第3章 仕事を始めて


 いよいよ今日から出勤だ。地図で確認すると、彼の職場は電車で2駅。駅から歩いてすぐ。彼は朝7時20分に家を出た。8時までには着くだろう。

 職場のビルには”IZUMI市役所”と書かれていた。彼は正面のドアを開け、受付に行った。そこにいた女性職員の一人が応対した。

「今日からここで働くことになった緑川ですが、...」

「お待ちしておりました。奥に応接室と書かれた部屋がありますので、そこにお入りになり、中の椅子にお掛けください。そこで少し待っていていただけますか。係りの者を呼びますので」

 緑川は応接室に入り、ドアからすぐのところにあったソファに座った。しばらく待ってると、紺のスーツを着た中年の男が奥の扉から入ってきた。

「お待たせしました。緑川さんですね。総務部課長の山下と申します」

「はい、よろしくお願いいたします」

「それではこの2枚の書類に記入してもらえますか? 本人証明書をお持ちでしたら、預からせていただきます」

 彼が証明書を渡すと、それを持って男は奥の扉から出て行った。緑川が15分ほどで書類の記入を終わると、男は戻ってきた。

「これをお返しします」と言って、彼の証明書を返し、彼が記入した書類を確認した。

「これで結構です。職場にはこの後お連れします。仕事の内容はそこの主任が説明します。何か聞いておきたいことはありますか?」

「給与とか休みとか、知りたいのですが」

「そうですよね。給与は月100万円です。ボーナスは年2回、月給と同じです。保険はありません。必要と思われれば、ご自分で加入ください。休みは有給が年に2週間2回、いつでも自由に取れます。くっつけても、ばらばらでも。もし必要があれば、理由をつけて申請すればもう2週間取ることができます」

「以前に比べればすごく良い待遇です。税金は引き落としですか、自分で申告ですか?」

「給与所得者に税金はかかりません」

「健康保険は?」

「働いている方は保険料を払う必要はありません。無職になると自分で払う必要が生じます」

「わかりました」

「では職場に行きましょう」

 男は緑川を1Fの奥の市民課と書かれた部屋に案内した。少し大きめの部屋で、20人くらいの人が机を並べて、仕事をしていた。

 男は「ここの主任の青井君を紹介します」と言い、奥の個室に入るように言った。

 中には、40代くらいの男がデスクに座っていた。

 男は、「青井主任。新任のこちらが緑川さんです」と言ったあと、部屋から出て行った。

「よろしくお願いいたします」緑川は青井主任に向かって頭を下げた。

「こちらこそよろしくお願いいたします。緑川さんの机はこの部屋を出たところすぐに右にある空いている机がそうです。明日までに処理していただく書類を机の上に積んでおきますので、朝はこちらに8時までに直接お越しください。今日はまだ書類の準備ができていませんので、職場を見学していってください」

「どういう処理なんでしょうか?」

「明日書類が来てから説明します」

「勤務時間は8時から何時ですか?」

「午後4時です。9時から5時でも結構ですよ。昼休みはいずれの場合も12時から午後1時です。制服はなく、服装は自由ですが、住民を相手にする係りはスーツになります。車通勤の場合は事務に申請が必要です」

「8時開始で結構です。通勤は電車を使います」


翌日8時前に仕事場に着いた。机の上にはデスクトップが一台と書類が山積みになっていた。書類を見ていると、青井主任がやってきて、「おはようございます」と言った。

「おはようございます」

「これは未登録のいろいろな種類の申請書です。これを一つ一つこの画面の所定のページに入力お願いします。たくさんありますので、今日全部できなくても結構です。できる範囲でやってください。2ー3か月で仕事に慣れると思いますので、その頃から徐々に仕事の種類が増えますが、当面はこの書類仕事だけです。よろしくお願いします」

 緑川は、青井主任の言葉使いは上司なのにいやに丁寧だなと思った。 

 入力作業はそれほど難しくないが、書類の数が多いので、数日はかかると思った。昼近くになると近くで作業をしていた、若い男性が、「柿本と言います。一緒に昼ごはん食べに行きませんか?」と声をかけてきた。

