『熟れた蜜の音』

さんたな

​プロローグ:『境界線が溶ける夜』

​窓を叩く雨音だけが、この部屋の時計代わりだった。

外は台風の影響で豪雨に見舞われ、山あいの古びた温泉宿は、世界から切り離された孤島のように静まり返っている。

​「……随分と降るわね、桐島くん」

​卓を挟んで向かい側に座る高嶺志保(たかみね しほ)が、独り言のように呟いた。

彼女の手には、冷えた吟醸酒が注がれた猪口が握られている。昼間、社内会議で部下たちを戦慄させる「鉄の女」の面影は、今の彼女にはない。

あるのは、湯あたりしたのか微かに紅潮した頬と、浴衣の襟元から覗く、無防備な鎖骨のラインだけだった。

​「電車、明日の朝まで動かないそうですよ」

​私、桐島透(きりしま とおる)が淡々と告げると、志保は困ったように眉を寄せ、ふう、と熱い息を吐いた。その吐息ひとつで、六畳間の湿度がさらに上がった気がした。

​「貴方と二人きりで足止めなんて……とんだ出張になったわね」

​彼女は苦笑し、猪口を煽った。

白い喉がとくとくと波打ち、酒が彼女の体内に吸い込まれていく。私はその様子を、書類に目を通す時と同じ冷静さで、しかしその奥に獲物を見定める猛禽のような飢えを隠して見つめていた。

​高嶺志保、五十二歳。

その名字の通り、彼女は社内の男たちにとって決して手の届かない「高嶺の花」であり、同時に畏怖の対象だ。

世間一般では「枯れていく」とされる年齢かもしれない。だが、私の目には違って映る。

若い女の肌が未完成な石膏像だとするなら、彼女のそれは、長い年月をかけて磨き上げられ、内側からとろりとした光を放つ白磁だ。

笑うと目尻に刻まれる皺も、少し肉付きが良すぎる二の腕のたわみも、すべてが彼女が積み重ねてきた「女」としての履歴書であり、私の歪んだ情欲を煽る燃料だった。

​「……志保さん」

「……部長と呼びなさい」

「今は勤務時間外です」

​私が少し強い口調で遮ると、志保は虚を突かれたように私を見た。その瞳が一瞬、潤んだように揺れる。

二十九歳の若造だと思っていた部下の目に、明らかな「雄」の色が混じっていることに、彼女も気づき始めていた。この部屋に充満している、ねっとりとした空気の正体とともに。

​「……飲みすぎたかしら。少し、横になるわ」

​その視線に耐えきれなくなったのか、志保が逃げるように立ち上がろうとした。

だが、立ちくらみによろけた拍子に浴衣の裾が乱れ、ふわりと白く豊かな太腿の裏側が見えた瞬間、私の理性は音を立てて千切れた。

​「逃げないでください」

​私は卓を乗り越えるようにして、彼女の手首を掴んだ。

​「っ、何するの……離して、桐島くん!」

「手が、震えてますよ。部長」

​私の指が触れた彼女の脈拍は、小鳥の心臓のように早鐘を打っていた。

拒絶の言葉とは裏腹に、掴まれた手首からは、吸い付くような肌の熱と、期待を含んだ湿り気が伝わってくる。

​彼女はそれ以上抵抗しなかった。いや、できなかったのだろう。

長年、社会的な地位や「高嶺」という名の鎧で守ってきた「女」の部分が、この雨音とアルコール、そして私の不躾な熱視線によって、今まさに暴かれようとしていたからだ。

​「……後悔するわよ。私なんて、もう若くないおばさんなんだから」

​絞り出すような彼女の声は、警告というよりは、懇願に聞こえた。

私を止めてほしいのか、それとも、強引に「そんなことはない」と否定して奪ってほしいのか。

​「後悔? ……まさか」

​私は掴んだ手首を引き寄せ、その内側の薄い皮膚に口づけを落とした。

甘い。

高級な香水と、彼女自身の持つムスクのような体臭が混じり合い、脳髄を痺れさせる香りが立ち上る。

​「今夜、あなたが隠し続けてきたその熟れた果実の味を、骨の髄まで味わわせてもらいます」

​雷鳴が轟き、部屋の照明が一瞬、明滅した。

その闇の隙間で、私たちは上司と部下という仮面を捨て、ただの男と女へと堕ちていった。

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