二つの病院と街の選択

第17話 エルフがいる病院、という噂

 スマートフォンの画面の上で、数字だけが勝手に増えていく。


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 数字には匂いも体温もないはずなのに、見ているだけで胃のあたりがむずむずする。


「……あの、マコさん」


「はいはーい、バズらせた犯人でーす」


 受付カウンターの中。

 わたしの隣で、マコさんが、自分のアカウントを開いたままどや顔をしている。


 画面には、こないだ撮られた写真。


 カルテをめくっているわたし。

 横顔。

 結んだ髪のすき間から、うっかり覗いてしまった耳の先。


 コメント欄には、知らない人たちの声がぎゅうぎゅうに詰まっていた。


> 「え、耳どうなってんの!? コスプレ? ピアス?」

> 「動物病院にエルフいるのは反則でしょ」

> 「この受付さん目当てで通院したい(※診るのは獣医師です)」


「診察するのは院長なんですけどね……」


「そーゆー細かいことはどーでもよくて☆」


 マコさんは、さらさらと画面をスクロールする。


「“えだがわ動物クリニック”の認知度、爆上がりですよ。

 ほら、位置情報からすぐ飛べるようにしておいたんで」


「勝手に住所を宣伝しないでください」


「宣伝って言ったじゃないですか〜。商店街の味方、広報担当ですよあーし」


 そこへ、診察室のドアががらりと開いた。


「おい」


 院長が、いつもより半音低い声で顔を出す。


「なんで俺のところにまで“エルフのいる病院ってここですか”って電話が来るんだ」


「それは〜、バズったからですね」


 マコさんが元気よく言う。


「普通、予約の電話って“フィラリアの検査お願いします”とか“ワクチン打ちたいんですけど”とかだろ。

 なんで“エルフさん今日います?”から始まるんだ」


「需要、ありますよね?」


「いらん」


 即答だった。


 でも、院長の手にはしっかりスマートフォンが握られている。

 画面には、マコさんの投稿が開かれていた。


「……まあ、潮見台センターの折り込み広告よりはマシか」


 ぼそっとつぶやいてから、院長はコメント欄を一瞥した。


「“診察もちゃんとしてくれますか?”って質問、多いですね」


 わたしが恐る恐る口を挟むと、院長は鼻で笑う。


「当たり前だ。耳の形がどうだろうが、やることは一個だ」


『ぴょこぴょこ。

 かくすと、きゅうくつ。

 だしてると、“へんな目”がふえる』


 自分の耳が、勝手にそんな感想を喋っている気がする。


「いいか」


 院長は、スマートフォンをポケットに突っ込んでから言った。


「“面白がって来るだけのやつ”と、“本当に困って来るやつ”は、受付でちゃんと見分けろ。

 後者を追い返したら、それこそエルフだなんだ言ってる暇はねぇからな」


「了解です」


 背筋を伸ばす。


『ここ、“こわい”と“たすけて”が、いりまじってるところ。

 “おもしろそう”は、すこしでいい』


 入院室のほうから、ぼんやりした犬たちの声が重なって聞こえた。


 


