第9話:『浮遊する名前』
小鳥のさえずりで目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
僕は隣を見た。
まだ、冬花は眠っていた。
毛布から出ている右腕。
そこには、昨夜僕がマジックで書いた『冬花』という黒い文字がある。
けれど、僕は息を呑んだ。
文字が、浮いていた。
いや、正確には違う。
文字が書かれているはずの彼女の右腕が、朝の光の中であまりにも透明度を増していて、背景の白い壁と同化していたのだ。
黒いインクの文字だけが、空中に固定されたように漂っている。
「……一ノ瀬」
僕は恐る恐る、その腕に触れた。
ゾッとした。
感触が、希薄だ。
昨夜までは「人間の皮膚」の弾力があったのに、今はまるで「少し硬い空気」を触っているような、頼りない手応えしかない。
「ん……春樹くん?」
冬花がゆっくりと目を開けた。
彼女が身じろぎをする。
その時、僕はもう一つの異変に気づいた。
ベッドが、軋まない。
彼女が起き上がっても、シーツにしわが寄らないし、マットレスが沈み込まない。
「……あれ?」
冬花自身も気づいたようだ。
彼女は自分の手を見つめ、それから身体をさすった。
「なんか……体がふわふわする」
「具合が悪いのか?」
「ううん。気分はいいの。ただ……重力があんまり、仕事してないみたい」
彼女はベッドから降りようとして、ふわりと床に着地した。
足音がしない。
まるで、風船が床に落ちたような軽さだ。
「体重も、消えかけてるんだ」
僕が呟くと、彼女は寂しそうに笑った。
「ダイエット成功、かな」
そんな冗談、笑えるわけがない。
質量が失われているということは、この世界に留まるための「楔(くさび)」が抜けてきているということだ。
「……行こう」
僕は言った。
「どこへ?」
「学校には行けない。君の家にも帰れない。……だったら、俺たちが一番落ち着ける場所へ」
僕たちは部屋を出て、階段を降りた。
一階のリビングからは、朝食の匂いがしていた。
母さんが起きている。
見つからないように出るべきか?
いや、冬花はもう半分透けているし、足音もしない。
もしかしたら、そのまま通り抜けられるかもしれない。
「おはよう、春樹」
リビングのドアが開いていた。
母さんがコーヒーを飲みながら、こちらを見た。
僕は心臓が止まるかと思った。
僕のすぐ後ろに、冬花がいる。
「……おはよう、母さん」
母さんの視線が、僕に向けられる。
そして、僕の背後――冬花がいる場所へと移動した。
「あら?」
母さんが眉をひそめた。
「何かしら、あれ」
見えているのか?
僕は期待と不安で身構えた。
母さんはテーブルの上の眼鏡をかけ、じっと冬花の方を凝視した。
「春樹、あんた……変なマジックの練習でもしてるの?」
「は?」
「ほら、後ろ。空中に黒い落書きみたいなのが浮いてるじゃない」
母さんが指差したのは、冬花の右腕だった。
そこに書かれた『冬花』というマジックの文字だけが、母さんの目には「空中に浮く汚れ」として認識されていたのだ。
冬花という人間の輪郭も、顔も、服も、もう母さんには見えていない。
僕が彼女に存在証明として刻んだ名前だけが、皮肉にも「正体不明のゴミ」として映っている。
「……目の錯覚だよ」
僕は声を絞り出した。
「最近、疲れてるんじゃない?」
「そうかしら……。変ねえ、黒い虫かと思ったわ」
母さんは興味を失ったように、テレビに視線を戻した。
冬花が、僕のシャツの裾をギュッと掴んだ。
その手も、母さんには見えていない。
「行ってきます」
僕は逃げるように玄関を出た。
外の空気は冷たかった。
冬花は俯いたまま、何も言わない。
「黒い虫」。
愛する人の母親からそう呼ばれたショックは、計り知れないだろう。
「……ごめんな」
「ううん」
冬花は顔を上げた。
逆光の中で、彼女の身体の半分が白く溶けて見えた。
「春樹くん。私、おんぶしてくれない?」
「え?」
「もう、歩くのも少し疲れちゃった。……それに、確かめたいの」
僕はしゃがみこみ、彼女を背中に乗せた。
衝撃だった。
軽い。
あまりにも軽すぎる。
まるで、空っぽのリュックサックを背負っているようだった。
彼女の体温も、昨夜よりずっと低くなっている。
「……重い?」
耳元で彼女が聞いた。
「ああ、重いよ」
僕は嘘をついた。
「昨日のカレーの分、重くなってる」
「ふふ、嘘つき」
彼女の冷たい手が、僕の首に回される。
「春樹くんの背中、あったかいね」
「一ノ瀬の体温も、伝わってるよ」
僕は彼女を背負ったまま、歩き出した。
目的地は決まっている。
僕たちの原点であり、最後のスタジオ。
学校の屋上だ。
そこなら、誰も来ない。
そこなら、空に近い。
一歩踏み出すたびに、背中の重みが少しずつ、空気に溶けていくような気がした。
僕は彼女を落とさないように、太ももを支える手に力を込めた。
爪が食い込むほど強く。
消えるな。
まだ消えるな。
僕の祈りを嘲笑うように、澄み渡った秋晴れの空が広がっていた。
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