2. 魔力の満ちる森

霧深い森に一歩足を踏み入れた瞬間、モモは思わず息を呑んだ。肌の上を細い針でやさしく撫でられたように、全身の産毛がふわりと逆立ったのだ。

ひんやりとしているのに、刺すような冷たさではない。むしろ、体温を確かめるように“森そのものが触れてくる”……そんな、説明のつかない感触だった。


(え……なに、この感じ……?)


背筋をくすぐるようなざわめきに、モモは肩をすくめた。息を吸うと、湿った空気の奥に、微かに甘い草木の香りが混じっている。だがその香りですら、誰かの吐息のように感じられ、不安を掻き立てた。


「……なんか空気が違うな」

ゼインが剣の柄を指でくるくる回しながら、きょろきょろと辺りを見回した。


この男はどれだけ張り詰めた空気の中でも、平然と軽口を叩く。今日もいつも通りだ。

森の中は霧が濃く、足元すらぼんやりとしか見えないのに、ゼインは落ち着きなく鼻歌まで歌っている。


「この霧の量、半分くらいサービスだろ? 森の演出って感じ」

「ゼイン、ふざけている場合ではない。足元に注意しろ」

「へいへい、真面目隊長こそそんなに眉間にシワ寄せてると、そのうち石像になるって」

「俺は現実的な注意を促しているだけだ」

「その“だけだ”がもう固いのよ、あんたは」


ふたりのやり取りに、エリシアは小さく息を吐く。

モモは、心の中でそっと突っ込んだ。

(……いやいや、何やってんのよ、ほんとにこの二人)


ただ、その横で、エリシアが少し困ったように眉を寄せているのに気づき、モモの胸がきゅっと締め付けられた。

(エリシアも……この森、普通じゃないって分かってるんだ……)


「魔力が満ちているわ。この霧は自然のものじゃない。森そのものが生きているような……そんな気配がする」

エリシアは指先をふるりと動かし、霧を払うように撫でた。その軌跡に沿って、淡い青い光がふわ、と揺れた。


モモは、その光を見た瞬間、胸の奥にざわりとした波が広がるのを感じた。

懐かしいような、それでいて息苦しいような――。


(これ……知ってる……?)

(いや、知らないはず……なのに……)


足元の苔を踏むと、ぽうっと淡い光が揺らいだ。まるで大地そのものが呼吸しているようだ。

木々の皮には古い文字のような模様が刻まれ、ひとつひとつが淡く脈打つ。耳を澄ませば、遠くで風とは違う、声とは言えない囁きが響いてくる。


「おい、この木、勝手に光ってんだけど……俺、幻覚見てる?」

「幻覚ではない。この森を構成している魔力そのものだ」

「マジで? つーことは……触ったら魔力爆発とかしたりしねぇよな?」

「しない」

「真顔で言うなよ、オレだってそんくらい分かってるって、空気読め!このカタブツ!」


ゼインは肩をすくめて笑ったが、その笑い声は森の奥へ吸い込まれ、すぐに掻き消えた。

その消え方があまりに不自然で、モモの心臓はひとつ跳ねた。


(なに……この感じ……胸がざわざわする……)


まるで失われた記憶が、霧の奥に眠っているかのような――

森そのものが、モモを知っているかのような――。


「……普通の森じゃないな。何かが呼んでいるような、そんな気配だ」

トルヴァルドの低い声が、静かに空気を震わせた。


モモの体がびくりと反応する。

(やっぱり……私だけじゃない……)


誰も見ていないはずなのに、森の奥から視線を感じる。

それは敵意ではない。けれど――温かいとも言えない。

まるで“選別”されているような感覚。


(なにが……私を見てるの……?)


エリシアがふいに振り返り、モモの顔をじっと見つめた。

「モモ、無理はしないで。何か感じるなら言いなさい」

「……えっ? あ、はい……」

心配してくれるその言葉が逆に胸に刺さった。

口にできない。

このざわつきが、自分だけに向けられている気がして。


ゼインが突然、手を叩いた。

「よし! こういう時は元気出すしかねぇ! ほらトルヴァルド、笑え。にっこり」

「お前はなぜそんな能天気でいられる……」

「だって怖いからこそふざけんだよ。怖がってんの、俺だけじゃないだろ?」


その一言に、モモは胸を突かれた。

ゼインの能天気さは、ただの茶化しではなかった。

自分たちを和ませようとしている――

そんな優しさが、馬鹿みたいに真っ直ぐで、モモは思わず目を伏せる。


しかし、森の反応は強まっていく。

木々の間を吹き抜ける風が、まるで先へ進めと囁くように、モモの背中を押す。

それは誘いのようで、警告のようでもあった。


(怖い……でも、懐かしい……何これ……?)


自分の中の何かが、この森の奥に“答え”があると叫んでいる。

けれど、それが幸せなのか不幸なのか、モモには判断がつかなかった。


胸の奥に広がる焦燥感が、歩みを止めようとする理性を押し流す。

この感覚の正体を知らなければ――

前に進まなければ――

「取り残されてしまう」

そんな恐怖があった。


「……行こう」


震える声で言いながら、モモは一歩、霧の深い奥へと足を踏み出す。

その瞬間、森の光がわずかに揺らぎ、彼女を歓迎するかのように静かに脈打った。


その様子を見たゼインは目を丸くした。

「え、今……光った? モモが近づいたら光ったよな?」

「……偶然にしては出来すぎているわ」

エリシアが細めた目で森を見渡す。

トルヴァルドも険しい表情で頷いた。


「どうやら、我々を待っている“何者か”がいるようだ」


ゼインはごくりと唾を飲んだ。

「……マジで爆発はしないよな?」

「しないと言っているだろう」

「今のはちょっと自信なくなったわ〜」


(もう……ほんとに何やってんの、あの二人……)

呆れながら、しかしその掛け合いがほんの少しだけモモの緊張をほぐした。


――だが。

彼女の胸の奥に満ちていくざわめきは、もはや無視できないほど強くなっていた。


何かが眠っている。

いいえ――何かが、私を待っている。


その確信だけは、霧の中でかすかに光る道のように、モモの心を導いていた。

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