7・竜神寺

 杉野氏は血管の浮いた腕を幾度も組み替え、首も幾度となく右へ、左へ倒した。

「そこはだなぁ、何処ぞの会社に勤めとるっちゅう情報もからっきし無かったもんでぇ、僕の方も完全にお手上げだわぁ」

「そうですか」

 致し方ない。美鈴は臍を咬んだ。

 午後から講義が入っているので、そろそろ引き上げの頃合いだ。

「すみません、今日は朝からお邪魔しました。そろそろ失礼します」

「おうおう、構わんよ。……ところでレイコさんよ」

「美鈴ですが」

「あんた、くれっぐれも、気ィ付けぇよぉ?」

「……はぁ、何にでしょうか?」

「何に? って、あんたなぁ。見とって分からんかぇ。僕ぁ嫌な予感がしてならんにゃ。くれぐれも慎重にすることやわ。ここで真剣勝負! ズル賢さをしかと身に付けとけな。賢くないと、生きられん」

 そう言って、豪快に笑った。美鈴は杉野氏が何を言っているのか理解出来なかったが、顔を赤らめて笑う姿に気圧された。

「ははは……分かりました、頑張ります」


 ――家までの道中、記憶の骨組みに肉付けすべく、手作りの取材メモを見返した。



 *よく峠を登ってきたトラックというのが、杉野氏の記憶の限りでは、ボンネットタイプというのが二台、キャブオーバータイプというのが一台。彼の描いた絵もしっかり手に入れた。そして、そのどれもがかなり傷んでいた「気がする」。


 携帯電話で二つのトラックのタイプを調べてみた。

 ボンネットタイプというのは、エンジンが車体の前に積まれており、普通乗用車のようにエンジンフード(ボンネット)がついているタイプ、キャブオーバータイプというのは、エンジンが運転キャビンの真下にあり、バスのようにのっぺりとした顔を持つタイプという事が分かった。また、製造しているメーカーも掲載されており、ボンネットタイプは現在日本に流通しているものは【スペクタートラックス】というスイス企業の一社のみしか製造していないらしい。

 また、新たな耳寄り情報も掴んでいる。

「よぅここの峠で運転をする人を見たわなぁ。車輪をこう、キーキー鳴かせたりなんかして。無茶な事するから、しょっちゅう事故も起こったわ。僕はここへ越して来て五、六年やけども、たまらんかった」

「ここの峠で、車遊び?」

 美鈴の声は上擦った。こんな僻地の山間部にまでわざわざ繰り出してくるとは、よほどの暇人か狂信的な走り屋の二択しかないだろう。

「うん。もううるさぁて堪らん。警察にも言ったけんど、何だかね、この周辺はあんまり警察が立ち寄れんくなったとかで、対応を渋りよって。せめてコレぐらいはって言ってカメラを取り付けてくれたけんども、それさえ支柱ごと無理くり壊されてしもぅてな。ホントに、信じられんけど、ほんとの話よ」

 杉野氏はまた顔一杯に皺を寄せた。

「よほどタチの悪い人達なんですね」

 番茶を口先で啜り、

「んまにさぁ(本当にね)。そりゃぁ腹が立ったけんど、ある時を境にピタッと無くなりよったでな」

 と表情を塗り替えた。

「無くなったというのは、車の音がですか?」

「いんや、車の姿自体がピタッと消えてしもうた。そんでその直後に、あのバリケードがあそこに置かれた。きっかり同じ頃にな」

「あれ? あの柵はもっと前からあったんじゃないんですか?」

 杉野氏は胡坐をかいた両の膝に手を突き、唸った。

「あったと言やぁ、あったわなぁ」

 いまいち平仄が合わなくなってきた。

「どういう事ですか? 柵という物それ自体は、昔からあったんですよね?」

 杉野氏はずっと被っていた釣り具メーカーのキャップを外して、ひっくり返したり回したりしながら語った。

「うん。まぁもっと言やぁ、もう少し奥にあったんだわ、それまではな。そこの道をずーっと登って行くと分かるわ、隣の町に続くスカイラインが、当時の通りそのまんま残っとる。そこへ行くのか、向かって右手にあるトンネルを通って、先の廃村へ行く分岐点がある。あの柵は長らくトンネルの出入り口すぐ前に置かれとって、スカイラインへは誰でも行けたんだわ。しかしぃ、事故が一番多くなった頃を境に、交通量がパタリと途切れた。そんで柵が誰とも知らず前へ出て来とって、峠は僕らの唯一の生活道路として以外さっぱり使われんくなった。だから、微妙なんだな、解釈が」

