第4話 追憶の赤 ①

 兎木緒ときお 翔琉かけるがまだ、一人の無垢な少年であった頃の話だ。


 時計の針を、今から十六年前へと巻き戻す。


 季節は初冬。海果月みかづき県の山々は、燃えるような紅と鮮烈な黄に染め上げられ、その色彩のピークを迎えていた。

 海果月市の郊外に位置する市営団地、C5棟。昭和の高度成長期に建てられたその無機質なコンクリートの塊は、天頂から傾きかけた太陽に照らされ、地面に濃く短い影を落としている。

 団地の階段を駆け上がる、弾むような足音があった。

「おばあちゃん、ただいまー!」

 向かいの団地まで響き渡りそうなその声の主は、翔琉かける、当時九歳。

 小学三年生に進級してからというもの、彼を取り巻く世界は輝きに満ちていた。クラス替えで気の合う新しい友達がたくさんでき、放課後の約束が手帳代わりの頭の中を埋め尽くしている。学校へ行くのが楽しくて仕方がない、そんな年頃だった。


 通学路として決められた舗装道路を通らず、あえて田んぼのあぜ道をショートカットして帰ってきた翔琉の運動靴は、泥の塊のようになっていた。

 玄関でその惨状を目にした祖母の慶子けいこは、呆れながらも温かい笑みを浮かべた。

「あらあら、翔琉かけるちゃん。また泥んこになって。おかえりなさい」

 慶子は、翔琉にとって唯一無二の保護者だ。翔琉がまだ二歳の頃、両親は交通事故で帰らぬ人となった。以来、母方の祖母である彼女が、女手一つで翔琉を育て上げてきたのだ。

 白髪の混じった髪を後ろで束ね、割烹着を着た慶子の姿は、翔琉にとって「安心」そのものだった。彼女は日課となった靴洗いのためにバケツを用意しながら、愛おしそうに孫を見つめた。

「おやつは台所の戸棚にありますよ」

「ありがとう、ばあちゃん!」

 ランドセルを放り出し、台所へ走る翔琉。

 この頃の彼は、まだ自身の特異体質を自覚しておらず、どこにでもいる、ごく平凡でやんちゃな小学生に過ぎなかった。

 他人と違う点があるとすれば、両親がいないこと。そして、時折ふらりと現れる「ある男」の存在くらいだろうか。


「おーい。翔琉、いるかー?」


 玄関先から、しわがれた、しかし妙に軽薄な声が聞こえた。

 父親の弟にあたる叔父、竜也たつやだ。当時三十二歳。

 定職には就かず、近所の安アパートに住んでいる彼は、平日の昼間だというのに顔をほんのりと桜色に染めていた。安酒の甘ったるい匂いが、玄関の空気に混じる。

 竜也は、亡くなった兄の息子である翔琉を心配して訪ねてくるような素振りを見せる。だが、その実態は、身寄りでありながら血の繋がりがない慶子に対し、生活費の無心に来ているに過ぎなかった。

 しかし、九歳の翔琉にそんな大人の薄汚い事情など分かるはずもない。彼にとって竜也は、たまに遊びに来てくれる「面白いおじさん」だった。


「あ、竜也おじさん! いらっしゃい!」

 おやつの煎餅を口に咥えたまま、翔琉が玄関へ飛び出す。

「よう、翔琉。元気してたか? ……おっ、そういえば今日もお菓子があるぞ」

 竜也はニヤリと笑うと、擦り切れたジーンズのポケットに手を突っ込んだ。奥の生地をつまんで強引に裏返すように引っ張り出すと、包み紙に包まれたキャンディーや、安っぽいラムネが数個、ポロポロとコンクリートの床にこぼれ落ちた。

「ほうれ。持ってけドロボー」

「わあ! おじさん、ありがとう!」

 翔琉は目を輝かせ、地面に散らばった色とりどりの菓子を拾い上げた。

 優しいおじさんが、自分のためにわざわざ買ってきてくれたのだと信じて疑わなかった。だが実際は、竜也が入り浸っているパチンコ屋で、換金の端数合わせとして渡された余り物に過ぎない。ポケットの中で煙草の屑と一緒に揉まれていた菓子だ。


