第4話 落ちてたノート

握手をしたあの日から、伸之のぶゆきと気まずい雰囲気はゼロにはならないものの、少しずつ会話も増えるようになった。

最近は、常連さんに「いつも笑顔で接客してえらいね」なんて言われたりして、やりがいも感じて、アルバイトが楽しい。


土曜日に朝から出勤すると、開店準備を始めていた。


「おはようございます」


美由紀みゆきは大学終わりにシフトに入ることが多かったので、朝からは初めてだ。

もうすでに伸之も出勤していて、コップを磨いている。


平野ひらのちゃん、着替え終わったら机の上のセットしておいてくれる?」

「了解です」


マスターに言われて、急いで着替えると、机にカラトリーやメニューを置いていく。


「あれ?」

すると、床に一冊の小さなノートが落ちていることに気づいた。

表紙の周りはボロボロで、使い込まれている。

お客さんの落とし物かもしれない。

落とした人が分かればと、そっとノートを開いてみた。

そこには乱雑書かれた文字と音符とコードが書かれている。

どうやら譜面のようだ。

この力が入ってなさそうな、滑るような文字のクセは、間違いなく伸之の字だ。


「~♪~♪」

自室のベッドに寝転んで、譜面通りに口ずさんでみる。


「結構いい曲なんだよなぁ」


伸之にこんな才能があるとは思わなかった。

伸之が音楽の道へと進むと言った時、美由紀は伸之がどんな音楽を作るのか、どんな演奏をするのか、歌声さえも聞くことなく、否定してしまった。

美由紀は、ふと押し入れの方へ視線をやった。


(私も音楽を好きな気持ちは・・・わかる。でも―)


すぐに視線を逸らすと、楽譜の書かれたノートをゆっくり閉じた。


「なんで返さなかったんだろ。持って帰ったりしちゃって・・・どうするつもりなのよ、私」


ノートを本来なら持ち主に返すべきなのはわかっている。

それなのに楽譜を見た途端、どんな曲か詳しく知りたくなった。

明日返せば良いやと美由紀は部屋の電気を消した。


6月は梅雨が続いて憂鬱な気持ちになる。

せっかく前髪をいい感じにセットできたのに、湿気で猫っ毛が出てきてしまっている。

前髪を触りながら、窓の外を見ていると誰かが手を振っている。

よく見ると、坂東先輩がこっちに来てと手を振っているようだ。

校舎に出ると、坂東先輩は駆け寄ってくると、「ちょっといいかな」と大学構内の食堂に向かった。

先輩は美由紀の隣に座ると、「急に呼んでごめんね」と先輩は微笑んだ。


坂東先輩は3年生で、テニスサークルで出会った。

大学でアルバイトをすると決めていた美由紀は、サークルにあまり入りたい気持ちはなかった。でも友人がどうしても行きたいと言われてしまい、仕方なく見学をしてそのまま断り切れずサークルに入ったのだった。

テニス未経験の美由紀に丁寧に指導してくれたのが、坂東先輩だった。

運動が得意ではない美由紀にいつも「上手」「上手くなった」と褒めてくれる。

そんな坂東先輩は、周りからの信頼も厚く、女の子の人気が高い。

なのに、なぜかパッとしない美由紀によく声をかけてくれる。

二人は付き合っているのかと周りのサークル仲間に聞かれるほどだ。

それについては、美由紀もまんざらではない気持ちではある。


「今度一緒に遊びに行きたいなと思ってるんだけど、予定どうかな?今週も土日とか」

「今週の土日ですね・・・」


手帳を開いて予定を確認すると、しっかりとアルバイトと書いてある。


「すいません。アルバイトが入ってて」

「アルバイトか、シフト変えたりとかは出来ないかな?」

「うーん、ちょっと・・・お願いはしてみます」


頭の片隅に伸之の不機嫌そうな顔が浮かぶ。

土日は忙しくなるので、休む場合は他の人にアルバイトをお願いするために、早めに申請することになっている。


「ただのアルバイトなんだし、もし休みとれなかったら、サボっちゃえば?」

「いや、それはちょっと」

「冗談、冗談」


坂東先輩はそういうと、話題を変えて話し始めた。

透明な水に黒いインクがポタッと一滴落ちたような、モヤモヤした気持ちのまま美由紀は笑顔で相槌を打った。


「平野さーん!早くこっち運んで!」

伸之に言われて慌てて、料理を取りに行く。

土日はやはり平日と比べると忙しい。

その上、今日はパートさんが急遽お子さんが熱を出したとかで休みになってしまった。

今日も昼時は満席になり、てんてこ舞だ。

土曜日でこんなにいっぱいとは、明日はもっと忙しくなるではないかとため息が出そうになる。

結局、急に休むとは言えるわけもなく、坂東先輩との約束は後日となった。

でもこの忙しさとなると、サボりたかったという気持ちもほんの少し湧いてくる。


「平野さん、次も出来てるよー」

「はーい!」

なんで伸之の指示に従わないといけないのかと思うが、伸之の言う通りに動くと忙しい日もなぜか上手くいく。

席の案内する場所、注文を聞きに行くタイミングなど言われた通りにすると、上手くハマるのだ。


「疲れたぁ・・・」

17時を回ると、やっと落ち着いてきた。

キッチンの椅子に座ると、ため息をついた。


「お疲れ」

伸之はそう言いながら、イチゴパフェを作っている。


「今日忙しすぎるよぉ」

「土日はこんなもんだ。俺の作る飯が上手いからな」

そう言い残して、イチゴパフェを席まで運んでいった。

美由紀はズボンの後ろのポケットに触れた。

あの時拾ったノートが入っている。

返す時に見てしまったことを伝えるのも、その書いてある曲が良かったのも、なんだか認めたくない。

でも今更知らぬ顔して返すのも難しい。


「平野さん、サボらずに急いで5番テーブルの紙ナプキン補充して」

「・・・はい」


しんどそうにゆっくりと立ち上がるが、伸之は見向きもせず次の注文をチェックしている。


(絶対返さない・・・)

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