよ。


《ルシェー、それじゃつまんないよ。例えば……色! 海の色!》


 空みたいな青って書いてある。


《空の青は?》


 ……海みたいな青って書いてある。


《何それ。全然思い浮かばない。青ってこの部屋にある?》


 少なくとも、僕の部屋にはないかな。


《じゃあこっちの部屋にもきっとないね。色の他に海の情報はある?》


 波が打ち寄せてくるみたい。


《波?》


 水が近づいたり離れたりするらしいよ。


《うーん。全然イメージできない》


 情報だけじゃ足りないね。


《情報も足りてないでしょ。知らないことが多すぎるんだよ》


 ここの部屋にあるものだけじゃ、限りがあるから仕方ないよ。


《じゃあ、いつかさ! 外に出たら海を見ようよ! ルシェ!》


 そうだね。いつか一緒に行こう、エルス。


     ◆


 ルシェは白い通路を歩いていた。壁も床も、平坦な白い石でできている道だ。いつからここを歩いているのかわからない。前にも後ろにも、ずっと同じ通路が続いていた。


 ルシェはこの通路を知っていた。昔から何度も歩いた道だからだ。


「いつかエルスに会えるはずだ」


 ルシェは自分に言い聞かせるように呟いた。


 一か月前に研究所に連れ戻されてからも、逃げる前と同じ生活が待っているだけだった。変化があるとすれば、エルスがいなくなっていたということだけだ。彼女も連れ戻されているなら、自分と同じような状況になっているはずだから、どうやら逃げおおせたらしい。結局、研究所にいるうちは、彼女とは部屋越しに話をするだけで、一度も直接会うことはできなかった。


 エルスはどうしているだろうか。合流できなくて不安になっているだろうか。


 いや、エルスならきっと大丈夫だ。彼女はいつも明るく聡明だった。一人でも難なく海に行って、どこかで自由気ままにやっているはずだ。


 通路を進んでいくと、奇妙なものがあった。


 天井に死体が挟まっていた。顔はよく見えないが、おそらく女の死体だ。片腕がガラクタのような刻印装で、その刻印装がだらんと力なくぶら下がっている。手のひらをこちらに向けて、まるで手を差し出しているかのように見えた。


 ルシェはその死体に近づき、眺めてみたが、それが誰なのかはわからなかった。そして、ただなんとなく、ぶら下がった刻印装に手を伸ばしてみた。


 その時、刻印装が千切れて床に落ちた。


 刻印装は砕け散り、ガラクタの部品を当たり一面にばらまいた。


 立ち止まったまま、飛び散ったガラクタを眺めていると、違和感を覚えた。ガラクタの量が多すぎるのだ。明らかに、腕一本を構成する量ではなかった。白い床を見続けていると突然、まるで水面に泡が立つかのように、ガラクタの部品が浮き上がった。


 ルシェは気づいた。通路が変化している。白い石だった床や壁が、薄汚い瓦礫を固めて作られたものに、じわじわとうごめきながら変化していった。


 ルシェは背中に冷たいものを感じ、とっさに走り出した。まだ白い通路が残っているほうへ。


 後ろを振り返ると、瓦礫の壁は白い石を侵食し、その範囲を広げているようだった。


 走り続けていると、ようやく出口のようなものが見えた。強い光に照らされていて先に何があるのかわからなかったが、とにかく走り続けた。


 そして、ルシェの身体は光に包まれた。


     ◆


 気が付くと、目の前に灰色の海が広がっていた。泡立った波が足元に打ち寄せる。空も灰色だった。雲一つ無い空だが、まるで色素が少しも存在しないかのように、完全なモノクロの世界だ。振り返ると、地平線まで無限に続く砂浜が見える。風は吹いておらず、何の匂いもしない。まるで下書き中の風景画の世界に入っているかのような、現実感の無い感覚だった。


 ルシェは、より深い階層に逃げ込むことができたと理解し、胸を撫で下ろした。

それにしても、なぜ海なのか。考えながら波打ち際沿いを歩き続けた。


 おそらく、さっきの通路で海のことを考えていたのが原因だろう。そこでの空想が情報となって、この場での認知に変換されていると推察した。


 歩きながら海の方を見た。灰色の海だ。ここには、塩水と砂しか存在しない。


「なるほどね」


 自分は本物の海を見たことがない。その想像力ではこれが限界なのだろう。だからこんな味気ない空間になってしまったのだ、そう理解した。


 きっとエルスなら、もっと鮮やかな場所を生み出せるのだろう。だって彼女はとっくに外に出て、本物の海を見ているはずなのだから。その姿を想像したルシェは少しだけ微笑んだ。