「よろしくお願いします。緑川と言います。まだ来たばっかりなので、食堂の場所も知らないんです」

「一緒に行きましょう。あと、そこの山本君と、菊田さんもいつも一緒に行きます」

 柿本が二人に声をかけ、それぞれが立ち上がり、緑川とあいさつを交わした。

 柿本が、「我々3人は同期入職で仲がいいんです。我々は26歳です。緑川さんは何歳ですか?」と言った。

「私は28歳です」

「それじゃあ同じ年代ですね。以前のお仕事は?」

「やはり市役所に勤めていました」

「どこの市ですか?」

「横浜市です」

「知らないなあ」

 他の2人も「知らない」と言った。

「遠くから来られたのですね」

「この町の評判が良くて引っ越してきました」

 緑川はあまり突っ込まれたくないので、適当なことを言った。

「そうですか、確かにここは住みやすいと思いますよ。あまり別の町に行ったことがないですが。仕事は同じような感じですか?」

「今日から仕事なのでまだよくわからないです。前は書類仕事以外に、他部門や企業との折衝もあり、結構忙しかったです」

「ここはほぼ書類仕事のみで、そんなに忙しくないと思いますよ。ああ、食堂に着きました」

 そこは100人以上が入れそうな大きな食堂であった。すでに3割がたが埋まっている。入り口にメニューが張り出されている。値段が書いていない。どうやって払うのだろうかと思っていると、柿本が「ここで何を食べるかを考えて、奥の機械でその料理のボタンを押して、その向こうのカウンターのところで待てば、すぐ食事が出て来ますよ。お金はいりません」と言ってくれた。

 入り口から入った所にその機会は何台かあり、数人が列を作っていたが、すぐに順番が回ってきた。カレーライスのボタンを押し、その奥のカウンターのところで待っていると、1分ほどして食事が出てきた。トレーの上にカレーと少しのサラダ、スプーン、水が入ったコップが載っている。

 柿本が、「さあ、空いている席に行きましょう。どこでもいいんですよ」と言った。

 4人の食事がそろうと、柿本が指す空いているテーブルに皆で向かった。

「他にも食堂はあるんですか?」緑川は聞いた。

 柿本が答えた。「1Fから5Fはここだけです。6Fより上にはまた別の食堂があります。行ったことはありませんが。1時までなら外に出て食べてもいいんですよ。自分で払わないといけないですが」

 30分ほどで皆の昼食は終わった。緑川以外の3人は楽しそうによく喋りながら、食事をしていたが、緑川は共通の話題がなく、ほとんど黙って食べた。以前のことをあまり聞かれても困ると思い、会話に入らないようにしていた。

 食事のあと、柿本は、「隣の娯楽室で雑誌や本を読めますが行きますか?」と聞いてきた。

「はい、行きます」

 隣の部屋はやはり大きな部屋で、椅子やソファがたくさん置いてあった。壁にはたくさんの本や雑誌が入った本棚があった。奥の隅には一人用ソファにヘッドフォンとプレーヤーらしき機械がセットになったものが、3セットほど並んでいた。音楽を聴く場所らしい。

 緑川はそのセットのところに行き、機械を見てみた。ジャンル別、年代別に音楽が整理されている。彼はイージ-リスニングを選びヘッドフォンを頭にかけて聞いてみた。音がきれいですごくいい感じなる。彼はAiがそう感じさせているんだな、と思った。1時前になり、部屋を出て自分の席に戻った。3人はもうすでに席に戻っていた。

 柿本が、「楽しめましたか?」と言った。

「良かったです」

「あまりに気持ち良さそうなので、我々は声をかけずに戻ってきました」

「中々いい装置がありますね。癖になりそう」

 柿本は笑いながら、「それは良かったです」


 4時になると、「8時出勤の方は就業時間が終わりました」との放送があった。多くの人はすでに帰る準備を終えていた。一斉に立ち上がり、「お疲れさまでした」や「さよなら」などを掛け合い去っていった。三分の一くらいの人が残っていた。その人たちを残し、緑川は部屋を出た。昼食を誘ってくれた3人はすでに見当たらなかった。

