クロウフォードの修復士
かるでね
第1話:支部長室のほつれ
夜明け前の第三倉庫裏は、潮と煤の匂いが混ざっていた。荷車の軋む音の向こうで、工員の靴音が石段を叩く。港の街はまだ眠っているのに、ここだけは先に起きて、働き始めている。
ミオは階段の脇に立ち、右手の銀の輪に指先を添えた。
次の瞬間――男が一段、踏み外した。
落ちる、と思ったのに、落ちない。
足が石に「触れた」まま、すり抜けた。底が空を踏んで、体だけが前へ投げ出される。階段は見えているのに、そこに「段差としての手応え」がない。まるで、足裏だけが薄い膜を踏み抜いてしまったみたいに。
「っ、うわ――!」
ミオは腰の鞄から万年筆のような細いペンを抜いた。
バインダーから起きた糸が、階段の縁を薄く縫い留める。
きしんだ音が鳴り響いた。石そのものが鳴ったんじゃない。目に見えない継ぎ目が擦れた音だ。
男の足裏が、遅れて石に“乗る”。膝が笑い、手すりにしがみついた。
「……助かった……」
「大丈夫ですか」
ミオが声をかけると、男は息を荒くしながら頷いた。
「段が欠けてたわけじゃないのに、急に踏み外したんだ。昨日も誰か転んだって聞いたぞ……」
「段の見た目とが存在が、ずれてました」
ミオはしゃがみ込み、段の縁に指先を近づける。石はある。けれど、その“存在”が、薄い。ここだけ層が一枚足りないみたいに、頼りない。
この街、クロウフォードでは、そういうことが起きる。
世界は一枚板じゃない。薄い膜が重なって、同じ場所を「場所として」支えている。その膜――
ミオは息を吐き、糸をもう一度だけ通した。深く縫わない。いきなり強く締めると、別のところが引きつられて、別のほつれが生まれる。
「仮で留めます。
「直すんじゃないのか」
「まずは事故が増えないように。工員さんたちが踏み出す位置に、手応えを寄せました。今日からしばらくは、歩き方が少し変わるので……気をつけてください」
男はまだ半信半疑の顔で段を見た。見た目は変わっていない。けれど、足を置くと今度はちゃんと石が返ってくる。
「……変な街だな、ほんと」
「慣れないほうが、いいかもしれません」
ミオは軽く会釈し、手すりに小さな札を括りつけた。
『注意。段差調整中』
文字より、まず“足裏の感覚”が大事な仕事だ。説明しても、体が追いつかなければ転ぶ。
朝靄の中で倉庫の影が伸びる。石畳を伝って、港から潮の匂いが押し寄せてきた。ミオはクーリエをしまい、右手の輪の冷たさを確かめる。
糸は静かだ。今のところ、縫い目は落ち着いている。
――問題は、別の場所にある。
*
都市縫合局クロウフォード支部の支部長室は、外から見たときより狭く感じる部屋だった。
壁一面の書棚と、煤けた街の地図。積み上がった報告書。窓の外には煙突とクレーンが並ぶ工場区画が、灰色の空の下でぼんやり霞んでいる。
ミオは机の前に立ち、現場で書き足した報告書の束を揃えた。
「第三倉庫裏の階段、仮縫いは済みました。足を出すと段がすり抜けるみたいになっていたところを、手応えが戻る位置に寄せてあります」
正面の大きな机の向こうで、エドガーが眼鏡の縁を押し上げた。髪に混じる白いものと深い皺のわりに、その声は低く、よく通る。
「転落事故の追加は?」
「今朝までなしです。ただ、一歩目の位置が少し変わったので、慣れるまで転びやすいかもしれません。注意の札も下げました」
「ふむ」
短い返事。エドガーはペン先で書類の端を軽く叩く。
「段そのものを作り直したんじゃないな」
「はい。層のほうを寄せました。いきなり締めると、別のところが引っ張られるので」
「判断は妥当だ」
誉め言葉に聞こえるのに、エドガーの目は書類から離れない。褒めるというより、確認だ。街を縫う仕事は、失敗がすぐ人の怪我になる。
ミオは息を整え、報告書を机の端に置いた。そのまま視線を滑らせ、部屋の隅をちらりと見る。
壁と床が交わる角。
線が、ほんの少しだけ合っていないように見えた。割れ目も隙間もない。ただ、そこに足を置くと重心がわずかに滑る。床が“床のふり”をしている感じ。
右手のバインダーが、さっきより冷えた。
ミオは迷ってから、口を開いた。
「あの、支部長」
「なんだ」
「この部屋の隅……やっぱり少し、ほつれてます」
