弟が生き返った日

羽虫十兵衛

穴の中から

 六月十日 (火) 曇り


 山の斜面にダラダラと伸びた、ひどくぬかるんだ獣道の先に、目指す神社はあった。足元に絡みつく青草、むっとする草いきれが、ここは人の来るところではないと抗議しているかのようだ。僕は泥に足を取られて転ばないよう、木に手をかけながら慣れた小山を上っていった。


 斜面を上りきると、急に人工物が現れる。石段に、赤い塗装のはげかけた鳥居だった。上部にかかった額には「大成神社」とある。それがタイジョウと読むのかオオナリと読むのか僕にはわからない。ただ、この読み方も知らない古い神社が、あらゆる意味で特別な場所であることには違いなかった。


 境内に入ると、人気のないさびれた風景が出迎えてくれた。苔むした石畳の先に、これもまた古びた本殿があり、大きなケヤキが屋根や石碑に真新しい青葉を落としている。この木の下で人が死んだといっても、まさか誰も信じないだろう。

 本殿の裏手には、まばらに草木の伸びた崖がそびえ、その下に防空壕か熊のねぐらを思わせる真っ黒な穴が開いていた。僕のような小柄な中学生なら、簡単に通れる洞穴だ。用があるのは、その穴の中だった。


 僕は持ってきた手さげから白い容器を取り出すと、お供えでもするかのように地面に置いた。中身は市販の豚肉だ。奥に向かって呼びかける。


「おーい、ご飯だよ」


 洞内に悲鳴のような吠え声が響き、砂を踏む足音が近づいてくる。闇の中に白い影がぼうっと浮かび、白骨のような痩せこけた腕が伸びてくる。腕は肉を乱暴につかむと、再び奥へ消えた。

 それから、生肉を口いっぱいにほおばっているのだろう、食事の音が聞こえてくる。あの頃もそうやってご飯を食べて、ハムスターみたいだと笑われていた。

 少しして、食事の音がやんだ。うなるような声がして、足音が近づいてくる。絶対に外に出るなと命じてあるのに、は時々こうして出てきてしまう。


「こらっ、出ちゃダメだって!」


 僕は止めたが、足音は止まらなかった。白い影は這い出すようにのっそりと、その不気味な姿を現した。

 出てきたのは、裸の子供だった。肉付きが悪く、ほとんど皮と骨ばかりの瘦せ細った体つきだ。腹はへこみ、あばらが浮いて、脚は腕と同じくらいに細い。髪はぼさぼさで目が落ちくぼみ、唇がない。むき出しになった黄色い歯の間から、ひび割れた肌に絶えずよだれが垂れていた。

 うつむき加減だった子供は、僕の姿を認めると不意に顔を上げた。長い髪の間から、白い目がのぞく。この子には黒目がない。いつも死んだ魚のように白目をむいて、だからどこを見ているのかわからない。

 子供は入口の方に向き直り、立ち止まった。洞穴と参道の間には本殿があるから、ここから入口は見えない。しかしこの子には何が見えているのか、じっと見澄ましている。


「ゴ、ハン」


 かすれた声は子供ではなく喉をやられた病人のそれだ。口の中から、赤く腫れた歯茎にも劣らない、どす赤い舌がのぞく。今にも折れそうな細い足でふらふらと歩きだすのを、僕は急いで止めた。


「止まれっ!」


 子供は足を止めてこちらを振り向いた。大きな目からは何の表情も読み取れない。


「穴に戻って。勝手に出てきちゃだめだぞ」


 洞穴を指さすと、子供はおとなしくそれに従った。ぬかるんだ地面についた足跡は、よく見ると指が四本しかない。

 子供が隠れるのを見て、僕は本殿の陰からそっと入口をうかがった。鳥居の向こうに、背の高い影が揺れた。枝や動物ではない、人だ。僕の視線に気づいたのか、あわてて逃げてゆく。しまったと思ったが、もう遅い。

 急いで境内に出てみると、来るときにはなかった足跡が点々と残っている。参道から本殿横のケヤキに続いて、また出口に向かっているようだ。大木の後ろから僕たちを見ていたということになる。もしかすると、携帯で撮影されていたかもしれない。

 背中に冷たい汗が流れるのがわかった。すぐにここを離れなくてはならない。僕は黒いキャップのつばをぐっと下げ、周囲に誰もいないことを確認しながら、小高い山を慎重に下り始めた。


 雲の切れ間から眩しい夕日が差し込んで、通りを行き交う人たちを照らしていた。僕は大通りと人目を避け、細い一方通行の路地をわざと選んで自宅マンションに帰った。

 帰る途中、頭はさっきのことでいっぱいだった。ご飯をあげているところを見ていたのは誰だろう。僕の知っている人か、知らない人か。どうやってあの神社を知ったのだろう。……もし僕達をおびやかすのなら、いっそ祠の力を頼るしかないか。