 翔琉がお菓子拾いに夢中になっている隙に、竜也の視線は台所から出てきた慶子へと向けられた。声のトーンが、じっとりと湿ったものに変わる。

「慶子さん、いつも翔琉の面倒を見てくれてありがとうねぇ。……ところで、今日も少しいいですか? ねっ、俺たち家族なんだからさぁ」

 竜也は人差し指と親指の腹を重ね、何度もこすり合わせた。銭(ぜに)のジェスチャーだ。

 その卑屈な笑みの奥には、「兄貴の遺児を育てさせてやっている」という無言の圧力が潜んでいた。

 気弱で争いごとを好まない慶子は、眉尻を下げて困惑した表情を浮かべたが、拒絶の言葉を口にすることはできなかった。

「……少しだけですよ」

 慶子は小さく溜息をつき、エプロンのポケットから小銭入れを取り出すと、千円札を二枚、竜也に手渡した。

 竜也はそれを受け取ると、一瞬だけ口をへの字に曲げた。二千円。パチンコの軍資金にするには心許ない金額だという不満がありありと顔に出たが、すぐに愛想笑いの仮面を被り直した。

「へへ、すいませんねぇ。助かりますよ。じゃ、翔琉、またな」

 言うが早いか、竜也は逃げるようにその場を立ち去っていった。

 翔琉は両手いっぱいの菓子を抱え、竜也の背中に向かって大きく手を振った。

「バイバーイ! また来てね!」


 祖母からもらった煎餅と、竜也からもらった粉っぽいラムネをすべて胃袋に収めると、翔琉は満ち足りた気分で立ち上がった。

「ばあちゃん! 遊び行って来る!」

「はーい。暗くならないうちに帰っておいで」

 慶子の優しい声を背中で受け止めながら、翔琉は再び外の世界へと飛び出した。

 今日は、学校の友達数人と近くの空き地で野球をする約束をしている。高鳴る鼓動に合わせて、翔琉の足取りは軽かった。

 団地の敷地を抜け、大通り沿いの歩道を駆けていく。


 運命の歯車が狂い出したのは、その直後のことだった。


 突如として、突風が吹き荒れた。


 ゴオォォォォォッ!!


 ビル風と木枯らしが衝突して生まれたかのような、強烈な一撃。翔琉がかぶっていたお気に入りの野球帽が、あっけなく空へと舞い上がった。

「あ!」

 翔琉は慌ててその行方を目で追った。帽子は風に煽られ、クルクルと回転しながら前方へと飛んでいく。

 その視線の先に、一人の若い女性が歩いていた。

 白い清楚なワンピースを着た、お姉さんだ。

 風の悪戯は、翔琉の帽子を奪うだけでは飽き足らなかったらしい。その猛烈な風圧は、前を歩いていたお姉さんのフレアスカートをも、容赦なく、そして盛大にまくり上げた。


 バッッッ!


 時間が止まったようだった。

 翔琉の視界いっぱいに、鮮烈な「赤」が飛び込んできた。

 純白のワンピースの下に隠されていた、情熱的な深紅の下着。繊細なレースの模様までもが、スローモーションのように脳裏に焼き付けられる。

 ウブな少年・翔琉にとって、それは衝撃以外の何物でもなかった。

 テレビや漫画でしか見たことのない、大人の女性の神秘。それが今、現実の光景として目の前にさらけ出されている。

 異性への興味が芽生え始めていた小学三年生。その現実離れした、背徳的かつエロスな光景に、思考回路は完全にショートした。


 (す、すげえ……)


 だが、その奇跡的な瞬間は、ほんの一瞬で終わってしまった。風が止み、スカートは重力に従って元の位置へと戻る。

 あまりの出来事に状況を理解しきれず、翔琉は呆然と立ち尽くした。

 もっと見たい。今のは何だったんだ。夢か? 幻か?

 混乱する脳が、無意識のうちに身体反応を引き起こす。

 乾いた眼球を潤すために、あるいは現実を確認するために。

 翔琉は、素早く三回、瞬きをした。


 パチパチパチ


 その直後だった。

 世界が歪んだ。

 吐き気を催すような浮遊感が翔琉を襲い、視界の景色がビデオテープを急速に巻き戻すように流れた。音が逆再生の不協和音となって鼓膜を叩く。

 グニャリと景色が裏返り――。


 気がつくと、翔琉は数メートル手前の歩道に立っていた。

 頭には、飛んでいったはずの帽子がかぶられたままだ。

 そして目の前には、スカートをまくられていない状態の、白いワンピースのお姉さんが歩いている。

「え……?」

 翔琉は自分の頭に手をやった。帽子がある。

 夢でも見ていたのだろうか。そう思った次の瞬間。


 ゴオォォォォォッ!!


