もう一度貴女に精霊の祝福を

いづい そうこ

第1話

 朝の光が柔らかくカーテンの隙間から差し込み、リリーナの部屋を満たしていた。

 机や窓辺の家具を通り抜ける光が、ベッドの上に落ちている。枕に散らばる髪がそっと光を受け、ミルクティーのようなブラウンが穏やかにきらめいていた。


「お嬢様、お目覚めの時間ですよ」


 メイドのサラの穏やかな声でリリーナはゆっくりとまぶたを開けた。若草色の瞳が眠たげに柔らかく輝いているのが見える。

 ぐぐっと伸びをして上体を起こすと、髪が肩にさらりと落ちた。

 

「おはようサラ。今日の予定は何?」

 

 リリーナが尋ねる。

 

「おはようございます。今日はベルモント家のお茶会ですよ」

 

 お茶会という名の婚約者候補探し……めんどくさいわ、と心の中でつぶやいた。

 

「そうだった、めんどくさいわね」と思わず口に出してしまったが、リリーナは訂正することもなくベッドから降りた。


 朝の支度を始めようとしたとき、机の上に見慣れないものが目に入る。それは、凝った装飾の施された見覚えのないエメラルド色の表紙のノートだった。リリーナは手を止め、そっとノートに視線を落とす。

 表紙には細やかな模様が浮き彫りになっており、どこか不思議な雰囲気を放っていた。


「これは……何?」


 隣で支度を整えていたサラに尋ねる。サラは首をかしげ、肩をすくめた。

 

「知りませんよ、お嬢様。今朝、お部屋にあったんです」

 

 リリーナは少し考え込み、机の上のノートをそっと手に取った。ページをめくると、そこには一面の白――何も書かれていない。

 それなのに、不思議と胸の奥がざわつく。まるで、このノートがただのノートではないと、心のどこかが囁いているようだった。


 けれど、今は時間がない。

 

「あとで、ゆっくり見てみましょうか」

 

 自分に言い聞かせるように小さくつぶやくと、ノートをそっと机に戻した。

 支度を終えたちょうどそのとき、サラの声が部屋に響く。

 

「お嬢様、朝食に向かいますか?」

「ええ、そうしましょう」

 

 リリーナはそう答え、軽く微笑んで部屋を出た。廊下に出ると、柔らかな朝の光がカーペットを照らし、窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえてきた。

 サラに導かれながら階段を降りると、朝食の用意が整えられた広間が見えてきた。

 

 リリーナはダイニングの扉をそっと開いた。焼きたてのパンと、香ばしいハーブの香りが漂ってくる。

 

「おはようございます、お父様、お母様、アイリス」

 

 にこりと微笑んで挨拶をすると、席の奥に座る父・オリバーが新聞をたたみ、穏やかに目を細めた。

「おはよう、リリーナ。今日はお茶会だろう? 準備は順調かい?」

「ええ、一応……」

 

 リリーナは苦笑しながら席につき、スプーンを手に取った。

 

「お茶会ってつまり、“婚約者探し”の場でしょ?」

 

 向かいに座る妹のアイリスが、パンをちぎりながらおどけたように言った。

 

「いいなぁ、お姉さま。素敵な殿方がいらっしゃるかしら」

「理想を言えばね。でも、どうかしら。現実はそううまくいかないものよ」

 

 そう答えたリリーナを見て、母・ダリアが優雅にティーカップを持ち上げ、柔らかく微笑んだ。

 

「焦らなくていいのよ、リリーナ。お父様もそうおっしゃっていたでしょう?」

「もちろんだとも」

 

 オリバーはうなずき、ナイフを置いて娘を見つめた。

 

「まあ、いいお相手がいなければ、無理に探そうとしなくてもいい。リリーナはかわいいから、いつかきっと素敵な相手に巡り会えるさ」

「お父様ったら……」

 

 リリーナは少し頬を染め、スプーンを見つめた。

 

「でもその“いつか”が今日かもしれないんだから!」

 

 アイリスはおどけたようにそう言って、笑いをこぼす。

 家族の笑い声が、食堂に柔らかく響き渡った。


 その後ベルモント家のお茶会に出席し、リリーナは数名の殿方と挨拶を交わし、軽く会話をした。どの方も立派で礼儀正しく、もちろん悪い方はいなかったけれど、特別な印象は残らなかった。


