第6話 揺れる心の置き場所


 その夜、店の外を吹く風は湿って重かった。

 遠くで救急車のサイレンが細くのび、

 ミルは棚の上でひげをぴくりと震わせた。


扉の鈴は鳴らず、かわりに静かに押されて開いた。


 入ってきたのは、目の下に深い影を落とした男性。

 肩が強張り、胸のあたりをそっと押さえている。


「……すみません。

 ここ、誰でも入れるんですか……?」


 声は掠れていて、息の端にかすかな震えがあった。


 ミルはカウンターへ降りて、

 椅子を前足でぽん、と押した。

 「すわるにゃ。無理に落ち着こうとしなくていいにゃ。」


 男性は座ると、両手を膝の上で握りしめた。


「……不安が、ずっと止まらないんです。

 理由なんてないのに、胸が締めつけられて……

 会社に行くのも、家にいるのも、

 何をしていても“また来るんじゃないか”って怖くて.....」


 ミルはそっと近づき、

 男性の指先に前足をちょこんと乗せた。


「怖さはにゃ、"消そう”とすると、

 逆に大きくふくらむことがあるにゃ。」


 男性の肩が小さく揺れた。


「……そうなんです。落ち着かせようとしても、余計に苦しくなって……。」


 ミルはゆっくり尾を揺らしながら続けた。


「不安はにゃ、大きな波みたいに来るけれど、

 ずっと同じ高さではいられないにゃ。

 やがて、かならず下がっていくにゃ。」


 男性の呼吸が少しだけ緩む。


「……でも、波が来る前の“予感”が怖くて。

 来ないでほしいのに、考えるほど近づいてくるようで……。」


 ミルは男性の胸元を見てから、

 そっと彼の袖に鼻を近づけた。


「にんげんはにゃ、“不安と戦う”より、

 “不安に席をひとつ用意しておく”ほうが楽になるときもあるにゃ。

追い出そうとしないで、

 “来たらここに座ればいいにゃ”って場所を決めておくんにゃ。」


 男性は目を見開き、そして小さく、ほっとしたように笑った。


「……追い出さなくていいんですか……?

 戦わなくて……?」


 ミルはこくん、と小さくうなずいた。


「不安はにゃ、来ては去る、通り雨みたいなものにゃ。

にんげんの中に居座るほどの力は、ほんとは持ってないにゃ。」


 男性は長く息を吐いた。

 その吐息には、少しだけ温度が戻っていた。


「……なんだか、胸の圧が少しだけ軽くなりました。

 “来てもいい”と思えるだけで、こんなに違うんですね。」


ミルは満足げにひげをふるりと揺らし、


 カウンターの奥から 魚型クッキーをころん、と押し出した。

 甘い香りが、不安の残り香をそっと薄める。


〈波は引くにゃ。不安も、かならず落ち着くにゃ〉


 男性が立ち上がるころには、

 外の空気はさっきより静かになっていた。

 扉を閉める音がやわらかく響く。


 ミルは棚の上に戻り、

 ひげをふるりと揺らしてから目を閉じた。

 まるで、帰っていく彼の背中へ

 そっと 「よく頑張ったにゃ」 と送り出すように。

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