 考え事をしながらエレベーターを降りたとき、外廊下で太った年配の女性と行き合った。女性は僕の姿を見ると、見かけによらない甲高い声で呼びかけてきた。


「泉ちゃん?」


「あ、おばさん。こんにちは」


 マンション管理人の勝浦かつうらさんだった。長い付き合いで、幼い頃からいろいろと面倒を見てもらっている。最上階の掃除を終えて管理室に戻るところだったのだろう、腰に雑巾を数枚ぶら下げていた。勝浦さんは太い眉根を寄せ、心配そうな顔で言った。


いつきくん、まだ見つからない?」


「はい。みんな必死に探してくれているんですけど、まだ……」


「かわいそうにねえ。最近特に物騒だから、早く見つかってほしいわよ」


「…………」


 樹というのは、小学五年生になる僕の弟だ。今は家にいない。先月から行方がわからなくなっているのだ。書置きもなく、身代金を要求する電話もかかってこないことから、不慮の事故に遭遇したか、さもなければ近頃話題の「A町野良猫殺し」の犯人に狙われたのではないかとも噂されている。


「この前もねえ、川のむこうで小学生が見つけちゃったんだって、猫の死体。それで警察が出てくる騒ぎになって……あら、ごめんなさい。泉ちゃんの前でする話じゃなかったわね」


 僕はよほど暗い顔をしていたのだろう、勝浦さんは申し訳なさそうに謝り、いつでも相談にいらっしゃいと言って去っていった。僕は後ろ暗い気持ちでその背中を見送った。ここにも樹を心配してくれる人がいると思うと、改めて胸をえぐられる思いだ。


 部屋に戻ると、誰もいなかった。玄関の電気をつけてもがらんとした部屋が物寂しい。

 樹がいなくなってから、家の中は静かになった。朗らかな笑い声も、夜ふかしを叱る声も聞こえない。その代わり、冷蔵庫や時計の針が動く無機質な音がやたらと耳につくようになった。

 自分の部屋に入り、僕は真っ先にゴミを処分した。生肉の容器は黒いポリ袋に詰めてゴミ袋の一番下に捨てる。泥のついた靴は洗ってベランダの室外機の陰に干しておく。次また使うのは、あの神社に行く時だ。


 ベランダの手すりから見下ろすと、はるか階下で蛍光色の服を着た一団が歩いているのが見える。最近増え始めた、町内パトロールの人たちだ。もしかしたら、あの中にお母さんもいるかもしれない。僕は焦りと不安の入り交じった複雑な気持ちでそれを眺めた。


 地域の見回りが増えたのには、事情がある。このA町では、先月から野良猫が殺される不気味な事件が相次いでいた。樹の「失踪」も相まって、両親や住民の不安は高まっている。町内会では有志をつどい、樹の捜索を兼ねた安全活動を実施しているのだ。

 この野良猫の虐殺事件は、かなり異質だった。犠牲となった猫たちは、みな一様に強い力で体を噛み裂かれていた。もっと言えば、むごたらしく食い殺されていた。

 当初、どこからか逃げ出した闘犬による仕業と考えられたこの事件は、歯形や傷の形状から、すぐに人間による犯行と断定された。地元メディアやSNSでも一時話題となったほどだ。


 犯人が一体どんなやつか、誰もが好き勝手に想像し合っていた。いわく、夜な夜な猫を食い殺しに出かける精神異常者だとか。いわく、親に愛されなかった悲しみを動物虐待でなぐさめる若い女だとか。それだけでホラー映画をひとつ作れそうな設定が、次々と考えだされた。

 だけど本当の正解にたどり着く者はどこにもいない。光のない洞穴にひそむ、やせ細った哀れな怪物の仕業だとは、誰も思わないのだ。ましてその発端を作ったのが僕だとは、考えもしないだろう。


 僕はベランダを出て、窓を閉めた。生暖かい夜の空気がぐっと濃くなり、喉の奥にねばりつくようだ。

 その時、ポケットにしまっていたスマホにLINEの通知が来た。何気なくメッセージを開いた時、全身の血が凍りついた。そこには画像とともに一通のメッセージがそえられている。


 <これ何?>


 画像には、僕が映っていた。正確には僕の背中だ。その隣には裸の白い子どもがこちらを向いて立っている。大成神社で撮られた写真に違いない。角度からして、本殿横のケヤキから撮影されたものだ。

 送信者を確認する。名前はMASATO。アイコンは漫画の一コマ。すぐにわかった。こいつだ。あの時、神社から逃げていったのは同級生こいつだったのだ。


 これを送って来た理由は何だろう。もう誰かに共有したのか。スマホを持つ手に汗がにじむ。鼓動が早くなり心音が聞こえる。その緊張と恐怖の裏で、冷静に状況を計算している自分がいる。


 ――――上手くやれ。こいつは使えるかもしれないぞ。


 心の声はそう言っている。その通り、こいつは適格かもしれなかった。あの大成神社にささげる「生贄」として、これ以上ないほどに。

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