 バズってから数日。


 待合室の空気は、ほんの少しだけ変わった。


 いつもの常連さんたちに混じって、

 明らかに「スマホで場所を確認してから来ました」という顔の人たちが増えた。


「すみません……ネットで見て……」


 午前の診察が始まる前、ガラガラ、と引き戸が開く。


 紺色のコートを着た若い女性。

 肩から大きなトートバッグ。


 その中で、小さな白い頭がもぞもぞと動いた。


『ひかり。

 たくさんのひかり。

 まぶしくて、でも、なつかしいにおい』


 わたしのほうを、まっすぐに見る。


「こんにちは。初めての受診ですか?」


 受付の決まり文句を口にすると、女性はこくりと頷いた。


「はい……。あの、◯◯線で二駅先から来ました。

 “エルフの受付さんがいる病院”って、犬仲間のグループで話題になってて……」


 遠慮がちに、わたしの耳のあたりをちらりと見てから、あわてて視線をそらす。


「すみません、変なきっかけで。でも、この子がその……」


 トートバッグの口をそっと開ける。


 中から現れたのは、真っ白な小型犬だった。


 首まわりの毛が、ところどころ茶色く変色している。

 目の縁は赤くただれ、瞬きのたびにじくじくと涙がにじんだ。


『いたい。

 ひかりが、いたい。

 あの“ひかり”は、ちがう。

 つよすぎるひかり。

 ここは、すこし、やわらかい』


「目と、皮膚ですね」


 症状を一目見て、つい口に出る。


「はい……。

 近くの病院にも行ったんですけど、“体質ですね”“シャンプー変えて様子見ましょう”って言われるだけで。

 夜になると、目が開けられないくらい痒がっちゃって」


 女性は、申し訳なさそうに笑った。


「正直、“エルフさん”って半分ネタだと思ってたんです。

 でも、写真見せたら、この子がスマホに向かって吠えて……。

 普段、画面なんて興味ないのに、“この人のところがいい”って言ってるみたいで」


『ひかりのにおい。

 むこうの、“なでるひかり”と、ちょっとにてる。

 だから、きてみた』


 「むこう」という言い方に、胸の奥が一瞬ざわつく。


 神殿。

 聖獣と呼ばれた存在たちの、あの独特の気配。


 目の前の犬の声の中に、ほんのわずかだけ、それと似た匂いが混じっていた。


 ――でも、今は思い出している場合じゃない。


「受付表、お預かりしますね。

 順番になったらお呼びします」


 いつも通りの声を出しているつもりなのに、指先がほんの少し震えているのが自分でも分かった。


 


 午前の診察が始まる。


 白い犬――チロという名前らしい――は、すぐに診察室に呼ばれた。


 診察台の上で、チロは小さく身体を縮める。


『つるつる。

 きのにおいは、すき。

 でも、ここは、すこしこわい。

 でも、“こわい”のむこうに、“たすけて”があるの、しってるにおい』


 院長が目のまわりをそっとめくり、ライトを当てる。


「……結膜炎だけじゃねぇな。

 アレルギー+慢性の皮膚炎。涙やけもひどい。

 前の病院では血液検査とか、アレルギー検査は?」


「いえ……。“検査するほどじゃないですよ”って」


「なるほどな」


 院長は、カルテに何かを書き込みながら続けた。


「ここから先の細かいアレルギー検査は、潮見台センターのほうが早いし安定してる。

 ただ、“この子に何がどれだけつらいか”は、今ここでも聞ける」


 そう言って、こちらを見る。


「リリ」


「はい」


 チロは、わたしをじっと見上げていた。


『たべるのは、すき。

 おやつも、ごはんも、ぜんぶ、すき。

 でも、“あとでくる”かゆいのは、きらい。

 でも、“たべないと”、あのひとが、かなしい。

 かなしいかお、みたくない』


 声の断片が、次々と頭に流れ込んでくる。


 飼い主が笑う瞬間。

 ソファの上で抱きしめられる感触。

 カメラのシャッター音。

 フードのカラカラいう音。


 それと同時に、痒み。

 瞼の裏側を針でなぞられるような、じりじりとした痛み。


「チロさん、多分、食べ物と環境、両方がつらいです。

 “ごはんもおやつも好きだけど、そのあと来る痒みは嫌い”って言ってます」


 女性が、はっと息を呑んだ。


「……ごはんのあと、決まって目を掻き始めるんです。

 それで、“でも食べてるときはこんなに嬉しそうだから”って、つい……」


『“よろこぶかお”を、みていたい。

 かゆいけど。

 でも、“きょうまで”でいいなら、がまん、する』


 チロの声が、少しだけ震えた。


「あと」


 わたしは、そっと続ける。


「“この世界の光は強すぎる”って。

 お散歩のとき、アスファルトの照り返しとか、蛍光灯の光が、かなりつらいみたいです」


「……この子、夜のお散歩は元気なんです。

 昼間はすぐ座り込んじゃうのに。

 “わがままかな”って思ってたけど……」


 女性の目に、じわりと涙がにじんだ。


 院長は、軽く咳払いをした。


「検査の話をするぞ。

 選択肢は二つだ」


「二つ……」


「一つは、うちでできる範囲の血液検査と、生活環境の調整。

 フードを変えて、シャンプーを変えて、薬を出して、様子を見ていくコース。

 もう一つは、潮見台センターでアレルギーのパネル検査まで一気にやるコースだ」


 院長は、机の上に二枚の紙を並べた。


「検査にかかる金額と、かかる時間はこう。

 こっちがうち。こっちが潮見台」


 女性は、真剣な顔でそれを見比べた。


「……そんなに、違うんですね」


「機械と人の数が違うからな。

 向こうは“何十頭分まとめて処理する”前提の価格設定をしてる。

 その代わり、“その場で生活の相談に乗る時間”は、ここより短いだろう」


 淡々とした説明だった。


 そのあいだも、チロはじっとわたしのほうを見ている。


『どっちでもいい。

 “かゆくないほう”なら、どっちでも。

 でも、“あのひと”があとで、“やっぱりあっちにすればよかった”って、くやしいきもちになるのは、きらい。

 だから、“あとでくやしくならないほう”がいい』


 その言葉を、そのまま伝えた。


 女性は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……正直、潮見台センターのほうが“安心なんだろうな”って、ここに来る前は思ってました。

 大きいし、新しいし、夜もやってるし。

 でも、“この子が何をつらいと思ってるか”をちゃんと聞いてもらえるのは、ここなんだなって」


 顔を上げる。


「先生。

 検査の一部は潮見台でお願いしてもいいですか?