 家に戻り、分厚いほうの説明書でAPとの接し方という項を見た。

<APはそれぞれ与えられた人格を持っている。実社会と同じように接すること。無理を強要したり暴力を振るうと、反撃にあったり、訴えられることがある。>とあった。また、どれ位まで過去のことを話題にしていいかを調べた。

<APは生まれてから今までの記憶を与えられている:APの過去やあなたの過去を話題にしてもかまわない。ただ場所については彼らはあなたのいう地名を知らないし、興味を示さないでしょう。> とあった。

 ついでにシステムについても読んでみた。

<あなたの世界は1つのサブhmAiが1人(APもEHも)の管理を受け持ち、その上にスペリオルAi(SpAi)があり、それがその世界のすべてを構築し、管理している。すべての事象はその世界が該当する実在の社会を参考に起こるよう設計されているが、実際にはスペリオルSpAiの判断による脚色がある。EH各人の味覚、聴覚、視覚、嗅覚、知覚などすべての感覚はサブhmAiが管理するが、考え方や感情はその人独自のものであり、Aiの干渉はない。APも独自の思考や感情を持つ。>

 ん........なるほど、よくできているな、と緑川は思った。


 1か月ほど過ぎ、仕事に慣れてきたころ、柿本と山本から、「今日、もしよければ仕事の後食事に行きませんか?」

 緑川は特に用事もないし、「いいですね」と答えた。

「お酒も出るので、皆一旦家に帰ってから集合しましょう。集合場所は緑川さんの近くの海岸通り駅前のロータリー付近で。6時に」

「わかりました」

 彼は仕事が終わった後、家に帰り、少しイージーな服装に着替えた。まだ早いが、駅前を少し知りたいと思い、早めに家を出た。駅前には約束の15分前に着いた。少し付近を散歩することにした。

 駅正面にはロータリーがあり、車やバスの出入りが忙しかった。ロータリーは中層のビルに囲まれており、その入り口には食べ物屋の看板が並んでいた。近くには、いつも行くマーケットやいろいろな店があり、「ここがこの地域の中心だな」と彼は思った。

 6時になったころ、柿本と山本が電車でやってきた。

 柿本が、「他にも3人ほど来るので、もう少し待ってもらえますか?」

「いいですよ」

しばらくすると、やはり駅から同年代の男3人が出てきた。

 柿本は「来ました」と言い、彼らに手を振った。

 柿本は3人を緑川に紹介した。「これが岡田、こちらが吉井、そして徳本君です。こちらが緑川さん」

「緑川です。よろしくお願いします。皆さんも市役所務めですか?」

 岡田と紹介された人が答えた。「いいえ我々は別のところに勤めています。我々は大学の同級生で時々会っています」

 柿本が「さあ行こう」と言って、駅前の商業ビルの方へみんなを導いた。

 2Fに「オーシャン」というレストランがあった。柿本を先頭に6人はその店に入り、奥の窓際の席の大きなテーブルに向かった。そこには6人の若い女性がすでに座っていた。男6人は向かい合わせに座った。

 柿本が、「お待たせしました。今日はご足労様です。日頃の疲れやうっぷんをこの会で晴らしてもらえたらと思います。とりあえず最初の乾杯のためビールと食事はAコースを頼んでいますので、必要な方は随時追加注文してください。それと、今日は新しい人を連れてきました。緑川さんと言います。我々の同級生ではありませんが、私の職場に新しく来られた人です。緑川さん、よかったら自己紹介していただけますか」

「一か月ほど前にIZUMI市に引っ越して来て、それから役所に勤めさせていただいています緑川と言います。今回柿本さんに誘われて初めて参加させていただきます。よろしくお願いいたします」 

 女性の一人が聞いた。「どこから来られてんですか?」

「横浜というところです」

 女性の何人かが。「知らないわ」と言ったが、それ以上は聞かれなかった。

 一人が、「ここの住み心地はどうですか?」と聞いた。

「街がきれいで、安全で、便利で、言うことないです」

「それは良かった」何人かが言った。

 緑川以外は元々顔見知りのようで、すぐに会話が始まった。緑川はそれには参加できなかったので、ただ人の話を聞きながらにこにこしていた。すぐにビールが来て。乾杯ということになった。