 そうして、からからと笑った。

「杉野さんは、そのスカイラインへは行かれた事がありますか?」

「あぁ、一度だけな。スカイラインとは言っても狭いし、粗末なモンだがなぁ。まぁこんな場所だし、仕方ない」

 窓の外へ顎をしゃくりながら、口を尖らせた。

「そうそう、その頃にやっこさん(八木山)の仕事仲間も、あの人の姿もすっかり綺麗に消えてしもたな。物事が変わる瞬間ってのは本当にぃ、いっぺんに動くものだぁ。天変地異と言うのかな。そういうおっかねぇ事や信じられん事っていうのは、人の世じゃあ案外、日常茶飯事だわぁ」

 杉野氏はいっそう低い声で、まるで脅しをかけるようだ。

 あまりの不気味さに、美鈴は思わず喉を鳴らした。

「き、きっと何か関係があるのでしょうね。ちなみに仲間の人達の職場とかは、ご存じないですよね……?」


 バスが停まったので一度、回想を終える。

 美鈴はバスを降り、歩きながら考えた。スカイラインが封鎖されて彼らが失踪したという事は、彼らにとってその道路は生命線だったに違いない。それを失ったから、ここを去らざるを得なくなった。最寄りの住人が一人減ったから、行政はスカイラインを閉めたのか?

 原因が結果になったのか。結果が原因になったのか。

 確かに、考えられなくはない。しかし、よくよく突き詰めてみると、峠の先へは行けなくなってしまったが、下の町へ行く分には何も問題が無い。スカイラインを通れば隣町への近道になるとはいえ、それだけで彼がここを去る必要はあったのか?

 陽平が見た男の霊は、実は八木山なにがしとは全く無縁で、この峠で事故死した者の浮かばれない魂なのではないか。はたまた、あの家が呼びこんでしまったではないか。

「よし、決めた」

 全ては尤巫女にかかっている。


 日曜日。

 優と美鈴は私鉄電車を乗継ぎ、大学から一時間離れた亜釘あくぎうらという町へやってきた。

 都心から少しハケた土地で商店などは廃れているが、人の往来は意外に多く、通りを行き交う車の中には高級外車も多く見られた。

「一応、別荘地とかっていうのは聞いたことがある」

「どうりで暇そうな爺婆が多い訳」

 和菓子屋に列を成す人々を見い見い、吐き捨てた。

「失礼な言い方――あ、ココじゃない?」

 美鈴は一軒の家の前で立ち止まった。神社のように重厚な杉の門に守られており、風化して苔の生えた御影石の表札には【二ツ橋】の姓が刻まれている。

「あぁ、そうみたいだ」

 二人は互いに目配せし、美鈴がインターホンを押した。

《――はい、どちら様でしょうか》

 低い老婆の声が出た。

「あの、尤巫女さんに呼ばれて来ました、大学の同級生の者です」

 一拍空いた。

《――お待ち下さい》

 30秒ほどして、巨大な門が開かれた。出迎えたのは尤巫女と同じ服装の上に、純白の足先まであるコートのようなものを羽織った長身の老婆だった。二人を見るなり、上から下までじろりと見て一言、「まぁ、つがいで。珍しい」と、微妙に険しい口調で呟いた。