 でも、通うのと相談するのは、ここで続けたいです」


 院長は、ふっと笑った。


「それでいい。

 アレルギーのパネルは向こうに頼んで、結果はこっちで一緒に見る。

 “二つの病院をどう使うか”決めるのは飼い主だ」


「……ありがとうございます」


『ふたつ。

 しろいところと、きのドアのところ。

 どっちも、“そんなにわるくない”なら、べつにいい』


 チロは、ほっとしたように小さくあくびをした。


 


 お昼を過ぎて、診察が一段落したころ。


 休憩室でお弁当をつついていると、廊下から聞き慣れない声がした。


「失礼しまーす、“ライフペット総合医療センター潮見台”の者ですが」


 院長がため息をつく気配がする。


「来たか」


 受付に戻ると、待合室に見慣れないスーツ姿の男性と、若い獣医師らしい女性が立っていた。


「初めまして。センターの開院準備から広報を担当している者です。

 先日から、こちらの病院の名前がSNSでよく挙がっていまして」


 マコさんが、露骨に口元を引きつらせる。


「やっべ、“公式さんが見てる側”が来ちゃった」


「お前が原因だ」


 院長が小声でつぶやく。


 男性は、にこやかに名刺を差し出した。


「センターとしては、地域のかかりつけの先生方と、きちんと連携を取っていきたいと考えておりまして。

 救急や高度検査はこちらで、普段の診察やフォローは先生方で、という形で」


「“全部うちで完結します”じゃなくてか?」


 院長が意地悪そうに返すと、男性は一瞬だけ目を泳がせ、それからまたにっこり笑った。


「時代的に、ワンストップを打ち出さないと集客が難しいものでして。

 実態としては、“連携前提”のほうが現実的だと思っております」


 隣で控えていた若い獣医師が、ちらりとこちらを見た。


「エル……その、リリさん、ですよね」


「はい」


「さっき、うちにいらっしゃったチロちゃんの件、助かりました。

 “おうちでの様子”を、すごく具体的に教えてくださったって、飼い主さんが」


 丁寧に頭を下げられて、少し戸惑う。


「いえ……。わたしは、ただ、聞こえたことを」


「それが、いちばん難しいんです」


 獣医師の女性は、少しだけ笑った。


「検査も機械も、うちにはいくらでもありますけど。

 “あの子がどんなふうに暮らしてきたか”までは、機械が教えてくれないので」


 院長が、鼻を鳴らした。


「まあ、うちとしては、“使えるもんは何でも使う”方針だ。

 検査も機械も、変な耳もな」


「最後のは余計です」


 思わず抗議すると、待合室の空気が少しだけ和らいだ。


 


 その日の診察がすべて終わって、シャッターを半分降ろした頃。


 受付カウンターに戻ってスマートフォンを見ると、通知はまだ途切れていなかった。


> 「今日行ってきました! エルフさん優しかった」

> 「センターと迷ったけど、話を聞いてもらえてよかった」

> 「うちはまずセンターで検査してもらって、その後ここで相談する予定です」


 いろんな「選び方」が、コメント欄に流れている。


「……なんか、すごいですね」


 ぽつりと言うと、隣でマコさんが伸びをした。


「“バズったら終わり”じゃなくて、“バズったあと何見せるか”が勝負っすからね〜。

 次は、先生と動物たちの写真も撮りましょ。

 “エルフがいる病院”じゃなくて、“ちゃんと診てくれる病院”って印象、上書きしてこ」


「エルフは、ついででいいです」


「ついでにしては、耳の主張が強いんすよねぇ」


 マコさんが、わたしの耳の先をじっと見つめる。


『ぴょこ。

 ここは、“まちのにおい”と、“しろいかべのにおい”が、まざるところ。

 どっちのにおいも、きらいじゃない』


 犬たちの声が、閉じかけたシャッターの向こうから、まだかすかに聞こえている。


 エルフがいる病院、という噂。


 軽い冗談みたいに広がった言葉が、

 街の人たちと、もう一つの白い病院と、そのあいだにある「選び方」まで、少しずつ変えていく。


 その真ん中で、わたしはまた、明日の受付に立つことになる。

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