 父も無理に婚約者を見つけろとは言っていない。今回は、まぁいいだろう。

 中には、どこぞの男爵家の三男か次男――名前も顔もあまり覚えていない相手からやたらと声をかけられたが、リリーナは適当にあしらっていた。

 お茶会では、美しいお菓子や香り豊かな紅茶を楽しんだものの、次々と殿方と挨拶を交わし笑顔を作るたびに、心のどこかがちょっぴり疲れていくのを感じていた。


 お茶会を終え、リリーナは家へ戻る。

 そして夜――部屋は静まり返り、窓の外には星の光が瞬いている。

 ベッドのそばの机に、朝見つけたあのエメラルド色のノートが置かれているのを思い出し、そっと手を伸ばした。

 表紙の細やかな装飾に指先を滑らせると、不思議な高揚感が胸に広がった。

 

「……このノートは何なのかしら」

 

 思わず小さく呟き、ページをパラパラとめくる。朝も見た通り、中は真っ白で、何も書かれていない。手元にあったお気に入りの万年筆を取り、少しだけ落書きをしてみた。

 ぐるぐると線を描いたり、小さなウサギの絵を描いたり、インクの鮮やかなエメラルド色が紙に吸い込まれていく。

 

「やっぱりこの色、いいわね」

 

 自分の描いた落書きを眺めてにっこり笑ったその瞬間、ノートがかすかに光った。驚いて顔を上げたけれど、もう一度ノートを見ると落書きの下の方に文字が浮かび上がっている。


『かわいいウサギだね。君は誰?』


 思わず息を飲み、リリーナは周りを見渡すが誰もいない。

 ノートの上には、確かに自分のものではない筆跡――深いネイビーのインクで書かれた、柔らかな文字があった。

 恐る恐る、紙に返事を書く。


『あなたこそ、誰ですか?』

 

 すると、淡い光が再び瞬いた。インクが乾くよりも早く、リリーナの文字の下に、新しい文字が浮かび上がる。


『僕は ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ です。あなたは?』


 彼の名前は、まるで読ませないかのように黒いモヤに覆われていて、どうしても読めなかった。

 

「名前が読めない……?わざとかしら?」

 

 リリーナは眉をひそめ、ペンを取る。


『私は ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ よ。』


 書いた瞬間、彼女の文字もまた、黒いもやに包まれて読めなくなった。何度書き直しても、そこだけ黒いもやがかかるように消えてしまう。


『名前が読めないね』

『ええ。じゃあ、なんて呼びましょうか?』

『名無しさん、でどう?』

『ふふ、じゃああなたも名無しさんね』


 ノートの上で、淡く光る文字が並んでいく。不思議なのに、何故かと怖くない。むしろ、静かな夜にぽつりぽつりと文字が浮かぶのが心地よかった。


『どこに住んでるの?』

『内緒。でも、静かなところよ。今も星が綺麗に見えるわ』

『僕のところも星がよく見えるよ。夜が好きなんだ。』


 そんな何気ないやり取りを続けるうちに、リリーナはふと気づいた。会ったこともないのに、どこか落ち着く。文字を交わすたびに、温かさがそっと胸に広がっていくような不思議な心地よさだった。


 “ノートの向こうの名無しさん”は、見えないのに、やさしい。


 ペンを置いて、リリーナは少し笑った。

 

『そろそろ寝ますね。今日はありがとう。おやすみなさい名無しさん。』

 

 少し間を置いて、ノートがほのかに光る。

 

『おやすみ。いい夢を。』

 

 ページには、エメラルド色のインクと、深いネイビーのインクが並んでいる。

 二色のインクは、静かな夜の空気の中で、そっときらめいているようだった。

 

 リリーナは、不思議な気持ちと楽しい気持ち、ちょっぴり「大丈夫かな……」という気持ちを胸に抱えたまま、ベッドに横になる。

 目を閉じると、ページに残ったエメラルド色と深いネイビーのインクのきらめきを思い出す。なんだかこれから楽しいことがありそうだな、と思いながら、気づけばすやすやと眠りについていた。


 

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