 番いでなんて、いまどき言うだろうか? 何か心地良い感じはせず、二人が逡巡していると「さぁ、どうぞお入りになって下さいまし」と右手を掬うように動かした。

「すみません、お邪魔します」「邪魔します」

 一歩踏み入ると、圧倒された。

 そこは豪邸ではなく、格式高い風采の寺社仏閣だった。広い境内に構えた二匹の狛犬、朱色の壁に広い瓦屋根を載せた立派な本殿。燃え盛る松明が並ぶ石畳の先に、同じ格好をした若い女性や正装した使用人らが四十人ほど居並び、旅館の出迎えのように一斉にお辞儀を捧げている。

「こんな所が二ツ橋の家かっ……」

 優が小声で叫んだ。

「左様に御座います」

 老婆は気付かない内に二人の背後に立っていた。

「尤巫女様はこの竜神りゅうしんの次期大巫女として丁重にお世話させて頂いております故、何卒、ご無礼の無いよう重々留意の程をお願い致します」

「は、はい」

 次期大巫女、という言葉の詳しい事は分からないが、耳触りが重い事は確かだ。

「あの子、とんでもない家柄の子らしいな」

 優が顰め面で耳打ちする。

「うん……あの。尤巫女さんは今、どちらにいらっしゃいますか」

 美鈴が尋ねると、並んでいた内の最も若そうな巫女が前に出た。

「ついてきてもらえますか」


 二人は本殿の隣に佇む建物に通された。

 和造りの外観にすっかり騙された。中へ入ると、そこはうって変わって派手な洋館の装いだった。天井には薔薇の花を思わせるステンドグラスが鮮やかに填められ、何列にも並んだ長椅子に燭台、その正面の祭壇には大きな蝋燭の火が煌々と揺らいでいた。良質なお香も焚かれているのか、白檀のほんのり甘い香りが充満している。

「……すごい……」

 息を呑む。さらに目を散歩させると、両側の壁に【灯天滝侍】と達筆なのか稚拙なのか分からない筆跡で書かれた巨大タペストリーが鎮座している。その大きさたるや、畳四間分は裕にありそうだ。

「それは当寺社が祀っている存在の名称です。四年に一度、時の大巫女が新年度に筆入れをして書き初めたものをああしてお祀りしています」

 鯉のように口を開けて見上げていると、傍らに立った巫女が簡単な説明を添えた。

「何て読めばいいんですか?」

灯天どんてんろうと、お読み下さい」

「どんてんろうし……」

 不思議な響きだ。美鈴は何度もその名を呟きながら、更に質問を重ねた。

「どんてんろうし……祀られているってことは、神様ですか?」

「いいえ、厳密には神ではありませんが、それと似たようなものです」

 優も口を挟む。

「その神に近い存在とやらは、どこに居るんですか」

「灯天滝侍の所在地は定まっておりません。彼らは我々人間と同じ姿形で、同じように生活をしていますから。一般人からすれば、全く区別がつきません」

 二人は顔を見合わせ、揃って首を傾げた。どこでどんな姿をして居るかもわからないものを祀って、果たして意味はあるのだろうか。

 美鈴の脳裏に、咄嗟に父の面影が過ぎる。一般人と同じ容姿で生活をしているという事は、あんなふざけた灯天滝侍もいるのか。

「簡単に言うと、狸が化けてるようなもんですか」

「いいえ、そうではありません。持って生まれた素質のようなもの、それが灯天滝侍の本質です。つまりれっきとした人間で、そうした低俗な妖怪変化の類には入りません」

 巫女は少し怒った様になった。

「素質……才能ってやつか。だったら、ヒトラーやレーニンなんかもそれに分類できるという事か」

 美鈴は途方も無く高い壁を今一度、見上げてみた。

 天井との境目辺りに同じマークが沢山並んで描かれており、それが一際目を引くデザインだった。よくある人手型の五芒星の中央に見開かれた目があり、上の足と下の二本の足から中心に向かって伸びる太い線があり、その星のバックに大きな円が描かれている。

