第4話

竜王ドラグラス、胃痛の旅

 大陸の遥か上空、雲を突き抜けた高みに、竜人族の隠れ里がある。

 その最奥にある玉座で、竜王ドラグラスは深い溜め息をついていた。

「はぁ……胃が痛い」

 彼は眉間のシワを揉んだ。

 見た目は渋いナイスミドル(角と尾はあるが)だが、その心労は計り知れない。

 『古の栄光を取り戻すべし』と息巻く長老連中と、『都会に出て冒険者デビューしたい』と反抗する若者たちの板挟み。竜王とは名ばかりの、苦労の連続だ。

「今日はもう寝ようか……」

 そう思った矢先だった。

 

 ズクンッ。

 心臓を鷲掴みにされるような衝撃が走った。

 ドラグラスは玉座から飛び起きた。全身の鱗が逆立つ。

 

「なんだ、今の波動は……!?」

 間違いない。これは『始祖』の気配だ。

 遥か神話の時代、天使と悪魔さえもひれ伏させた、全ての竜の原初にして頂点。

 もしその気配が敵意を持ったものなら、一族再興どころではない。世界が終わる。

「場所は……辺境か! 行かねばならん、今すぐに!」

 ドラグラスは窓から飛び出し、巨大な黒銀の竜へと変身した。

 音速を超え、風を切り裂き、震源地へと急降下する。

 胃の痛みなど忘れていた。今はただ、種の存続に対する根源的な恐怖だけがあった。

 †

 震源地に近づくにつれ、ドラグラスは戦慄した。

 眼下に広がる森の一部が、まるで定規で引いたように**「消滅」**していたからだ。

 焼け野原ですらない。そこだけ空間ごと抉り取られている。

(始祖様のブレスか……! なんて威力だ。全盛期の私でも山一つが限界だぞ)

 ドラグラスは慎重を期すため、空中で人の姿に戻り、森の端に降り立った。

 いきなり竜の姿で降りて、始祖様の不興を買えば即死だからだ。

 彼は冷や汗を拭いながら、震源地と思わしき開拓地へと歩を進めた。

 そこで彼が見たものは。

「ブヒッ、ブヒッ!(水やり完了であります!)」

「ブーッ!(こっちの雑草も抜きました!)」

 満面の笑みで農作業に勤しむオークの群れ。

 そして、簡素な小屋の縁側で、日向ぼっこをしている一匹の黒いトカゲと、その腹を撫でている人間の男だった。

(あ、あれが……始祖様!?)

 ドラグラスの膝が震えた。

 間違いない。あの小さな体から漏れ出る覇気は、世界を圧殺するほどの質量を持っている。

 だが、それ以上に信じられないのは、その隣にいる人間だ。

 あろうことか、始祖様の聖なる腹を、あんな無造作に撫で回している。

(あ、あの男は何者だ!? 魔王の変装か? いや、魔力はほとんど感じない。だが、始祖様が心を許している……)

 ドラグラスが呆然と立ち尽くしていると、男がこちらに気づいた。

「おや? またお客さんかな」

 男が爽やかに声をかけてくる。

 その瞬間、縁側のトカゲ――始祖竜が、片目を開けてドラグラスを見た。

『――――』

 視線だけで殺される。

 ドラグラスの本能が警鐘を鳴らした。

 彼は反射的にその場に崩れ落ち、額を地面に擦り付けようとした。

「は、ハハァッ……!!(始祖様におかれましては……)」

 だが、その土下座は未遂に終わった。

 男が駆け寄ってきて、ドラグラスの肩を支えたからだ。

「おいおい、大丈夫かおっさん! 顔色が真っ青だぞ!」

「え……?」

 ドラグラスは顔を上げた。

 男――カイトは、心配そうにドラグラスの顔を覗き込んでいた。

「すごい脂汗だ。道に迷ったのか? それとも腹が減って動けないのか?」

「あ、いや、私は……」

 ドラグラスは混乱した。

 この男、竜王である自分の覇気を感じないのか?

 いや、それ以前に、後ろで始祖様が「あくび」をしているのに、なぜこんなに平然としていられる?

「ふらふらじゃないか。ちょっと待っててくれ、今食べるものを出すから」

 カイトはそう言うと、畑の方へ走っていった。

 ドラグラスは動けなかった。始祖様が、ジッとこちらを見ているからだ。

 その視線は『おい若造、余計なことをしたら灰にするぞ』と言っているようで、ドラグラスは直立不動で待つしかなかった。

「お待たせ。これ、食えるか?」

 戻ってきたカイトが差し出したのは、バレーボールほどもある巨大なキャベツだった。

 朝露に濡れ、瑞々しく輝いている。

「これは……キャベツ、か?」

「ああ。調理してる時間がないから、丸かじりで悪いけど。ウチのは甘いから生でもいけるよ」

 ドラグラスはゴクリと喉を鳴らした。

 毒見など無意味だ。この男がその気になれば、始祖様を使って自分など瞬殺できるのだから。

 彼は意を決して、キャベツに齧り付いた。

 シャクッ!

 小気味よい音が響いた瞬間。

 ドラグラスの脳髄を、青空のような衝撃が突き抜けた。

「――っ!?」

 美味い。

 ただの野菜ではない。噛みしめるたびに、優しく濃厚な甘味と、大地の生命力が口の中で爆発する。

 そして何より、飲み込んだ瞬間、胃の中に溜まっていた重苦しいストレスと痛みが、雪解けのように消えていくのを感じた。

(なんという癒やしの力だ……! 最高級のエリクサーよりも効く。長老会との口論で空いた胃の穴が、塞がっていくぞ……!)

 気付けば、ドラグラスの目から涙が溢れていた。

「う、うまい……。こんなに美味いものは、数百年ぶりに食べた……」

「そ、そこまで泣くほどか?」

 カイトが驚いたように言った。

 ドラグラスは止まらなかった。キャベツを貪り食いながら、日頃の激務の辛さや、一族の行く末への不安が、全て浄化されていくのを感じていた。

「ありがとう……ありがとう……」

 一個丸ごと完食した頃には、ドラグラスの顔色は見違えるほど良くなっていた。

 肌にはツヤが戻り、背筋も伸びている。

「いやあ、元気になったみたいで良かったよ。おっさん、苦労してるんだな」

 カイトがお茶(これまた最高級茶葉)を差し出しながら、しみじみと言った。

 ドラグラスは深く頭を下げた。始祖様への畏怖もあったが、それ以上にこの男への感謝が勝っていた。

「……私の名はドラグラス。しがない一族の長をしている者だ」

「俺はカイト。こっちはペットのポチだ」

「きゅぅ(げっぷ)」

 ドラグラスは、満足げにゲップをする始祖様を見て、心の中で誓った。

 この場所は聖域だ。

 始祖様がいるからだけではない。このカイトという男と、この野菜がある限り、ここは自分にとって唯一の「胃薬」となる場所だ。

「カイト殿。……また、来てもよろしいか?」

「もちろん。野菜なら売るほどあるし、いつでも歓迎するよ。悩みがあるなら聞くしな」

 ドラグラスは、数百年ぶりに心からの笑顔を見せた。

 

 こうして、世界最強の竜王は、辺境の農家の常連客(野菜中毒者)となった。

 だがカイトはまだ知らない。この「胃痛持ちのおっさん」が、国一つを更地にできる伝説の竜だということを。

「あ、そうだドラグラスさん。帰りにお土産持っていく? 大根もあるよ」

「いただくッ!!」

 竜王の元気な声が、荒野に響いた。

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