 乾杯の後、向かいに座っていた女性が緑川に話しかけてきた。「私は江沢と言います。緑川さんはどうしてこの会に出席することになったんですか?」

 江沢と名乗った女性は特別美人ではないが、色白の肌がきれいで、大きな目が魅力的だと緑川は思った。

「職場で席が近い柿本さんが誘ってくれたんです。いつもこのメンバーで会ってるんですか?」

「多くは同じですけど、毎回多少の出入りはあります。昨日柿沢さんから山田さんに連絡があり、6人来て欲しいといわれたので、山田さんが6人誘っていました」

「僕は今日昼初めて誘われたんですけど」

 江沢は少し笑顔で、「必ず参加すると柿沢さんは思ったんでしょうね」と言った。

 笑顔もかわいい。

「江沢さんは毎回参加するんですか?」

「私はまだ2回目です」

 料理が運ばれてきた。「じゃあみんな食べましょう」

 多くはそれぞれ話し相手が決まっているようで、食事をしながら対の会話が続いていた。緑川は江沢との会話を続けた。

「僕はまだみんなのことをよく知らないんですけど、これはお見合いコンパみたいなものですか?」いきなりきわどいことを聞くのもどうかと思ったが、一応聞いてみた。

「みんな独身なので、多少そういう気持ちで来ている方もいるでしょうね。人数も男女同数ですし。柿沢さんと山田さんが2年前にこの会を作ったそうですけど、まだ誰も結婚した人は出ていません」

「今日来られている女性の方は皆同じ職場ですか?」

「一人、一番向こうの人、を除いては皆同じ病院で働いています。向こうの方は元々山田さんお友達らしくて、どこで働いているかは知らないんです」

「江沢さんは病院で何をさえれているんですか?」

 多少ぶしつけな質問も笑顔でこたえてくれた。

「私は看護師です。隣の方も看護師です。あと受付、検査技師、山田さんはケアマネです」

「へぇー、資格持っておられていいですね。僕は何にも資格を持っていません。以前も役所で働いていました」

「こちらに来られて良かったですか?」

「まだ一か月余りですのではっきりとは言えませんが、今の状態には満足しています」

 緑川は実際そう思っていた。夢に見るような億万長者ではないけれど、人間関係、処遇、環境などすべてにおいて今までよりストレスが少なくなったと感じていた。

 江沢は少しするとほかの席に移り、緑川の前には他の女性が次々にあいさつに来た。一応、顔と名前は覚えた。

 しばらくすると、柿本が、「お開きにします。また次回よろしくお願いします」と言った。

 緑川は江沢に少し興味がわき、もう少し話したかったが、彼女は別の人と話し込んでいた。別れの挨拶もできず、解散となった。


 その後の一か月ほどは緑川に何も大きな出来事はなかったが、社会の仕組みに慣れ、なじみの店ができ、生活に余裕を感じるようになった。なじみの店の店員とは気安く話ができるようになり、割引や地域の情報をもらっていた。職場の同年代の人たち、同じ階に十数人いる、とも仲良くなり、一緒に食事に行ったりする仲間もできた。柿本の会は最初の会から一か月ほどたったころに再度誘われた。今度も男女6人づつ集まったが、江沢は来なかった。江沢が来ないのを知り、緑川は残念に思った。前回顔を見知った看護師に、「前回来られてた江沢さんは今日は来られないんですか?」と聞いてみた。

「彼女今日勤務で来れないんですよ」とのことだった。

「確か緑川さんですよね。彼女に興味がおありでしたら、伝えましょうか? 私は毎日顔を合わせますから」

「い....いえ、いいです。前回たまたま僕の目の前にいた人で今日はどうなのかな、と思っただけですから」

 緑川は江沢に惹かれる感じはあるものの、まだ付き合いたいとまでは思っていなかったのと、急な話だったのでよく考えもせず断った。またこの会で会う機会もあるだろうし、それにAiと付き合うってどうなんだろう....。

 緑川は前回よりも社交的になっていたので、そのあとは他のメンバーの会話にも加わり、楽しく会を楽しんだ。 

 その会にはその後も何度か参加したが、江沢が現れることはなかった。緑川も江沢のことを忘れていた。


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