 再び、まったく同じタイミングで突風が翔琉を襲った。

 帽子が飛ばされる。

 そして、風は前方のお姉さんのワンピースを、再び盛大にまくり上げた。


「やっぱり赤だ!!」


 二度目となるその光景を目にして、翔琉は思わず叫んでしまった。

 間違いなく現実だ。そして、さっきと全く同じことが起きている。

 その瞬間、翔琉の幼い頭脳に、電流のような閃きが走った。

 (さっき、マバタキを三回したとき……時間が戻った?)

 マバタキを三回連続して行うと、少しだけ時間を巻き戻せる。

 その仮説は、少年にとってあまりにも刺激的すぎた。

 自分は超能力者なのかもしれないという、選ばれし者特有の全能感。

 そして何より、一瞬で終わってしまうはずのあの「ラッキースケベ」な光景を、何度でも見ることができるという興奮。

 理性を凌駕する好奇心が、翔琉の自制心を破壊した。

 彼は震えるまぶたを、再び閉じた。


 パチパチパチ


 世界が裏返る。帽子が頭に戻る。風が吹く前の一瞬へ。

 ゴオォォッ! めくれるスカート。鮮やかな赤。


 パチパチパチ

 (すごい……! 本当に戻った!)

 綺麗な赤だ。さっきは見えなかった細部まで見える。


 パチパチパチ

 (横の部分、紐になってるんだ……)

 大人の下着とは、こんなにも複雑な構造をしているのか。


 パチパチパチ

 (花柄の刺繍がある。薔薇かな?)

 風の角度まで計算に入れ、翔琉はベストポジションを探して立ち位置を微調整し始めた。


 パチパチパチ、パチパチパチ、パチパチパチ、パチパチパチ……。

 翔琉は繰り返した。

 そう、何度もだ。それこそ、まぶたの筋肉が引きつり、痙攣を起こしそうになるほどに。

 十回、二十回、三十回……。

 五十回は繰り返しただろうか。

 同じ十秒間を永遠にループし続け、その赤い布切れを脳裏のフィルムに焼き付けた翔琉。

 だが、興奮がピークに達し、ひとしきり満足感が満たされたとき、ふと冷ややかな疑問が頭をもたげた。


 (……もしかして、僕はこの時間の繰り返しから、一生抜け出せないんじゃないか?)


 その思考が浮かんだ瞬間、背筋が凍りついた。

 永遠にこの風の中に閉じ込められ、大人になることもなく、ただスカートがめくれる瞬間だけを見続けて生きていくのか?

 それは地獄だ。

 強烈な恐怖心が翔琉を襲った。

 彼は慌ててマバタキをするのを止めた。目をカッと見開き、時間の流れに身を任せる。

 風が止んだ。

 目の前のお姉さんは、「キャッ!」と短く叫んでめくられたスカートを両手で押さえた。そして顔を赤らめながら辺りをキョロキョロと見回し、誰にも見られていないことを祈るようにして、足早にその場を去っていった。

 お姉さんの背中が遠ざかっていく。

 時間は、進んでいた。


「はぁ……はぁ……」

 翔琉は膝に手をついて荒い息を吐いた。

 心臓が早鐘を打っている。

 こうして翔琉は、人生で初めての能力使用を終えた。

 地面に落ちていた帽子を拾い上げ、埃を払う。

 一瞬襲ってきた恐怖心は、時間が正常に進んでいるという安堵感と共に、急速に薄れていった。

 代わりに湧き上がってきたのは、抑えきれない高揚感だった。

 (僕にはすごい力がある。時間を戻せるんだ!)

 まだ想像力が乏しく、倫理観も未発達な子供の翔琉には、この能力がもたらすリスクや代償など理解できるはずもなかった。

 彼の頭の中は、この魔法のような力を、次はどうやって遊びに使ってやろうかというワクワク感だけで満たされていた。

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