「気味が悪いマーっくう!?」

 突如、こめかみに激しい痛みが走った。どこかで見た覚えがある……電流の様にこめかみからもう一方のこめかみへ、額から後頭部へ凶暴な電気が走る。

「~ですから、灯天滝侍に人を誑かすつもりはありません。ですが、自らが灯天滝侍だと気づき、それを隠しているケースも中にはあります」

 優はまだ若巫女を質問責めにしていた。

「という事はつまり、灯天滝侍の大半が、自分がそうだと気付かず生きていくと」

「はい。まさしく」

「なるほど。おい美鈴、聞いたか? 美鈴? あれ、おい、みれ……」

 優が長椅子の間を縫って進むと、美鈴は正面の天使像の前に佇んでいた。

「おい、美鈴」

 優が駆け寄ろうとすると、後ろ手を掴まれた。

 若巫女の、その小さい手に何とも言えぬ、強い力が込められる。

「なんすか」

「待って下さい」

 険しい表情だ。

「おい、ちょっと。大丈夫なのか、俺の彼女は」

「暫しお静かに願います」

 若巫女はうって変わって鋭い目で美鈴を見据えた。そして徐に彼女に近寄っていく。俯いていた美鈴がゆっくり顔を上げると、天使の顔を撫で擦りながら、何か呟き始めた。

「何だ、何やってんだよ」

 少し離れた所でその様子を観察しながら、優は一人で訝しげな声を洩らした。

「……やっぱり」

 そんな優をよそに、若巫女は大粒の鈴が幾つも付いた棒を取り寄せると、小刻みに揺らしながら美鈴に近付けた。

 すると、覿面に彼女の体が前後左右に緩慢に揺れ動き始めた。

 そして突如、若巫女が豹変する。

「主、純潔なる者の御魂みたまを穢したる事、如何な不態ふたいと心得る。罪無き若人わこうどいきに邪を差したる事、この麗々女うるめが許すまじ!」

 鬼気迫る声色でそう唱え、幽霊の様に左右に揺れる美鈴の頭上で鈴を振った。

涼しげだった鈴の音が次第に重くなり、ガタガタという物々しい音に変わる。

「おい何だありゃ!?」

 目の前の奇怪な現象に、優は思わず後退りした。彼女の背中から彼女と同じ形をした白い半透明の影が膨らむように浮き上がり、ベランと剥がれ落ちたのだ。まるで、貼り付いていた何かがふやけて落ちたような光景。同時に、美鈴もその場に崩れ落ちる。