 ふと視線を前方に戻すと、遠くに人影があった。背が低い、子供のようだ。


 そのまま顔が見える距離まで近づいていったルシェは、息を呑んだ。


 女の子だ。大きな黒い眼、長いまつ毛、肩の下まで伸びた黒髪、色素が薄い肌の整った顔立ちの、自分と同い年くらいの少女だった。


 会ったことのない少女だったが、直感的に誰なのか分かった。


「エルス……?」


 どうして彼女がここにいるのか、理解できなかった。どうやってこの空間に来たのか。エルスは研究所からいなくなったはずだ。〈アストラル〉に接続したとしても、この場所には存在し得ないはずなんだ。だって、この海は──


 自分の想像力の限界が生み出した海だ。


 もしエルスが海にたどり着いているのなら、この領域は彼女が見た本物の海の情報が反映された場所なっているはずだ。しかしここは、海を見たことのない人間が想像した場所だ。


そこにエルスがいるということは──


     ◆


「エルス!」


 ルシェは叫びながら身を起こした。体中が汗まみれで、病衣のような服がびしょ濡れになって皮膚に張り付いていた。身体中が重く、今にも倒れそうなほど、めまいや頭痛がした。


 手術台の上に寝かされていたようだった。その台からは様々な太さのチューブが床を這って伸びていて、それらが周囲に積まれた多種多様な機器に接続されていた。


 肩で息をしながら、ルシェは周りを見た。周囲の機器や壁にはびっしりと防壁系ルーンが敷き詰められていることが感覚された。おそらく侵入はおろか、内部構造のルーンすら認識できないだろうと、ルシェは察した。


 部屋のドアが開き、何人かの男女とともにキュリオンが入ってきた。


「素晴らしい! 二十九時間だ! 今回の〈アストラル〉潜行実験は新記録だ! 見事だ!」 


 キュリオンが満面の笑みで拍手をしている。まるで子供の晴れ舞台を褒めるかのように。


「しかも今回はいつもと異なる階層へ進んだようだね? そこでどんな情報が得られるかは、君が見た情景と、こちらで採取したデータとを紐づけて解析してみるとしよう」


 周りの男女はあくびをしながら無表情で機器を操作していたが、キュリオンは興奮を抑えきれない様子で、今回の潜行がどれほど有意義であるものだったか提唱し続けている。


「エルスがいた」


 ルシェが細い声で言った。


「ん? 今、何と?」


「エルスだ……進んだ階層に彼女がいた……どうして……」


 キュリオンはきょとんとした顔で、目をまん丸にしている。何を言っているのかわかっていないらしい。


「僕と同じ、研究所にいた女の子だ! 僕が逃げる直前にここから出たはずだ!」


「君の前……と言うと、一か月ほど前のことかね?」


「そうだ……」


 少し間があった後、キュリオンは大きくうなずいて思い出したようだった。


「彼女か! そう! エルスだ! そういえばいたね、そんな子も!」


「エルスはどこに……」


 キュリオンは首を傾げた。わかっていないのか? その目がそう言っていた。

「彼女は死んだよ。君が逃げる少し前に。確か衰弱だったかな? 他の子と同じだよ。手順通り廃棄処理にも立ち会った。見間違いでは?」


 ルシェは嘔吐した。胃には何も入っていなかったが、何なのかよくわからない不快な液体だけがどんどんあふれてきた。仰向けで身を起こした姿勢だったので、吐瀉物が服にかかり続けた。


 身体を濡らす不快な体液が思考を止めていく。


 何も考えたくない。いや、何も考えるな。これでいい。吐き出し続けろ。そうすれば、何も考えなくて済む。この液体で心を満たすんだ。もっと、もっと。


 ルシェが吐き続ける様子をキュリオンは不思議そうに眺めていた。そして、ポン、と手を叩いて何かを思いついたかのように嬉々とした表情で言った。


「そうだ! 休養を取ってみるというのはどうだろう?」

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