エドガーの視線がゆっくりと角へ動く。けれど、すぐ書類に戻った。
「昨日も同じことを言ったな」
「はい。でも今朝は、もう少しはっきりしてきました。触ると、継ぎ目が分かります」
「ミオ」
名を呼ぶ声が、静かに遮った。
エドガーは背もたれから身を起こし、ペンを置く。その仕草ひとつで、部屋の空気が締まる。
「その角で誰か転んだか?」
「……いえ」
「書棚が傾いたり、地図が落ちたりは?」
「それも、まだ」
「なら後回しだ」
はっきりとした口調だった。
「この部屋の隅が少し歪んでいても、市民は困らん。先に縫うべき場所はいくらでもある」
言われてしまえば反論できない。ミオは頷いたが、指輪の冷えは収まらない。
「……分かりました」
エドガーは一度息をつき、別の書類の束を引き寄せる。
「こちらだ。新しい依頼が来ている」
机の中央へ滑らせてきた申請書には、にじんだ判子と癖のある文字で住所が書かれていた。
「河沿い地区……」
ミオは思わず読み上げる。喉の奥がきゅっと狭くなる。
河。あの夜。煙。押し合う背中。――思い出したくない景色が、言葉より先に匂いで浮かぶ。
「川に沿った古い住宅街だ。大火のとき、避難路になっていた辺りだな」
エドガーが淡々と言う。淡々としているぶん、胸の奥に刺さる。
「依頼内容は?」
努めて平静な声を作った。
「玄関がないそうだ」
「……え?」
「家の玄関が、昨夜から消えた。扉が外れたわけでも鍵が壊れたわけでもない。『玄関一式が、まるごと見当たらない』とある」
エドガーは申請書の一行を指でなぞる。
「家族は窓から出入りしているが危険なので、何とかしてほしい、と」
ミオは眉をひそめた。
扉だけなら大工の仕事だ。だが、出入り口としての“場所ごと”消えるのは、層の問題だ。
「玄関の……ほつれですね」
「そうだな」
エドガーは軽く頷き、ミオを見る。
「おまえが行け」
「支部長は?」
「残念ながら、ここから動けん」
机の上の書類の山を顎で示すように視線をやる。
「本部への報告書と、議会向けの説明資料だ。期限が近い」
「それも、縫ってしまえたらいいのに」
思わず漏れると、エドガーの口元がほんのわずかに緩んだ。
「紙の山と人間の都合は、糸で縫えんさ」
すぐに表情は戻る。
「ミオ。指輪は」
「あります」
右手を上げると、銀のバインダーが薄明かりを受けて小さく光った。
「ペンは」
「ここに」
ミオはクーリエを示した。
「なら十分だ。――無理に昔の形へ戻そうとするな」
窓のそばへ歩きながら、エドガーが言った。ガラスの向こうで川面の光がちらちら揺れている。煙突の列の向こうに、河沿いの低い屋根が重なって見えた。
「縫合は過去を取り戻すためじゃない。今そこで暮らしている人間が出入りしやすい形を探せ」
「……はい」
繰り返し叩き込まれてきた言葉だ。それなのに、支部長の口から出ると、どこか自分自身に言い聞かせているみたいに聞こえる。
ミオは申請書を受け取り、軽く頭を下げた。
支部長室を出ると、廊下にはインクと紙の匂いに、外から入り込んだ湿った風が混じっていた。窓の外の空は低く、今にも雨になりそうな色をしている。
階段を降りながら、ミオは手すりにそっと手を滑らせた。冷たい木の感触。ここはずれていない。――ただの古い手すりだ。
それでも川の方角を意識するだけで、喉の奥が乾く。
玄関が消えた家。
窓から出入りする家族。
大火の避難路だった場所。
考えただけで、胸の底がひやりと沈む。
外へ出ると、冷たい風が頬を刺した。潮と煤の匂い。川から吹き上げる湿気。
ミオは石畳の坂を下り、河沿い地区の細い路地へ向かった。
日が傾き、屋根の影が長くなる頃、申請書の住所に辿り着く。
細い路地の突き当たり。
そこにあるはずの玄関はなかった。
「玄関がなくなっている……」
扉ひとつ分の幅が、のっぺりした石壁になっている。
見た目は最初からそうだったみたいに、きれいに。
ミオの右手のバインダーが、皮膚の内側を強く冷やした。
壁の前の空気だけが、ひと呼吸ぶん遅い。
そして――
コツっと。
石壁の向こうから、誰かがこちらを叩いた気がした。
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