「美鈴! おまえ大丈夫かッ!」

 慌てて駆け寄り、力無く横たわった彼女を抱き起した。

「おい、大丈夫かよ。なあ」

 彼女の肌と髪は汗でしっとりと濡れている。

「一部は剥がし取る事に成功しました。ですが、まだこの人には残っています。若輩者の私の力では、これ以上は対処しかねます。ご酌量の程を」

 背後で、若巫女の落ち着き払った声がする。

 優は鬼の形相で振り返った。

「おかしいだろ! おいあんた。今のいったい何だ? 何か……色々と変だったぞ」

「始めて目にされた方は皆さん同じように取り乱しておられます」

 若巫女は至極落ち着き払った様子で問答した。さきほどの剣幕が嘘のようだ。

「そりゃ、あんなモノ見せられたら狼狽もするだろう……」

 優が混乱から醒めない内に、社の扉が大きく観音に開かれた。

 扉の軋む音に交って女性の研ぎ澄まされた声が響き、幾重にも残響を呼んだ。

それはまるで、女神の御託宣のようだった。

「心配要らないわよ。その子に付いたシールの一つが、この社殿を包むベールに反応しただけ。その子には何の危害も加えてない」

 髪留めを解いた尤巫女が立っていた。西から差し込んだ後光が黒く柔らかな髪を神秘的に照らし出し、白いシャツとの幻想的なコントラストを描き出す。

「二ツ橋、あんたほんとに何者だ」

 刮目する優に一瞥を呉れ、ただ妖艶に微笑んで見せた。端正な顔立ちのせいか少し不気味に映り、半月型に笑った目は刃物を連想させた。

 彼女はそのまま若巫女に向かうと、淫靡に微笑んだ。

「ご苦労様。よく見破ってくれたわね」

 労われ、若巫女は深く頭を垂れる。

「いえ、このお二方が来る以前より、並みならぬ霊気を察知しておりました故、一層の注意を払っただけのことであります」

 ぞっとした。霊気を察知する? そんな胡散臭い言葉、まさかテレビや映画ではなく生身の人間から聞く事になるなんて。

「貴女も大分、位が上がってきたようね。感心、感心」

「光栄です」

 ゆっくりと歩み寄り、そのまま祭壇に上る。白檀の香りに、尤巫女の湯上がりのような淡い香りが絡み、鼻腔内に無数の花を咲かせる。

「貴女はもう行って大丈夫よ。ここからは、私とこの人達だけで楽しむから」

「如意」

 若巫女が社殿から出ると同時に、蝋燭の火が少しばかり大きくなった。

「ふっふふふ。どう。驚いたでしょ」

 腕を組み、誇らしげに祭壇から二人を見下ろす。

「あんた、霊能者か」

 優は美鈴を庇うように抱きすくめ、目を眇めた。

「ベタな質問どうも。私はただこの家に生まれて、単にこの家のルールに従って生きているだけの普通の女の子、とだけ言っとく」

 細長い炎の向こうでサラサラと黒髪を揺らす姿は神秘的で、どこか禍々しい。

「下手に隠すなよ! ウルメって何だ? オオミコって? お前に何か関係してんだろ? 楓がおかしくなったのも、美鈴がこうなったのも全部、知ってるんだろ!」

 優は太い声で怒鳴った。それが幾重にも反射して、自分にそのまま降り注いでくる。

 その時、腕の中で美鈴が目を覚ました。

「優……落ち着いて」

 細く呟く声に、平常心が蘇る。

「美鈴、大丈夫だったか。どこか、おかしいところは?」

「平気」

 尤巫女は落ち着き払った相好を崩す事なく、組んだ腕を解す事もなく、ゆっくりと祭壇を降りた。

「まぁ彼女さんもお目覚めの事だし、丁度いいから教えてあげるわ。特別よ」

 優は返事をせず、美鈴を長椅子にそっと座らせてやった。

「この家に仕える神官達の事を昔から麗々女と呼ぶの。この二ツ橋家は一応鎌倉時代から続くいわゆる陰陽師の家系でね。見ての通り、周囲の寺からは完全に浮いてしまっているから、独自に進化を遂げてきた。元は普通のそれと同じように祈祷や祓いなんかを主な凌ぎとしてやっていたけれど、時の馬鹿宮司がいつの頃からか、そこに掛けてある灯天滝侍とやらに傾倒し始めたらしくて。一族もノホホンとしていて、自分らの伝統を守り通す事に失敗したとかで孤高の存在になってしまった、という訳。どう? これでイントロダクション終了、質問は?」

 尤巫女は定例放送のように滔々と語りながら、優の隣に柔らかく腰を下ろした。

シャンプーの香りがする美鈴と違い、尤巫女は上質な香水の香りに包まれている。

「じゃああんたは、寺の娘だから単純に巫女の統領って事か」

「そうよ。二ツ橋家に女が生まれた場合、長女が麗々女達の頭として自動的に大巫女って位に就くから、それが習わし。うちは女が強い家系でね、結婚しても男が新姓を名乗る事になってる」

 尤巫女は足をブラブラと揺らして、口笛でも吹くように語った。

「あの婆さんが言ってたやつだな。くだらねえ。長女に生まれたってだけで、強制的に家業の跡継ぎにさせられるなんて、時代錯誤だな。クソくらえだ」

「随分ご立腹じゃないの。自分の事でもないのに。どうしたの?」

 尤巫女は優にそっと問い掛ける。

「ウチと同じだよ。親が建設会社やってて、跡継ぎは長男の俺に決めてる。俺が何度も消防士になりたいって言っても、代々から続く会社を潰すわけにはいかないってんで、俺をこの大学に入れやがった。バイトまで子会社の林業を押し付けやがって。飼い殺しにされてるんだよ、俺も。あんたもな」

「そうだったのね。それはそれは、私と貴方は仲良くなれそう」

「どっちでもいい。……それはそうと、あんたはここで一番偉いってことだよな」

「そうよ」

「ねぇ、次女や三女がいたら、どうなるの?」

 ようやく落ち着きを取り戻した美鈴は、自分と重ねた質問をした。もし自分がここの娘だとしたら、夢佳はいったいどうなるのか。

「姉妹がいる場合は、普通の麗々女として大巫女の下に就く。例えばさっきの子。あれ、実は私の妹」

「「え?」」

 二人は同時に声を上げた。完全に師弟関係にある仲だと思い込んでいた。

「そうだったんだ」

「全然似てないでしょ? あの子の方が可愛いもんね。あなた達も、羨ましい限りだわ」

「お前も十分に美形だと思うぞ。彼氏なんて、そこらで探せばいいじゃねえか」

「無理よ」

 尤巫女は煌々と燃え盛る松明を見据え、切り捨てた。

「なぜ?」

「大巫女は成人して10年経つまでは、男と付き合う事を禁じられてるから」

 馬鹿にしたような口調でそう言った。

「そんな決まりもあるのかよ。問答無用で厳しいな、こういう世界は」

「くっだらない戒律でしょ。ところで、私がそれを守るとでも思った?」

 優は間抜けな顔になる。

「もしあなた達が、私が由緒正しき家の風習を遵守して家柄に誇りを持っていると信じているのなら……残念」

「という事は」

「決まってるでしょ。付き合ったわよ」

 得意そうに首を擡げた。

「あ、悪い子だ。いけないのに」

 美鈴は柔らかくツッコむ。

「バレなければイイのよ、そんなの。それにルールだの規則だのを何でも守っていたら、それこそおかしくなっちゃうわ。盲導犬じゃあるまいし……誰でも同じでしょ。好きでもない巫女をやってあげているんだもの、それくらいはね」

 なるほど。普通の女の子の言い分として、何ら問題は無いと優は思った。

 そして、随分と彼女の印象がマイルドになった。

「それもそうだよね~」

 美鈴も、素直に同調する。

「なぁ二ツ橋、どうしても聞いておきたい。さっきの美鈴の、もっと詳しく教えてくれ。シールが反応したっていったい何のことだ」

 美鈴は自分に何があったのか記憶していないらしく、尤巫女と優を交互に見た。

「私、どうなってた?」

「何でもないわよ」

 尤巫女は申し訳無さそうに美鈴の隣に座った。

「この社を守っている私の式神がね、貴女に貼られたシールを嫌がっただけ。それで、ああして拒絶反応が表れた。簡単な事よ。小さい子供が愚図って、何か物を投げたりするのと同じこと。でもそのシール、相当頑固に貼り付いているみたい。正直、予想外だった」

 終始穏やかだったが、最後だけ真顔で言った。

「それって、まずい事なの? 予想外ってどういうこと?」

「大丈夫……とは言い切れない。何せ、この前言ったように前例が無い新手のタイプだから。表面上は今まで経験してきたその辺のザコと大差なかった。だけど、その根っこにある念があまりにも深い。見た事もないくらい。だから、正直言って手ごわい」

 彼女は滔々と述べた。半ば自分に言い聞かせる様に。

 念が深い……それは恨みの念なのか。怒りの念なのか。それとも……

「私、何か悪い事したかなぁ」

 不安そうに俯く美鈴の手をそっと握った。そして、すぐに離す。

「やっぱり熱い。シールを貼られた人間の手は、私達が握るととても熱く感じる」

 尤巫女の瞳の中に、蝋燭の炎が揺らいでいる。

「そんな、怖い事言わないでよ」

 美鈴は眉間に皺を寄せた。優も苦虫を噛み潰した顔貌を浮かべて佇んでいる。

「一つ言っておきたいのは、あなたは何も悪くないって事、それは確かよ。私が出来る事は全てしてあげるから、変に気に病まない事。いい?」

「うん。ありがとう」

 美鈴は何とか頷き、優を見た。

 不安げな双眸が、西日を受けて緩慢に光っていた。

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